資本論を非経済学的に読む 15

著者: 山本耕一 やまもとこういち : 駿河台大学名誉教授
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1. 絶対的剰余価値と相対的剰余価値

 「売り」の困難をめぐる問題のつづきである。順番が前後になってしまい、不手際なことこのうえないが、「絶対的剰余価値」と「相対的剰余価値」について、ここでかんたんにみておこう。これも「売り」の困難と密接に関連している。しかし、その関連にふれるまえに、いくつかのことを確認しておかなくてはならない。

 マルクスは、簡潔に、つぎのようにしるしている。

 「労働日の延長によって生産される剰余価値をわたくしは絶対的剰余価値とよぶ。これにたいして、必要労働時間の短縮とそれに対応する労働日の両成分のおおきさの割合の変化から生じる剰余価値をわたしは相対的剰余価値とよぶ。」(第1巻 334ページ)

「労働日の両成分」、つまり必要労働時間と剰余労働時間についても、マルクスの説明をなぞっておこう。実質的にはすでに前回ふれたことがらであり、くりかえしになるが、重要なことは何回でもという方針でやっているのだから、多少とも角度をかえてみておくのがいいだろう。

「一労働日」を形成する労働時間は、ふたつの「成分」にわけられる。そのうちの一方では、「資本家によってすでに支払われている」価値が再生産される。つまり労働力の価値、労賃に相当する価値がうみだされるのである。そこで「あらたに創造された価値」は、したがって、「ただ前貸可変資本を補填する」にすぎない。この部分が、必要労働時間ということになる。

もう一方の成分は、「労働者が、必要労働の限界をこえて労苦する期間」である。そこでは、「無からの創造の全魅力をもって資本家にほほえみかける剰余価値」が生産される。この部分が剰余労働時間である。(第1巻 231ページ)

資本家にとって、取得する剰余価値量の増加は、つねに最重要の関心事だが、そのための方策は、ふたつある。ひとつは、単純に、労働時間の延長である。この場合、必要労働時間が一定であると前提するなら、労働時間の延長は、そのまま剰余労働時間の延長であり、「絶対的剰余価値」はそのぶん増加する。

もうひとつは、「必要労働時間の短縮」である。これによって、労働日のながさはそのままでも、「これまでは労働者が、事実上、自分自身のためについやしてきた労働時間の一部分が、資本家のための労働時間に転化する。かわるのは、労働日のながさではなく、必要労働と剰余労働への労働日の分割」ということになる。(第1巻331-332ページ)

マルクスによれば、「必要労働時間の短縮」を可能にするのは、「労働の生産力の発展」である。(340ページ)そこで、まず、「労働の生産力の発展」だけをとりあげ検討してみよう。それは、商品の価値の下落という結果をもたらす。

2. 生産力の上昇と特別剰余価値

「いま、ある資本家が、労働の生産力を二倍にすることに成功」したとする。つまり、同一の時間で、二倍の量の商品が生産できるようになるわけである。

とりあえず、「生産手段の価値は不変」としておこう。その場合、変化するのは、労働用具をもちいて原料を「加工するときにあたらしくつけくわえられる価値」だけである。「つけくわえられる価値」は、それぞれの商品について半分になる。そのぶん、商品の価値は減少することになる。

「この商品の個別的価値は、いまでは、その社会的価値よりも低い。すなわち、この商品には、社会的平均条件のもとで生産される同種商品の大群にくらべて、よりすくない労働時間しかかからない。(中略)商品の現実の価値は、その個別的な価値ではなく、その社会的価値である。」だから、「あたらしい方法をもちいる資本家」が、自分の商品を「社会的価値」で売れば、「社会的価値」と「個別的価値」の差額にあたる価値を自分の剰余価値に追加することができる。

この差額は、「特別剰余価値」とよばれる。(第1巻 336ページ)それは、資本家にとって魅惑的な臨時収入である。しかしながら、資本制の現実のなかでは、資本家は、「特別剰余価値」をすべて手にすることができるとはかぎらない。

すでにみたように、生産力が二倍になれば、生産物も二倍になる。「だから、一労働日の生産物を売るためには(中略)二倍の売れゆき、または二倍のおおきさの市場を必要とする。」(第1巻 335ページ)。

「ほかの事情にかわりがなければ」、つまり市場のおおきさが不変なら、新方法をもちいる資本家の商品が、「市場のよりひろい範囲をしめるには、その価格をひきさげるよりほかはない。そこで、かれは、自分の商品をその個別的価値よりもたかく、しかしその社会的価値よりもやすく(中略)売るであろう。」(336ページ)

これによって、この資本家は、他の資本家たちの商品の一部を市場から追いだす。それとともに、かれは、商品の各一個について、他の資本家たちよりも多くの剰余価値を入手するのに成功する。

かれが手にする剰余価値は、たしかに、「社会的価値」と「個別的価値」の全差額よりはすくなくなっている。しかし、それでも、「特別」剰余価値がしっかり確保されていることにかわりはない。

こうしてみれば、「どの個々の資本家にとっても、労働の生産力をたかくすることによって、商品をやすくしようとする動機はあるのである。」(第1巻 336ページ)

3. 生産力の発展と必要生活手段の価値の下落

それでは、「生産力の発展」が、どのようにして「必要労働時間の短縮」をもたらすのかをみてみよう。「あたらしい生産様式」の出現は、当然のことながら、同業の他の資本家たちに影響をおよぼさずにはおかない。

新様式を案出した資本家が、商品を「社会的価値」よりもやすく売れば、他の資本家たちもそうせざるをえない。他の資本家たちが得る剰余価値は、それまでとくらべて減少する。この不利益をはねのけるために、かれらもまた「あたらしい生産様式」を採用せざるをえなくなる。

こうした「競争の強制法則」によって、「特別剰余価値」は、やがては消滅する。「あたらしい生産様式が一般化」され、この方法で生産される生産物の価値が、「社会的価値」になる。その商品について、「社会的価値」そのものが下落するのである。

このことが、ある条件のもとでは、必要労働時間の実質的な短縮を実現し、「一般的剰余価値率」を上昇させる。すなわち、社会全般で、可変資本にたいする剰余価値の割合(m/v)の増大するのである。

これがおこるのは、「生産力の上昇が、必要生活手段の生産部門をとらえたとき」である。「必要生活手段の範囲にぞくしていて労働力の価値の要素をなしている諸商品」が、生産力の上昇によって安価になったとき、一般的剰余価値率もまた上昇する。そうして相対的剰余価値が実現するのである。(第1巻 338ページ)

4. 労働力の価値の低下と相対的剰余価値

 まず、「労働力の価値」について、あらためて確認しておこう。それは、必要生活手段である「諸商品の価値によって規定されている。」したがって、生産力の上昇によって、「生活手段の価値」がさがれば、労働力の価値も下落することになる。

もうすこしていねいにみていきたい。一日の労働時間、および「貨幣価値」が不変なら、一日に生産されるあたらしい価値は一定である。労働者は、「一労働日」であいかわらずおなじ時間労働し、これまでとおなじ量の価値を生産する。にもかかわらず、労働者は、自分がつくりだした価値から、以前よりもすくない量しか手にしない。

資本家が、商品交換の原則にたいする不正をはたらいたわけではない。かれは、労働者にたいし、かれの「労働力の価値」、つまり労働力再生産に必要な価値をはらいつづけている。労働者が手にする価値量が減少したのは、「労働力の価値」の内実をなす「生活手段の価値」(たいていはその一部)が下落したからである。

あたらしく生産された価値量のうち、労働者が手にする分が減少すれば、必然的に残りの部分が増加する。つまり、労働者が入手する価値のための労働時間(必要労働時間)が、労働時間全体のうちでしめる割合はへり、剰余価値を生産するための時間の割合がおおきくなったのである。

まさしく、「生産力の上昇」によって、必要労働時間の短縮がおこり、その結果、剰余労働時間が延長されたのである。こうして、「一般的剰余価値率」が上昇する。

「それゆえ、商品をやすくするために、そして商品をやすくすることによって労働者そのものをやすくするために、労働の生産力をたかくしようとするのは、資本の内的な衝動であり、不断の傾向なのである。」(同上)

もういちど、マルクスの規定にたちもどろう。絶対的剰余価値は、必要労働時間をこえて労働者をはたらかせることで得られる。これにたいし、必要労働時間の一部が剰余労働時間に転化することで生じるのが、相対的剰余価値である。

このような転化が可能になるのは、いまみたように、労働者の必要生活手段の価値が下落したからである。この場合、ひとつのことが前提されている。それは労働者の生活水準がかわらないことである。

生産力が上昇したなら、「労働力の価値」つまり労賃の増額の要求がなされても当然だろう。この要求がとおれば、「生活手段」のリストにのる品目がふえ、労働者の生活水準は、それだけ向上することになる。しかし、これについては、歴史がしめすように、あまりいい実例はみいだせない。

生産力の上昇の成果は、その大部分が資本家の手に集積されていき、労働者がそれを享受することはまれである。そして生産力が上昇するにつれ、この不均衡は拡大の一途をたどっていく。

このことは、資本制のシステムそのものにとって、おおきな問題をはらんでいる。すなわち、「売り」の困難がいっそう深刻化するのである。しかし、それにまつわることがらは、もうすこしさきで検討することにしよう。

5. ふたたび社会的労働の生産力について

ここでは、生産力の上昇をもたらす「あたらしい方法」・「あたらしい生産様式」についてみておきたい。これについては、個別的な工夫・案出をふくめるなら、じつにさまざまなことが考えられる。しかし、マルクスが主要に念頭においているのは、そうした事例ではない。

第1巻第10章「相対的剰余価値の概念」の末尾で、マルクスは、「相対的剰余価値のいろいろな特殊な生産方法の考察にうつろう」としるしている。そして、ただちに章をあらため、協業の検討に着手する。

第11章「協業」につづいて、第12章では「分業とマニュファクチャ」、第13章では「機械と大工業」がとりあげられる。社会的労働のシステムの進展が、これらの章での考察の対象である。

マルクスが、「相対的剰余価値の生産」の文脈のうちで、社会的労働、およびそれがもたらす社会的生産力をとりあげていることは、すでに第1回で指摘した。そこでの議論の復唱は、あまりに芸がなさすぎるとは思うが、重要な論点であるから、再確認することにしよう。

労働は、結合することで、つまり社会的労働になることで、「独自な生産力」をうみだす。これが、「労働の社会的生産力または社会的労働の生産力」である。「他人との計画的な協働のなかでは、労働者は、かれの個体的な限界をぬけでて、かれの類的能力を発揮するのである。」(第1巻349ページ)

視界を限定して、資本制のもとでの「社会的労働の生産力」をみていこう。

労働の「社会的生産力」は、「資本にとってはなんの費用もかからない。」(353ページ)くわえて、「社会的労働の生産力」を現実化するのは、協働する労働者たちである。にもかかわらず、資本はこの生産力の成果をそっくり手中にする。資本が、複数の労働を結合し、社会的労働にするからである。

こうなるのは、資本制に固有の歴史的条件のためである。生産者(労働者)と生産手段の分離は、資本制が成立するための根源的条件である。社会的労働を組織化できるのは、生産手段を所有している資本家(人格化した資本)以外ではありえない。

このようにして資本がわがものにする「社会的労働の生産力」が、「相対的剰余価値」の主要な源泉である。生産力の発展は、どのようなかたちでではあれ、「労働日のうちの労働者が自分自身の労働のために労働しなければならない部分を短縮する。」この発展が目的としているのは、「まさにそうすることによって、労働者が、資本家のためにただで労働することのできるのこりの部分を延長することである。」(第1巻 340ページ)

つぎは、この社会的労働の諸形態をざっとみておくことにしよう。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔study1380:260120〕