2月8日に行われた第51回衆議院選挙は議席数を見るならば、高市早苗が率いる自民党が大勝し、野党第一党だった立憲民主党は公明党と合流し、中道改革連合となるが惨敗した。共産党やれいわ新選組といった左派リベラル勢力も大きく後退した反面、参政党のような右派ポピュリズム勢力は前回の参議院選挙と同様に有権者に一定数の支持を得た。
私は政治学者でも政治評論家でもなく、社会学者でもなく、記号学者である。そのような人間がこうした政治問題、それも選挙という制度やその結果について発言するのはあまりにも畑違いのことであり、無謀なことであるという批判を受けても当然である。しかしながら、今回の選挙結果は異常であると共に、かつて見た光景の三度目の繰り返しであるという事実は重大である。このことに対して、畑違いを理由に沈黙していては最悪の歴史が繰り返されるのではないかと強く危惧し、私はこの小論を書くことを決めたのである。
普段から政治について真剣な姿勢で考察している人間であるならば、今回の現象について何らかの的確な判断ができるのかもしれないが、現在までのところ、私の知る限りでは納得のいく分析は現れてはいない。参照すべき探究がないのであれば、自分で分析装置を設定し、立論していかざるを得ない。だが、政治的問題に対して厳密な分析を行う能力を私は持ち合わせていない。それでも、記号学や言語学に関する僅かばかりの研究を行ってきた私には、専門分野でのアプローチ方法からのいくつかの論文がある。そこで展開した方法が政治問題に対する分析にも使える可能性はある。そう考え、ここでは以下の三つの分析装置を用いて、現在の日本の政治状況と、有権者の問題点を解明していこうと思った。その三つの分析装置は、「主権者」、「反知性主義」、「B層の問題と選挙戦略」である。
主権者とは何か
主権はフランス語ではsouverainetéであり、「主権」以外に「至上権」という意味もある。この意味の二重性は重要である。この点に関して、社会学者の正村俊之は『主権の二千年史』の中で、「(…) 主権とは「至上の権威・権力」を意味している。主権が通常の権力から区別されるのは、主権が絶対的・恒久的な立法権として現れるからである」と述べている。正村は、さらに、「つまり、通常の権力が法に拘束され、法の内側に位置するのに対して、主権は法の制定・改変を行いうる権力として、法の外側に位置しているのである。いかなる法に対しても、その外側に立ちうるところに、主権の絶対性・恒久性を見て取ることができる」とも述べている。このことを端的に言い表したのが、カール・シュミットが『政治神学』の中で主張した「主権者とは、例外状況にかんして決定をくだす者をいう」(田中浩、原田武雄訳) という言葉である。したがって、法的レベルで見ても、権力というレベルで見ても、主権とは非常に特殊な概念であり、政治装置であるのだ。
近代において主権概念を厳格に定義したのは、王権神授説 (droit divin) を唱えたジャン・ボダンである。彼は国王の権力は神の至上権や絶対的権威を譲り受ける形で与えられたものとして定義した。つまり、主権とは元来は神権に起源を持つ主権者の権利なのである。だが、国民国家に基づく近代民主主義が確立されていく中で、主権概念の根底にあった神の威光に基づく権利という側面が消滅していく。それを人間中心主義の出現と考えることもできるであろうが、そのことよりも近代の主権が国民にあることの意義をわれわれは熟考しなければならない。何故ならば、そのことが今回の衆議院選挙でのデモクラシーの荒廃に大きく関与しているからである。
政治の次元で、主権が最高の権利である以上、その権利を如何に用いるかは主権者である国民にとって何よりも大きな問題である。しかしながら、この権利の行使において最大の出来事は一般意志 (volonté générale) を実現する代表者を選ぶこと、すなわち、選挙権の行使である。ジャン=ジャック・ルソーが語ったように民主主義の原理が最も明確に反映される選挙によって実現する一般意志においては、少数者が多数者に従うというだけではなく、選ばれた人間の意志が全員一致と見なし得る一般意志として働くということが問題となる。ルソーは『社会契約論』の中で、「(…) 選挙が全員一致でないかぎり、少数者は多数者の選択に従わなければならぬという義務は、一体どこにあるだろうか?(…) 多数決の法則は、それ自身、約束によってうちたてられたものであり、また少なくとも一度だけは、全員一致があったことを前提とするものである」(桑原武夫、前川貞次郎訳) と主張している。
間接民主主義体制下での多数決の恐ろしさは、たとえ100万人の中の500001人がAという人間や政党に投票し、残りの499999人が投票しなかったしても、多数決の原理ではAが選ばれるというだけではなく、Aは様々な政治的権力を獲得することとなる点である。過半数に一人足りないAを支持しない多くの有権者の意見は喪失するのである。これは正常な、理性的な帰結と言えるのだろうか。また、今回の衆議院選挙での投票率は56.26%であったが、例えば、小選挙区選において自民党に投票した割合は約49.1%にも拘わらず、議席獲得率は約85.8%の249議席に上った。投票率が56.26%であるので、特異なケースを除き単純化して見れば、自民党の候補者に投票した有権者の割合は27.62%に過ぎないのだ。だが、結果は自民党の議席数が異常に多かったのである。民主主義の実現にとって多数決の原理が正しいかどうかという問題に関してこの小論の中で考察している余裕はないが、この原理が最善の方法と言えるには疑問が多いことは確かである。特に、現在日本で行われている小選挙区制は日本の現状にまったく適合しない選挙制度であるということは否定できない事実である。
反知性主義
白井聡は『主権者のいない国』で、「(…) 政権支持から不支持に転じたのならば、逆に政権不支持から支持に転じたのならば、かつて政権を支持したあるいはかつて政権を支持しなかった自分は、何を根拠に支持⁄不支持だったのか、かつての自分は何であったのか――この自らに振り向けられる内省の問いがない限り、主権者など存在しようがない」という意見を提示し、さらに、「それがない限り、存在するのは、その時々のスペクタクルによって振り回される、換言すれば、広告屋と組んだ権力者がいとも簡単に操作できる群衆がいるだけだ」と言っている。白井が語っている自己分析力や論理性を、今回の衆議院選挙で自民党に投票した有権者が持ち合わせていたのかどうかを問うことは絶対的に必要なことである。何故ならば、投票に対する一定の基準や一貫性がなかったならば、今回の選挙はまさにコメディーにしか過ぎなかったと述べ得るからだ。
確かに、たとえ思想家であっても、日本にはその時々の政治状況によってカメレオンのように変色する特質を持つ多くの人間が存在した。1956年に書かれた『現代日本の思想―その五つの渦―』において、鶴見俊輔は、「頭山秀三、天皇、東久邇首相、高坂正顕、大妻こたか、どの人をとって見ても、それら、日本の軍国主義のにない手となった公人たちは、かつて民主主義者であった時期をもっているのである。日本の歴史は、過去百年に数回、国家的な温度をかえてきたので、(…) 昨日まで軍国主義者であっても、必要に応じて自分の民主主義時代の体温をよびさますことができるのである。かれらは温度調節に長じ、決して風邪をひくことのない思想家である」という指摘を行っている。だが、こうした思想家や政治的リーダーが体温の変えられる変温動物である以上に、現状を見れば、日本の一般の有権者はカメレオンなのではないだろうか。この事実を熟考すれば、白井が言うように、この国には主権者など殆どいないという結論が導かれる。
主権者の不在を招いた最大の原因は、一言で言うなら、有権者の強烈な反知性主義的な傾向である。もちろん、反知性主義的な傾向は現代の日本にだけ特徴的なものではない。ホセ・オルテガ・イ・ガセットがすでに『大衆の反逆』の中で、大衆の持つ無思考性や反知性主義に対する厳密な分析を行ったように、近代民主主義の主権者である国民が、大衆化した結果、民主主義というシステムが危機に瀕する可能性に対して、多くの知識人が警鐘を鳴らしてきた。しかしながら、こうした民主主義を支えるはずの主権者である国民の欠陥は、ますます拡大している。ロシアでのプーチン政権の継続、アメリカでの第二次トランプ政権の誕生といったものは民主主義的と見なされた選挙を通して実現したものである。今回の自民党の大勝も選挙制度の問題点があるのは当然であるが、有権者の投票基準が理知的でも、冷静な判断によるものだとはまったく考えられないのである。何故なら、自民党の候補者には多くの裏金議員が存在し、その中には前回の衆議院選で落選した候補も多数存在していた。何故彼らは、前回は選ばれずに今回は選ばれたのか。彼らに投票した多くの有権者の判断基準に確固とした論理や、政治思想はなかったのではないだろうか。高市早苗に付属するイメージが自民党の候補者全員にも反映したのは確かだ。それも何の実績もない彼女のイメージの評価はあまりにも高かったのだ。しかしそうであるならば、それはチェコ出身のフランスの作家であるミラン・クンデラが提唱したイメージによって行動方針が決定されるイマゴロジー (imagologie) によって政治権力が決定してしまったと述べ得るのではないだろうか。自由で自律し、理性的であるべき有権者が、そうではなく単なるイメージだけで投票を行ったために、自民党の大勝という結果となったのである。それを民主主義の没落と言っても過言ではないだろう。
B層の問題と選挙戦略
小泉純一郎が首相であった時の一般に郵政民営化選挙と言われている選挙で、彼の選挙対策ブレーンは広告会社のスリードに選挙戦略プランを立てるように要請した。その時まとめ上げられたものが「郵政民営化・合意形成コミュニケーション戦略」という報告書である。このことについてジャーナリストの適菜収は『日本をダメにしたB層の研究』において詳しい説明を行い、B層を「マスコミ報道に流されやすい『比較的』IQ (知能指数) が低い人たち」と規定している。今挙げた報告書の中でスリードは有権者をA、B、C、Dの四つの層に分けたのだが、それぞれの層の特質は以下のようにまとめあげることができる。A層は郵政民営化に賛成で知的水準が高い層。B層は上記した層であるが、郵政民営化に関して言うならば、郵政民営化に賛成で、知的水準が低い層。C層は郵政民営化に反対で、知的水準が高い層。D層は郵政民営化に反対で、知的水準が低い層。この四つの層の中で、B層をターゲットとして絞り、徹底的にアプローチし、選挙戦を行った結果、小泉自民は圧勝したのである。
この有権者の四つの階層の定義は賛成しかねる点も多々あるが、この時の選挙戦略と同じ方法が、第二次安倍晋三内閣が発足した2012年に行われた第46回衆議院選挙においても、保守的で反知性主義のB層対策の強化が自民党の圧勝に繋がったと考えられ、今回の衆議院選挙でも結局はB層を取り込んだ自民党の選挙戦略が勝利の大きな要因と考えられる。適菜の意見には問題点も多く、郵政民営化選挙をベースとしたものであるために、ここではB層を「保守主義あるいは右派的政治傾向を有し、反知性主義、つまりは、マスコミやネットで流されるイメージに無批判に流される層」と定義し直し、論述を進めていくが、B層の特徴とは結局、右傾化しており、イマゴロジーによって政治判断する大衆と考えることができる。
この層の危険性は、論証性や様々な知識や分析力を持つことがない点と、積極的に政治参加しようとする点にある。A層とC層は保守主義かリベラルかという違いはあるが、自らの政治イデオロギーを有しており、そのイデオロギーに対する論理的な説明も可能な層である。D層は政治的関心を失ったか、貧困のために思考力を奪われ、政治参加が不可能となった層であると考えられる。それに対して、B層は強烈な反主知主義とイマゴロジーに多大な影響を受けた層であるが、積極的に投票活動を行う。彼らはイメージに頼るために、権力側が流す情報コントロールに簡単に騙され、政治状況を悪化させてしまう。2005年の第44回衆議院選挙の争点は「郵政民営化」である。民営化つまりはグローバリゼーションの是非が問われたが、「民営化」という言葉のイメージに飛びついたB層の有権者によって自民党が大勝したが、グローバリゼーションの弊害はあまりに酷く、現在、貧困層を直撃している。2012年の第46回衆議院選挙の選挙の争点となったのは「安定政権」である。この言葉のイメージに飛びついたB層有権者は多い。その後、確かに、安倍晋三による長期安定政権が実現したが、それによって裏金問題や安倍晋三の森友事件などに関する虚偽発言といった政治的腐敗が進行していった。この腐敗を招いたのもB層の有権者であると言える。今回の衆議院選の争点は1月30日のテレビ番組「報道1930」でジャーナリストの田崎史郎が語った「ハキハキした女性を選ぶか、おじいちゃん二人を選ぶか?」であろう。しかし、この言葉が争点であるならば、そこに政治的な意味があると言えるだろうか。単なるイメージの提示に過ぎないように私には思われる。
言葉を変えよう。2005年と2012年との選挙の争点でもイメージ操作はあったが、それでもそれは政治というカテゴリー内のものであった。だが、今回のコントロールは完全にイメージのみのものであった。別な見方をすれば、今回の選挙に争点はなく、人気投票にしか過ぎなかったのだ。政治問題が人気投票に堕落してしまった日本の現状は絶望的なものなのだ。
権力者のコントロールに抗うために
この小論では、上記した三つの視点から今回の衆議院選挙に関する考察を行ったが、ここでこれらの分析の総合化を行いたいと思う。もちろん、ここまで行った考察によって今回の選挙の問題点が厳密に探究できたとは思われないが、上述した論述だけでは極めて危機的な日本の全体的な政治状況が十分に明確化されていず、その全体像をまとめあげる必要性があるからである。
先ず検討しなければならない点は、日本の有権者に自らが主権者であり、この国の未来を決めるという責任感があるかどうかという問題である。B層に属する有権者についてはすでにある程度の考察を行ったが、彼らの最大の問題点は、考えるという行為の停止という点にあるのではないだろうか。人間のあらゆる行為に考えるということが必要な訳ではないが、政治という領域において、論証的な思考や理性的な判断ではなく、イメージだけで物事が決められたならば、世界は混乱の渦の中に投げ込まれてしまう。イタリアの哲学者ジョルジョ・アガンベンは『目的のない手段――政治について』の中で、「思考とは 〈生の形式〉 のこと、生の形式から隔離されえない生のことである。理論においても、またそれに劣らず身体的プロセスの物質性においても、習慣的な生きかたの物質性においても、この分離不可能な生の内奥性が示されるところには、どこであれ思考がある。そこだけに思考がある」(高桑和巳訳) という発言を行っている。法的な政治支配だけでなく、ミシェル・フーコーが提唱した一人一人の主権者の日常生活をも監視・コントロールしようとする生政治 (biopolitique) においては、権力者は一人一人の国民の生きるための判断力を奪うことによって支配力を強化していく。その罠に陥ったB層の有権者は思考することなく (この場合の思考とは、フランス語のréfléchirであり、単に「思う」ことも示し得るpenserではない)、イメージに基づき、自分たちの欲望の実現と思い込み、実は支配者の欲望を実現するのだ。この欲望実現における二重性に関してはジャック・ラカンの分析が根本的なものであるが、ここでは煩雑さを避けるためにこれ以上の考察は避ける。
第二点として、選択の対象となっている自民党の立候補者とこの党の総裁である高市早苗が首相就任から今回の選挙までに行った政治的実績について検討しなければならない。今回の選挙で前回の衆議院選挙で落選した多くの裏金議員が当選した。何故彼らは当選できたのだろうか。選挙前に彼らの裏金問題が解決した訳ではない。彼らの罪が消えることは法的にはあり得ない。そうであるならば、有権者の多くが犯罪者を政治家にすることを望んだということになる。だが、実際には、この問題を考慮することなしに、「ハキハキした女性を選ぶか、おじいちゃん二人を選ぶか?」という言葉のイメージに踊らされた有権者が裏金議員に投票したのである。高市早苗という像についても、あまりにも多くの有権者がイメージコントロールに毒されているのではないだろうか。彼女が選挙前に行ったことは中国に対する強硬態度の表明とトランプの率いる対米従属の強調のみである。消費税の廃止も減税も行っていず、政治資金規正法の厳格化も行っていず、貧困者対策も行っていない。ほぼ実績ゼロで、イメージだけが先行していた。イメージだけで左右されるならば、それは政治の世界ではない。ここで、正村俊之が上述した本の中で語っている「近代的個人は、自らの内部に公と私、非人格性と人格性の二面性を宿している。すなわち、機能システムの役割を遂行する公的=非人格的な存在であると同時に、それぞれの固有の自己アイデンティティをもつ私的=人格的な存在となった」という指摘を提示しよう。近代的な主体の持つこの二重性は主権者が公的立場で選択をすべき時に、私的立場での選択を行わせる道を開いたのだ。「(…) 近代的個人主義が状況に左右されない個人の自律を目標としていたのに対して、現代的個人主義は個人を取り巻く諸集団への接続と結合を特徴としている(…)。現代の個人は、社会の外部に自己を見出すのではなく、逆に自己を取り巻く状況的ネットワークの中に身を置き、他者との関係性を通して自己を見出そうとしている」という正村言葉は現在の有権者の立ち位置を的確に表している。
第三点として、日本を凋落に導いていく保守主義に対抗するために、壊滅状況に陥っているリベラル勢力がこれから取るべき政治運動について考えなければならない。現在日本で権力を握っている保守勢力は情報コントロールも含めあらゆる権力装置を動員して、国民に対して自分たちに都合のよいマインドコントロールを行う。この戦略に完全に篭絡された有権者層がB層であり、今回の選挙の自民党の大勝の大きな要因は彼らにあると言ってよいであろう。カール・シュミットが『政治的なものの概念』の中で述べているように、政治においては友敵理論が適応される。「友・敵の区別は、結合ないし分離、連合ないし離反の、もっとも強度なばあいをあらわす (…)。敵とは、他者・異質者にほかならず、その本質は、とくに強い意味で、存在的に、他者・異質者であるということだけで足りる」(田中浩、原田武雄訳) と述べている。シュミットの発言にあるように、選挙戦略として、特定の有権者層を味方として、反対政党との戦いに勝つということは選挙戦での主要戦略である。だが、友敵理論の根拠となる友や敵が「ハキハキした女性とおじいちゃん二人」といった政策や政治実績とはまったく関係のないイメージを根拠としたものでもよいものであろうか。政治が権力闘争や権力による抑圧を行使できるものである以上、国政選挙において単なる表層的なイメージが先行したならば、それはデモクラシーというシステムの破壊とはならないだろうか。権力を握っている保守勢力にとっては権力維持のためにそうした戦略が取られるだろうし、積極的にそうしようとすると言い得る。しかしながら、権力者に対抗すべきリベラル勢力は権力者と同様にB層向けのイメージ戦略を行っても意味はない。味方につけるべきは、D層の有権者である。彼らは権力者の抑圧を直接受け、生活のために思考することを奪われていたり、現在の日本の政治に絶望し、ニヒリストとなった人々である。そして、彼らの多くは投票拒否という形でのプロテストしかできない人々である。彼らをどう救済し、どのように自分たちの味方につけ、投票してもらうかという選挙戦略が必要なのだ。敵はB層の人間であり、味方はD層の人間という明確な選挙戦略を立てる必要性を私は強く感じる。
デモクラシーに可能性はあるか?
有権者にとって権力者の力が強大であればあるほど、政治は独裁的になる危険性がある。逆に言えば、保革伯仲状態が敵対政党間の最も多くの話し合いが行われる。実際に、過半数を維持できていなかった石破自公政権においては、安倍内閣などよりもはるかに多くの与野党間の話し合いが持たれ、野党の意見も尊重された。保革伯仲であるからこそ実現されたデモクラシーの形である。それに対して、「民営化」というイメージも、「安定政権」というイメージも、多分今回の「ハキハキとした女性」というイメージも、それはプラスのイメージを付与させようとする政治コントロールである。民営化はグローバリゼーションの世界を生み、安定政権は政治的腐敗と権力者の私欲の追求を生んだ。この国の直近の歴史をしっかりと見れば、今回のハキハキとした女性が独裁者になる可能性は少なくないと述べることができる。
私はデモクラシーが最良の政治形態であるとは思わないが、現状ではそれに変わるべき政治システムは存在していないと断言できる。しかし、デモクラシーの基本である立法者と行政者は選挙で選ばれる。そこには数が質に優先するという問題点が孕まれている。数が多ければ権力を握ることができ、権力者は国民の総意という口実の下で政治を私物化する。だが、権力者グループに投票した有権者は、「主権者とは何か」のセクションで示したように、今回の選挙においては有権者全体の27.62%に過ぎない。それが国民全体の意見だと言うならば、それは虚偽以外の何物でもない。こうした状況に陥ることが、現在の日本の選挙制度の致命的な欠陥である。だが、選挙制度は直に変更は不可能である。そうであるから、日本の政治的悲劇は何度も繰り返されている。この悪の連鎖を断ち切るためにどうすればよいかを、われわれはもう一度真摯な態度で考えていく必要がある。
フランスの思想家のジャン=リュック・ナンシーは『無為の共同体――哲学を問い直す分有の思考』で、「(…)「民主主義」を、言表行為と露呈という民主主義の場へと運ぶことが、すなわち民主主義がその道も声もたぶんまだ発見していないがそれでも名を担っている、かの「人民」の 〈共同での〉 へと、その連接の 〈共同での〉 へと運ぶことが、問題となるに違いない」(西谷修、安原伸一朗訳) という言葉を語っている。デモクラシーは未だ実現されていず、デモクラシーは「人民」のためのものであるというナンシーの言葉に耳を傾けるべきなのだ。そして、人民とは誰かという問に私はD層の人々と言おう。ハンナ・アーレントは『暗い時代の人々』で、絶望的な政治状況の時代を生きた思想家たちについて書いている。彼らのプロテスト行為は成功しなかった。しかし、彼らの言説は今も生きており、デモクラシーを支える礎となっている。今回の選挙の後、私はかつて北教組の組合運動家として権力者と戦った高齢の母と話した。母も今回の選挙結果に呆れ、有権者の判断とされる結果に大いなる不満を表明していたが、会話の最後に選挙に関して、「もう一回やらなければならない」という言葉を語ったのだ。敗北は敗北という意味だけを持つものではない。現在の絶望的状況を打破する根拠ともなり得るものであることを母は私に教えてくれた。
この小論の最後に、ヴァルター・ベンヤミンが発見した過去の力に関するアーレントの言葉を引用しよう。「(…) 過去の伝達可能性は引用可能性によって置き換えられること、そして過去の権威の代わりに、徐々に現在に定着し、現在から「心の平和」、すなわち現状に満足する精神なき平和を奪い去る不思議な力が生じていることを発見したとき、かれは過去を論ずる新しい手法についての巨匠となったのである。(…) それは[過去を論ずる新しい方法は]、トクヴィルにおけるように、「光を未来に投げかけること」を拒否し、人々の精神を「暗闇のなかにさまよわせる」、過去に対する絶望ではなく、現在に対する絶望と現在を破壊しようとする願望から生まれたものである」(阿部齊訳)。打ち破らなければならないものが、われわれの目の前に確かにあるのだ。
初出:宇波彰現代哲学研究所のブログから許可を得て転載
宇波彰現代哲学研究所 イマゴロジーの時代にデモクラシーはあるか?
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔opinion14722:260312〕〈記事出典コード〉









