――「柔道国家元首」神話が語らないもの
プーチンが柔道を学び、嘉納治五郎を「無条件の権威」と仰いでいる――この事実それ自体は、もはや珍しくもない。問題は、そこから何を導くのか、である。
岩田昌征は、プーチンの人格形成における柔道と武士道の影響を丹念にたどりながら、最終的にはこう示唆する。すなわち、もし国際社会が過去にもっと「正しく」振る舞っていれば、プーチンはウクライナ侵攻に踏み切らなかったのではないか、と。
だが、この仮説が成立するためには、いくつかの前提が必要になる。
第一に、武士道とは何か。
第二に、武士道が国家暴力の行使をどこまで正当化しうるのか。
第三に、侵略戦争は「礼」や「ルール」の欠如として説明可能なのか。
結論から言えば、いずれも成立しない。
プーチンで交叉する武道理性と人文悟性――嘉納治五郎と例えばハーバーマス――
武士道とは「感情を排した合理性」なのか
岩田は、沢庵の言葉を引きながら、武士道を「感情の入る余地のない冷静な精神」として描く。だが、ここで奇妙な反転が起きている。
もし感情を排することが武士道であるならば、市民を無差別に殺傷するミサイル攻撃は、最も感情を排した行為の一つである。冷酷で、計算的で、効率的だからだ。
では、それは武士道的なのか。
言うまでもない。そうではない。
武士道とは本来、力を持つ者が、それをどこで、どのように抑制するかという倫理であったはずだ。強者の合理性を賛美する思想ではない。
ところが岩田の叙述では、武士道はいつの間にか、「強者が自らを正当化するための内面修養」へと変質している。
それは武士道ではなく、武士道という言葉を借りた心理学的美談にすぎない。
「通りにはルールがない」から侵略は理解される?
プーチンが語る「通りにはルールがない」という少年時代の記憶は、確かに示唆的だ。しかし、ここで岩田は決定的な飛躍を行う。
国際社会は「通り」のような無法地帯であり、だからプーチンは侵略を学んだのだ、という含意である。
だが、ここには致命的な混同がある。
ルールが破られる世界と、ルールが存在しない世界は全く別物だ。
国際法は不完全であり、しばしば無視されてきた。しかし、それは存在しないことを意味しない。
むしろ、ロシアが繰り返し「国際法」を持ち出して自らを正当化しようとする事実こそ、ルールの存在を逆説的に証明している。
「通りにはルールがない」という比喩は、侵略者が責任を回避するための言い訳としては便利だが、分析概念としては粗雑すぎる。
武士道は卑劣な行いの言い訳を探す思想ではない
最も皮肉なのはここだろう。
もしプーチンが本当に嘉納治五郎の「精力善用・自他共栄」を内面化しているのなら、ウクライナ侵攻はその完全な否定である。
他者の主権を破壊し、都市を瓦礫にし、子どもを殺し、数百万を難民にした行為のどこに「共栄」があるのか。
それとも、武士道とは、
侵略を「特別軍事作戦」と呼び替える語彙の技術
責任を過去の西側に転嫁する物語構築
自らの暴力を「やむを得なかった」と納得する精神訓練
を指すのだろうか。
もしそうなら、武士道とはずいぶんと都合のよい思想である。
ハーバーマスを呼び出して免罪する倒錯
岩田は、1999年のNATOによるセルビア空爆を引き合いに出し、ハーバーマスら人文知性がそれを容認したことが、プーチンを教育してしまったのだ、と示唆する。
だが、仮にその批判が正しいとしても、そこから導かれるのはただ一つである。
「だからロシアも侵略してよい」という結論は、どこからも出てこない。
過去の誤りを理由に現在の犯罪を説明することはできても、正当化することはできない。
それができると考えるなら、それは倫理ではなく、報復神話である。
結語:武道理性は、国家暴力を美化しない
武道とは、力の行使を洗練させる技術ではなく、力を行使しない判断を可能にするための修養であったはずだ。
プーチンが柔道を学んだという事実は、侵略を理解する鍵ではない。
むしろ、侵略がいかに武道の理念を裏切っているかを示す反証である。
武士道を持ち出して侵略を語るとき、我々が目にしているのは、日本文化の深い理解ではない。
それは、卑劣な行いに、もっともらしい精神史的装飾を施す試みにすぎない。
武士道は、侵略の免罪符ではない。
それをそう使おうとする瞬間、語る者自身が、武士道から最も遠い場所に立っている。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔opinion14640:260123〕










