Ⅰ 前提の確認――侵略は誰が止められるのか
繰り返しになるが議論の出発点として確認すべき事柄は、実はきわめて単純である。現在進行しているウクライナ戦争は、ロシアによる主権国家ウクライナへの明白な侵略戦争であり、その戦争を即座に終わらせる能力と責任を一義的に有しているのは、侵略行為を行っているロシア国家そのものである。この事実を正面に据えない限り、いかなる「和平論」「停戦論」「現実主義」も、論理的にも倫理的にも成立しない。
ところが、エマニュエル・トッドや佐藤優、さらには日本の左派リベラル言説の多くは、この最初の前提を意図的に、あるいは無自覚のうちに回避したまま議論を展開する。その結果、責任の所在は曖昧化され、批判の矛先はもっぱら「欧州」「NATO」「軍拡」「戦争準備」へと移動していく。
Ⅱ トッド言説の核心――欧州批判による侵略の相対化
トッドは、欧州の再軍備や対露警戒を「非合理」「好戦的」と断じ、日本に対しても「米国より欧州に警戒せよ」と警告する。しかし、ここで彼が一貫して語らないのは、なぜ欧州諸国が軍備を強化せざるを得なくなったのか、その直接的原因であるロシアの侵略行為そのものである。
侵略を起点としない安全保障論は、必然的に因果関係を転倒させる。欧州の対応は原因ではなく結果であり、それを切り離して批判することは、侵略という現実を背景に追いやる効果をもつ。結果としてトッドの言説は、意図の如何を問わず、ロシアにとってきわめて都合のよい物語構造を形成している。
Ⅲ 佐藤優の媒介――「現実主義」が果たす役割
佐藤優は、トッドの議論を日本語圏に紹介・補強する際、「敗北の現実を直視せよ」「負け戦を続けるべきではない」といった現実主義的語彙を多用する。しかしここで言われる「現実」とは、軍事的・物量的な損耗の問題に限定され、国際法上の違法性や侵略責任の所在は二次的なものへと後退する。
この語りは、一見冷静で合理的に見えるが、侵略戦争という性格を捨象した瞬間、被侵略国にのみ「合理性」「自制」「撤退」を求める非対称な論理へと転化する。佐藤の言説は、トッドの欧州批判を、日本的文脈において「常識」や「リアリズム」として流通させる媒介装置として機能してきた。
Ⅳ 土田修論考の問題点――虚構化される「ロシア脅威論」
2026年1月3日付でちきゅう座に掲載された土田修の論考は、このトッド的構図を、さらに露骨な形でなぞっている。土田は、EUの再軍備を「仮想敵国をでっちあげる行為」と呼び、「ロシア脅威論」を虚像と断じる。しかし、この認識は、ロシアがすでにウクライナに侵攻し、占領と破壊を現実に行っているという事実と正面から矛盾する。
侵略の既成事実を前にしてなお「脅威はでっちあげだ」と言い切る態度は、もはや分析ではなく否認である。欧州の軍備拡大がもたらす社会的コストや政治的歪みを批判すること自体は可能であるが、それは侵略という原因を認めた上で初めて成立する。原因を消去した批判は、侵略者の行動を事後的に正当化する効果をもつ。
Ⅴ 左派リベラルの希望語りと戦争の切断
土田論考の後半では、米欧や日本の「極右化」への対抗軸として、民主的社会主義、ミュニシパリズム、SSEといった希望の物語が提示される。しかし、ここでも戦争の現実は奇妙な形で切断されている。侵略戦争が進行する世界と、国内政治のオルタナティヴ運動が、ほとんど無媒介に接続されているのである。
社会的公正や再分配の重要性を否定する必要はない。問題は、それらが侵略戦争という法と暴力の問題を素通りしたまま語られるとき、現実逃避的な慰撫の物語へと変質する点にある。
Ⅵ 結語――自己閉塞としての平和言説
トッド、佐藤優、そして土田修に代表される言説に共通しているのは、戦争を「誰が始め、誰が止められるのか」という問いを回避したまま、周辺的現象――欧州の再軍備、軍需産業、極右化、財政支出――のみを批判する構えである。その結果、「侵略をやめよ」という最初に発せられるべき言葉は消え去り、平和を語る言説そのものが、侵略を背景化する役割を果たしてしまう。
この構えは、日本の左派リベラル言説全体にも広く共有されてきた。即時停戦や反軍拡を唱えながら、侵略主体の特定と責任追及を回避する姿勢は、理念的平和主義が現実の侵略戦争に直面したときに露呈する構造的弱点である。結果としてそれは、被侵略国にのみ自制を求め、加害者の行為停止を要求しないという非対称な倫理を生み出す。
侵略という現実を直視しない平和言説は、善意の装いのもとで自己閉塞に陥る。抽象的な反戦や希望の物語ではなく、侵略者に対して侵略を止めよと明示的に語ること――その最小限の法と倫理の言葉を回復しない限り、左派リベラルの言説は、批判ではなく状況追認にとどまり続けるだろう。その結果、「侵略をやめよ」という最初に発せられるべき言葉は消え去り、平和を語る言説そのものが、侵略を背景化する役割を果たしてしまう。
これは善意の誤りではなく、思想の自己閉塞である。侵略という現実を直視しない平和言説は、結果として現状追認に奉仕する。いま求められているのは、抽象的な反戦でも、希望の物語でもない。侵略者に向けて、侵略を止めよと明示的に語る、法と倫理に基づいた言葉である。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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