資本論を非経済学的に読む 16

著者: 山本耕一 やまもとこういち : 駿河台大学名誉教授
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1. 協業

 「相対的剰余価値の生産」は興味ぶかい篇である。その記述をたどっていくと、人間や社会といった基本的なことがらについて、マルクスがどのようなイメージを描いていたかが、なんとなくみえてくる。

この篇で考究の対象となるのは、社会的労働の組織化の諸形態である。最初にとりあげられるのは「協業」である。

「協業」は、おそらく人類の歴史とともにふるい。したがって、協業を論じようとすれば、ある程度、人間そのものについてふれざるをえないことになる。

 あらためての確認になるが、人間が社会的存在であることは、マルクスの基本的了解である。『資本論』でも、この「協業」の章で、人間は生来「社会的動物」であることが指摘されている。

 社会的存在である諸個人のかかわりあいが「協働」である。いうまでもなく、諸個人が、相互に働きかけあいながら関係をつくりだすというのは、生産の場面に限定されることではない。

生産、とりわけ物質的生産が、「協働」の典型であることはたしかである。労働は、諸個人のかかわりあい、いいかえるなら、社会的諸関係の基本的骨格をなしている。

しかしながら、人間にかかわる事象のあちこちに「協働」が存在する。個人は、他の諸個人とかかわりあうことでしか生きられない。生産の場面での「協働」をはじめとするさまざまな「協働」が、諸個人の生を根底からささえているのである。

そうはいっても、生産ではない「協働」についての記述は、マルクス・エンゲルスの論稿にはあまりみあたらない。これが、『資本論』の社会的労働の組織化の議論が注目に値するゆえんである。

また、第4回・第5回でもふれたが、資本制のもとでの社会的労働の指揮と支配が、「協業」の章でとりあげられている。

諸個人が、相互に働きかけあいながらつくりだす諸関係は、いうまでもなく、かならずしも支配を必要とはしない。その一方で、階級社会であれば、おおくの部面の「協働」に、程度の差はあるが支配がつきまとう。『資本論』は、「協働」における支配についても、重要なてがかりを提供してくれる。

こうしてみれば、社会的労働の組織化の記述の重要性が、あらためてうきぼりになる。とりわけ、その端緒となる「協業」には、相応の顧慮が必要になる。

 まず、協業の定義をみておこう。

 「おなじ生産過程で、またはおなじではないが関連があるいくつかの生産過程で、おおくの人びとが、計画的にいっしょに協力して労働するという労働の形態を協業という。」(第1巻 344ページ)

 あわせて、資本制のなかで「協業」がしめる位置も確認しておこう。

 「協業の単純な姿そのものは、そのいっそう発展した諸形態とならんで、特殊な形態としてあらわれるとはいえ、協業は、つねに資本制生産様式の基本形態である。」(355

ページ)

 すなわち、資本制におけるマニュファクチャも大工業の分業も、協業という「基本形態」がとる「特殊な形態」なのである。

2. 「社会的平均労働」の発現と「価値」

 マルクスは、「協業」と関連させながら、『資本論』全体の根幹にかかわる重要な論点を呈示する。最初に、それをみておこう。

協業の定義では、「おおくの人びと」がいっしょに労働することが指摘されている。資本制にとって、このことは、きわめて重要な要件である。

資本家が、「かなり多数の労働者を同時にはたらかせる」ようになることが、「歴史的にも概念的にも、資本制的生産の出発点をなしている。」(第1巻 341ページ)このことによって、資本制の理解に不可欠の価値という概念も、はじめて現実的になる。

第1章第1節の後半に、つぎのような記述がある。

「諸価値の実体をなしている労働は、おなじ人間労働であり、おなじ人間労働力の支出である。」この場合、「無数の個別的労働力」は「ひとつのおなじ人間労働力とみなされる。」これらの個別的労働力は、「社会的平均労働力という性格をもち、このような社会的平均労働力として作用する。」(第1巻 53ページ)

あらためて確認しておくなら、「価値」と「社会的平均労働力」は不可分である。後者を前提として、はじめて前者が成立する。しかしながら、この個所では、「社会的平均労働力」が、どのようにして現実的になるかは説かれていない。

実際に「社会的平均労働力」が出現するのは、「資本制的生産の出発点」である「協業」においてである。マルクスの説明をおっていこう。

「価値に対象化される労働は、社会的平均質の労働であり、したがって、平均的労働力の発現である。ところが、平均量というものは、つねに、ただ同種類の多数のちがった個別量の平均として存在するだけである。」(342ページ)

「社会的平均労働力」を単純に実体化せず諸個人から出発するこのあたりの議論のはこびは、唯物論者マルクスの面目躍如といえるだろう。

ところで、「個別的労働者」の「個別的偏差は、数学では『誤差』とよばれるものであるが、それは、いくらか多数の労働者をひとまとめにして見れば、相殺されて、なくなってしまう。」(343ページ)

 「だから、価値増殖一般の法則は、個々の生産者にとっては、かれが資本家として生産し、多数の労働者を同時に充用し、したがって、はじめから社会的平均労働をうごかすようになったとき、はじめて完全に実現されるのである。」(同上)

 こうしてみれば、「価値」の現実化ということからしても、「協業」は資本制の原点なのである。

3.  「社会的労働の生産力」の「資本の生産力」への転化

 「協業」による「相対的剰余価値の生産」の生産にもどって、議論の眼目を再確認しておこう。

結合した社会的労働は、個別的労働者の力の単純な総和をこえた「社会的生産力または社会的労働の生産力」うみだす。この「労働の社会的生産力は、労働者が一定の諸条件のもとにおかれさえすれば、無償で発揮される。」(第1巻 353ページ)

結合した社会的労働力が「社会的生産力」をうみだすというのは、人類史に普遍的なことがらである。とはいえ、資本制のもとでは、結合のための「一定の諸条件」をつくりだすのは、いうまでもなく資本である。

生産手段の生産者からの分離は、資本制の根本原理である。生産手段をもたない労働者は、資本に労働力を売るしかない。「独立した人としては、労働者たちは個々別々の人である。(中略)かれらの協業は、労働過程にはいってから、はじめて開始されるのであるが、しかし、労働過程では、かれらは、もはや自分自身のものではなくなっている。労働過程にはいると同時に、かれらは資本に合体されている。」(352ページ)

生産手段の所有者としての資本家だけが、社会的労働を組織化しうる。個々別々の労働者たちは、資本の指揮のもとで、「協業者」になる。

協業がうみだす「社会的生産力は、資本にとってはなんの費用もかからないのだから、また他方、この生産力は、労働者の労働そのものが、資本のものになるまでは、労働者によって発揮されないのだから、この生産力は、資本が本来もっている生産力として、資本の内在的な生産力として、あらわれるのである。」(353ページ)

「社会的労働の生産力」の成果は、こうして、「相対的剰余価値」として、資本家に領有される。

個別の資本家の手に帰した「相対的剰余価値」が、前回ふれた「特別剰余価値」である。(これには「社会的生産力」以外の要因も寄与しているかもしれない。)「特別剰余価値」をめぐる諸資本家の競争は、これもすでにみたように、やがて資本家階級全体にとっての利益を実現することになる。

競争は、労働者の必要生活手段の価値の下落という結果をもたらし、必要労働時間が圧縮される。あらゆる労働過程で、必要労働時間の一部が剰余労働時間に転化し、「相対的剰余価値」がうみだされるのである。

4. 「協業」の諸相

「協業」が、具体的にどのように「社会的生産力」をつくりだすのかをみてみよう。348ページから349 ページで、マルクスは9つの要因を列挙している。

① 労働の機械的潜勢力をたかめる

② 労働の空間的作用範囲を拡大する

③ 生産規模にくらべて空間的生産場面をせばめる

④ 決定的な瞬間におおくの労働をわずかな時間に流動させる

⑤ 個々人の競争心を刺激して活力を緊張させる

⑥ おおくの人びとの同種の作業に連続性と多面性を押印する

⑦ いろいろな作業を同時におこなう

⑧ 共同使用することで生産手段を節約する

⑨ 個々人の労働に社会的平均労働の性格をあたえる

マルクスがあげている例にそくして、それぞれの項目の内容をみていこう。

①では、「重い荷物を揚げるとかクランクをまわすとか障害物を排除する」という例があげられている。この場合、「おおくの力がひとつの総力に融合する」ことから、「あらたな潜勢力」が生じる。「結合労働の効果」は、「それ自体として集団力でなければならないような生産力の創造」となってあらわれる。(345ページ)

ここでは、めずらしく、労働過程以外での「協働」が、たとえに使用されている。「騎兵一中隊の攻撃力」や「歩兵一連隊の防御力」は、「各個の騎兵や歩兵が個々別々に発揮する攻撃力や防御力の合計と本質的にちがう」というのが、それである。当時の読者にとって、これは直感的にわかりやすい説明だったにちがいない。

②の例は、「土地の干拓とか築堤とか灌漑とか運河や道路や鉄道の建設」である。これらは労働対象が空間的にひろがっているので、「協業が必要になる。」(348 ページ)

③については、注で引用されているR・ジョーンズ『富の分配に関する一論』の例がそのまま使用されている。

「農耕の進歩につれて、以前には500エーカーの土地に分散的にもちいられていた資本や労働のすべてが、そして、おそらく、もっとおおくのものが、いまでは100エーカーの土地のいっそう完全な耕作のために集中されるようになる。」この場合、「空間範囲」は「制限される」が、「労働の作用範囲」は「拡大」される。

このことによって、「多額の空費(faux frais)」の節約が可能になるが、それは「労働者の密集、いろいろな労働過程の近接、生産手段の集中から生じる。」(同上)

④では、羊の毛刈り、穀物や綿花の収穫、ニシン漁が例にされている。これらでは、「生産物の量も質も、作業がある一定の時期にはじまって、ある一定の時期におわるということにかかっている。」(347ページ)

そのため、「労働期間のみじかさが、決定的な瞬間に生産場面に投ぜられる労働量のおおきさによって埋めあわされる。」(同上)この場合、労働者が、個々別々に同量の作業をする場合と比較して、必要な労働者数はすくなくてすむ。

⑤にかんしては、例はあげられていない。「たいていの生産的労働では、たんなる社会的接触が、競争心や活力(animal spirits)の独特な刺激をうみだして、それらが各人の作業能力」をたかめる。その結果、いっしょに労働する労働者の総生産物は、めいめいが一人で労働する同数の個別的労働者の生産物の合計よりも、「ずっとおおきいのである。」(345ページ)

これは、労働以外の「協働」にもそのまま適用できる記述である。マルクスは、この個所に人間は「社会的動物」である旨を書きそえている。あたりまえすぎるが、社会的存在としての人間というマルクスの根本的了解が、労働についての洞察に裏打ちされていることを実感させられる。

⑥の「連続性」であげられている例は、本連載の第1回でとりあげた「レンガ積み工」である。

⑥の「多面性」と⑦の「同時性」の例としては、「ひとつの建物が、いくつものちがった方面から同時に着工する場合」があげられている。

この場合、「協業者たちは、おなじことか、または同種のことをするにもかかわらず、労働の結合が生じる。(中略)結合労働者または全体労働者は、前にもうしろにも目と手をもっており、ある程度まで全面性をもっている。」このため、「自分たちの仕事にそれよりも一面的に着手しなければならない多少とも個々別々の労働者」にくらべて、「よりはやく総生産物をおくりだす。生産物の種々の空間部分がおなじ時間に成熟するのである。」(346ページ)

⑧としては、「おおくの人びとがそのなかで労働する建物」、「原料のための倉庫」、「容器や用具や装置」などの「共同での消費」があげられている。「共同で使用される」ことになれば、「生産手段の規模はおおきくなる。」しかし、「その規模や有用効果に比例しては増大しない。」このことは、生産物の価格の低下に直結する。すこしながくなるが、マルクスのていねいな説明を引用しておこう。

「共同で消費される生産手段は、各個の生産物には比較的ちいさい価値成分をひきわたす。というのは、ひとつには、それらのひきわたす総価値が、同時に、よりおおきい生産物量のあいだに割りあてられるからであり、またひとつには、それらは、個々別々に使用される生産手段にくらべて、絶対的にはよりおおきい価値で生産過程にはいるが、それらの作用範囲をかんがえるなら、相対的にはよりちいさい価値で生産過程にはいるからである。これによって、不変資本のひとつの価値成分は低下し、したがって、この成分のおおきさに比例して、商品の総価値も低下する。このような、生産手段の充用での節約は、ただ、それをおおくの人びとが労働過程で共同に消費することだけから生じる。」(344ページ)

マルクスは、このようなありかたをした生産手段を「社会的労働の条件または労働の社会的条件」とよぶ。ついでにいえば、「労働手段の一部分」は、「労働過程そのもの」が社会的になる以前に、「この社会的性格」をうけとる。つまり、「協業」が始まる以前から、「共同の使用」による生産手段の「節約」はおこなわれている。「協業」の開始とともに、この「節約」は大規模化・本格化するのである。

⑧についての記述は、他の項目にかんする記述にくらべると相当にながい。これは、「労働」や「労働条件」の「社会的性格」の重要性に対応しているとみることができる。そして、「この社会的性格」は、資本制のもとでは、「相対的剰余価値の生産」とってきわめて重要な機能をはたすのである。

すでにみた項目である⑨には、⑧の倍くらいの分量がさかれている。⑨が、今回の2で指摘したように、「価値」の現実化と不可分である以上、これは当然ともいえる。

その一方で、これが「社会的生産力」をうみだすというのには、多少とまどいをおぼえるが、これは、おそらく、個別の労働者の能力に左右されるという脆弱性の克服にかかわると思われる。「多数の労働者を同時に充用」することは、実質的に「社会的平均労働」をうごかすことである。これによって、資本家は、個別の労働者の能力にかかわりなく、安定的に一定の率の剰余価値を手にすることができるのである。

おそらくマルクスは、これらの9つの利点は、未来社会にそのまま生きると考えていた。それらは、すくなくとも、生産の現場にいる人間に不当な苦痛をしいるものではないからである。

社会的存在という人間についての了解は、現代では空気のようにあたりまえになっている個人主義的な人間観とは完全に異質である。個人主義では、アトムとしての個人に還元できないものはない。諸個人が関係しなければ創出できないものについても、各人の寄与度を明確に計測できるという前提にたち、それぞれへの配分をおこなう。(「自己責任」はまさしくこうした発想にふさわしい。)

このような立場からは、「社会的生産力」への理解はでてきようがない。関係した諸個人は、各人のちからのたんなる総和をこえた力(これは生産の場面に限定されない)をうみだす。「協業」の章で呈示されたマルクスのこの人間観は、逆風のただなかにある。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔study1381:260220〕