二十一世紀ノーベル文学賞作品を読む(22-下)

莫言(中国、1955~)の人となり

『赤い高粱』(岩波現代文庫)の訳者・井口晃氏(中央大学文学部教授)は巻末の「解説」にこう記す。

莫言の本名は管謨業。1955年、山東省高密県大欄郷平安村の、ごく普通の農家に生まれた。莫言というペンネームの由来について、作家は「小さな自伝」という短いエッセーの中で、「この名前を付けたのは、軽々しく発言するな、と自分を戒めるためだ」と書いた。ただ、この作家は伝説が好きなようだ。幾つかの随筆の中で、自分の経歴について微妙に違った記述をしている。この「証言」も額面通りに受け止めてはいけないかも知れない。「謨」という字を二文字に分ければ、「莫言」になるのは言うまでもないが、中国語の方言では「莫言」の発音が「謨業」に近いことも考慮に入れるべきだろう。

「わたしの先生((『我的老師』))というエッセーを読むと、莫言の生い立ちは普通の農民の子とやや違うことに気づく。幼い頃、莫言の村はたまたま国営農場に移管されたため、村民たちは自動的に農場労働者へと身分が変わり、莫言は農場労働者の子として幼稚園に入った。1950年代の中国では、農民の子が幼稚園に入園するのは、極めて珍しい。

しかし、幼稚園の管理はかなりずさんであった。給食の不正や体罰の問題などが相次いで起こり、心配した両親は5歳の莫言を早めに小学校に入学させた。小学校5年生の時に文化大革命が起こり、莫言は中学校に進学できないまま。農民になった。未成年ながら、1人の働き手として田畑を耕し、農作業の厳しさを体験した。その間に見聞きしたことや、味わった苦楽は後の小説創作に生かされた。

1973年、1つの転機が訪れた。莫言は綿花工場の嘱託として雇われた。当時、農民の就労は極めて難しかったが、莫言の叔父は綿花工場の経理責任者をしていたので、そのコネで工場で働く機会を得た。『白い綿花』((『白綿花』))という小説はその間の体験に基づいたものと思われる。

1976年は莫言にとって運命の年であった。その年、彼は幸運にも念願の軍人になった。しかも、彼の言葉で言えば、1歳若く詐称しての入隊であった。もし陸軍に入隊しなかったら、彼は今も中国の無数の農民の1人として、古老の大地にへばりつく生活をしていたかも知れない。

無論、莫言が軍人を志願したのは、農民という中国社会のシュードラ((奴婢))という身分から抜け出すための、ほとんど唯一の道であったからだ。社会の最低辺で辛酸をなめ尽くした青年の、世間を見る目は冷徹であった。凄絶な生き残り競争を勝ち抜くために、どうすればよいかを本能的に体得していた。幾度の人生の失敗によって、かえって人心の機微を洞察する能力を身に付けたからだ。入隊を申し込んだ時も、新兵になってからも人間関係を巧みに生かし、幾つかの関門をくぐり抜けることができた。

軍人としての莫言は先ず先ずのスタートを切った。新兵教育期間が終了すると、野戦部隊ではなく、大隊本部の馬車班に配属された。3年後の1979年秋、新兵訓練隊の政治教員に転任したのをきっかけに、小説の創作を始めた。1981年、地方の文芸誌『蓮池』に処女作『雨連綿の春の夜』を発表し、作家デビューを果たす。翌年『醜い兵隊』、『子供のせいで』、『雪破片』を立て続けに発表し、作家として徐々に頭角を現した。同年、小隊長待遇の政治教員に昇格し、まもなく北京にある軍関係の機関に転任。1983年、短編『綿花を売る大通り』が『小説月報』に掲載され、作家として精力的に活動を開始する。

初出:「リベラル21」2026.03.11より許可を得て転送
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