<はじめに>
2010年に日本へ帰国したのを機会に、私は哲学の勉強を本格的に再開した。おそらく1979年だったか、母校でミッシェル・フーコーの講演を聴いたのを最後に退学、その後哲学とは無縁な生活をしてきたので、ユルゲン・ハーバーマスについてもハンナ・アーレントについても、ほとんど何も知らないといってよかった。2006年頃に一時帰国した際、大学に奉職している何人かのかつてのゼミ仲間の論文を読む機会があった。そこにはハーバーマスやアーレントからの引用がちりばめられていた。それでアカデミズムの世界での流行の一端を知ることができた。しかし私は一般社会人の特権で、もっと問題意識をはっきりさせて、自分の言葉で語れよと思い、そのことをかつての弟弟子に直言したことを憶えている。(アーレントの「人間の条件」だけは、ヤンゴンに持参して読了していた。古代ギリシアのアテネにおいてres publica(公共善)に奉仕する「活動」を称揚する点で、ハーバーマスの公共圏の理説に通じてはいたが、反マルクス的で、ハイデガーの影も感じる後味の悪い本だった)
それから10年余、2019年頃であったか、宇波彰先生の主宰する研究会で、ヴィクトル・ファリアスの「ハイデガーとナチズム」を紹介報告する機会をいただいた。その報告を準備するなかで、ファリアス本の書評でもある、ハーバーマスの「ハイデガー―著作と世界観」と題する文章にふれたのが、ハーバーマスとの最初の出会いになった。この論文はフランクフルト学派の特徴でもある文体の難渋さもなく、好感が持てた。ハーバーマスの人と思想の一端を理解するのに役立つと思われるので、以下若干ご紹介する。
1953年、まだハーバーマスが学生でハイデガーの「存在と時間」の心酔者あったとき、ハイデガーの1933年出版の「形而上学入門」が、当時そのままのかたちで公刊され、ハーバーマスはショックを受けたという。ナチズム色満載の著作を、戦後になってそのまま公表したからである。ハーバーマスは、ただちに「フランクフルタ―・アルゲマイネ紙」に投稿し、ハイデガーに質問状を突き付けたという。
「数百万人の人間に対する、今日我々がみな知っている計画的な殺人も、運命的な迷誤として存在史的に理解することができるというのだろうか。それは、帰責能力をもって殺人を行なった人々の実際の犯罪ではないのか。それに対しては、ひとつの民族全体が良心の呵責を感じねばならないのではないか」
これに対し、ハイデガーは、ナチズムは、技術と西欧的人間の悲劇的な出会いとして大きな意味を持つという遁辞で、追及から逃れようとしたという。ハーバーマスによれば、ハイデガーは哲学的な煙幕をはったこの文章以外、ホロコーストなどの戦争犯罪について一切発言していないという。西洋の技術文明に侵されているという意味では、アメリカもヨーロッパもソ連も同罪であり、唯一古代ギリシアの直系であるドイツ民族のみが、惑星規模の災厄を転換させる術を心得ているというのが、「形而上学入門」の論旨だという。反近代、反理性、反ヒューマニズム、反科学技術、反産業労働、反大衆文明、反公共性・・・、ある種ポストモダン思想との親和性を醸し出しているではないか。ついでながら、68世代には懐かしい、ハーバーマス以外のもうひとりのフランクフルト学派の哲学者H・マルクーゼも、1948年段階で、ナチの犯罪も連合軍の行為も普遍的な力の意志の支配という意味では同列だとしたハイデガーの鉄面皮振りを糾弾していた。
さて、サルトル以後絶えて久しい、左派リベラル系の大知識人を思わせる存在だった、というと言いすぎであろうか。大きな物語を語りうるという意味ではやや小粒であったが、しかし時代の転換点に勇気をもって知的に問題介入し、戦後の民主主義の遺産形成に貢献した、という意味では大知識人であったろう。ハイデガーの戦争責任の追及に始まり、60年代以降の公共圏理論の彫琢、68世代の反乱への批判、80年代の歴史修正主義への批判論争、2009年に始まったユーロ危機での、国民国家の枠を超えた「ポストナショナル」な連帯と政治経済統合の主張など、ドイツとヨーロッパの「思想において捉えられた(ヘーゲル)」戦後史が、ハーバーマス哲学の真髄であったといえるであろう。
ハーバーマス哲学の本領である公共圏理論、コミュニケーション的理性の理論について、なにほどかを言うだけのものを持ち合わせてはいないが、ヘーゲルやウェーバーを併せ読むなかで感じたことを最後に記して、長いまえがきとしたい。
ハーバーマスのいう公共圏とは、我が国の歴史的文脈で言えば、「市民社会」と言い換えてもよいであろう。すなわち、資本主義国家において、メディアを含む資本の経済活動によっても、国家の介入や過度の規制によっても侵されない、自由で、ある場合には自治的でもある圏域、社会空間のことを指す。その圏域は、勝義には自由な言論空間であり、人々が集い、対等な立場で理性的に討論し、ルソー的な「一般意志」に近い合理的な世論の形成に努めるところなのである。ハーバーマスのこのコンセプトは、日本でも議会制民主主義の空洞化に対処すべく、熟議民主主義(deliberative democracy)の試みとして流行語にもなり、いくつかの地域で「市民討論会」や「気候市民会議」と銘打って実験が行われている。
独断めいて恐縮だが、ハーバーマスの公共圏理論は、戦後西ヨーロッパの福祉国家を背景にした政治理論ではなかったかと思う(詳しい論証は他日を期したい)。そもそも市民社会なり公共圏なりが成立するには、一定の社会的・経済的条件がある。自由で対等なコミュニケーションが成り立ち、有効に機能するには、その社会空間が余りに広大ではなく、しかも比較的同質的な社会層から成り立っている場合であろう。ドイツの場合、戦後の奇跡の復興を経て、60年代には高度経済成長の時代を迎える。しかもただGDPが倍増したというだけでなく、大きな社会構造の変化を伴っていた。もともと1880年代のビスマルクの社会政策の伝統のうえに、第二次大戦後は労資の勢力拮抗によって、高い労働分配率や社会保障給付が実現して、福祉国家(ドイツ語では社会国家)が実現した。この仕組みによって、労働者階級の階級的同質化が進み、拡大再生産に邁進する資本の側も、市民社会の自由空間の拡大に寛容でありえた。もっと突っ込んで言うと、古代アテネの、市民による自由な言論空間は、奴隷労働によって経済的に支えられていたように、西ドイツの自由な社会空間は、トルコなどからの移民労働者によって支えられていたのである。
国家社会主義の陰惨さと対極の、市民による自律的な明るい言語空間が成立したのも、戦後資本主義の高度成長の賜物であった点を忘れてはならない。ハーバーマスの公共圏の理論が彫琢されていくのは、1950年代から60年代にかけてであったことは、その説の傍証となるであろう。したがってケインズ型福祉国家がいきづまり、新自由主義が勃興し支配的な潮流となることによって社会格差が拡大し、移民をめぐる社会的亀裂が深まるにつれ、ハーバーマスの公共理論はいっときの有効性を喪失することになる。
そういう意味で、ハーバーマスの死は、戦後民主主義に掉さすひとつの時代が終わったことを告知しているといえるだろう。社会的分断が進行し、政府の統治能力も低下しつつある危機の時代、一度手にした自由な公共空間の理論的遺産を受け継ぎ、これからの世界秩序の形成にどう生かしていけるのか、まさに正念場であろう。最後にひとつ付け加えれば、ハーバーマスのフラットな公共圏概念に対し、やはり危機の時代に対応して国家―市民社会との関係、あるいは市民社会内の多元的構造に目配りして、社会理論の再構築を図ることが重要であろう。
偉大なる知的引き立て役
――公共圏における構造転換、歴史家論争など、ユルゲン・ハーバーマスは繰り返し批判的な発言を行ってきた。そして今、この哲学者は逝った。
出典:taz.14.3.2026
原題:Der große intellektuelle Stichwortgeber
https://taz.de/Nachruf-auf-Juergen-Habermas/!6088782

1981年の夏、タイプライターに向かうハーバーマス 写真: ローランド・ヴィッチェル/dpa Habermas
――前略――
ユルゲン・ハーバーマスは1929年にグマースバッハで生まれ、当時のナチス・ドイツの風潮に順応していた中流家庭で育った。ヒトラーユーゲントと対空砲兵補助隊員として、彼は1945年から46年にかけての時代を、強制収容所の映像に衝撃を受けながらも、戦争、独裁、そして偏狭な考えからの解放として経験した。・・・彼は1954年、エーリヒ・ロタッカーの哲学研究室で博士号を取得した。彼の指導教官もまた、1933年以前からナチズムを支持していた。
その1年前、マルティン・ハイデガーが1935年の形而上学に関する講義録を改訂なしで再出版した際、ある博士課程の学生(ハーバーマス)が大胆な論文を発表し、初めて世間の注目を集めた。「1935年の講義は、当時のファシズム的傾向を完膚なきまでに露わにしている。しかも、それらは外部要因だけでなく、事柄の文脈から生じる要因にも動機づけられている」
反ファシズムの信条のために、存在の哲学者であり暴力の擁護者でもある人物(ハイデガー)からも激しい非難を浴びたハーバーマスは、「BRD Noir」※に新たな方向性を求めた。ハーバーマスが吸収した文化批判的な視点を持つアドルノは、若い哲学者であるハーバーマスを社会研究所で社会学を学ぶよう誘った。
※BRD 西ドイツの略称。「BRD Noir」という語は、ドイツの歴史や社会を暗い側面(ノワールー仏語で黒)から論じる際の表現として一部で使われることがある(wikipedia)。
――中略――
そこでハーバーマスは、主にグレテル・アドルノを通じて、亡命ユダヤ人左翼知識人の失われた世界に触れた。アドルノの部屋には、ベンヤミン・クレーの絵画「アンゲルス・ノヴス」が飾られていた。 ハーバーマスは「知的に新たな世界へと足を踏み入れた」のであり、それ以降、失われた時代の巨匠たちとの接触を模索したが、一方で、ハイデガーに加え、カール・シュミット、エルンスト・ユンガー、そしてアルノルト・ゲーレンらを「ファシスト的知性」の「黙示録の四騎士」と見なし、彼らに対する恐怖を抱き続けた。しかし、ハーバーマスは、IfS(社会研究所)に蔓延していた、いわば「見えない神」ホルクハイマーの権威の下での職員たちの極めてエリート主義的な集団精神、さらに学術的な哲学の欠如、そして自身の研究や執筆の妨げとなる多くの義務に対して、苛立ちを隠せなかった。
ホルクハイマーがアドルノに対し、政治的に極左的な助手(ハーバーマス)を解雇するよう要求した時、ハーバーマスは研究所を去り、ドイツ研究振興協会(DFG)の助成金を受けて教授資格論文を完成させることをすでに決めていた。その論文は「公共圏の構造転換(Strukturwandel der Öffentlichkeit)」と題され、文化批判的な側面を持ちながらも、当時の時代の本質を捉えていた。
「公共圏」は生命の源
1960年代、民主主義にとって公共圏こそが生命線であることを人々は学んだ。ハーバーマスはその後、反ファシズムの信条に対する民主主義的な理論的基盤を探求した。すなわち、私たちは公共圏で議論し、討論しなければならない。そして、この圏域が経済的利益や資本主義の制約によっても、国家の行き過ぎた介入や独断的な政策によっても破壊されないようにしなければならない。「議論する以外に何があるだろうか?」は、「何をすべきか?」という問いに対する彼の答えとなった。
ハイデルベルクでの一時的な滞在を経て、ハーバーマスはホルクハイマーの後任としてフランクフルトに戻った。1965年6月に行われた就任講演「認識と関心」は、圧巻であった。哲学者ヘルベルト・シュネーデルバッハはこう書いている。「ユルゲン・ハーバーマスが批判的社会理論だけでなく哲学や精神分析にも適用した『知識への解放的関心』という魔法の言葉がもたらした解放的な効果を、私は今でもはっきりと覚えている。それは、自らを解放的なものと理解する限り、あらゆる学問分野が批判理論の一例として自らを位置づけることを可能にするように思えた」
――中略――
ハーバーマスと1968年世代
1968年頃、ハーバーマスはSDS学生運動の混乱に巻き込まれ、ベンノ・オーネゾルクの暴力的な死後、主意主義的な行動を戒めた。彼が「左翼ファシズム」という言葉を使ったことは、左翼急進主義との決別を象徴するものであった。ドゥチュケ暗殺未遂事件とフランクフルトのカール・マルクス大学での政治的事件の後、ハーバーマスは「子供の偽革命」、すなわち偽りの危機理論、偽りの階級闘争、偽りの反帝国主義を非難した。これは左翼運動との修復不可能な決別を意味した。にもかかわらず、ハーバーマスは「後期資本主義」とその正統性の問題についての分析を続けたが、それは、カール・マルクスだけでなくマックス・ウェーバーとも深く関わるようになった近代理論の枠組みの中で行われた。これは、アドルノの死後、ボッケンハイム・キャンパスの緊迫した雰囲気によって、フランクフルトが科学研究にとってあまり魅力的な場所ではなくなった後、シュタルンベルクにあるマックス・プランク研究所で行われた。この研究所の資金は、研究所名に冠される文字数と同じくらい乏しかった。
しかしバイエルンでは、ハーバーマスは右派保守派からネオ・マルクス主義者だけでなく、左翼テロの知的扇動者だと非難された。MPIL(マックス・プランク研究所)は絶えず疑いの目で監視されていた。 それでも、その所長※は「理性」を放棄することを拒む社会理論の研究を続けた。これは、西ドイツと西側諸国との政治的、知的、哲学的、科学的な統合を達成するという、ますます明確な意図のもとで行われた。ハーバーマスの危機認識は、資本主義の矛盾だけでなく、少なくともそれと同じくらい、想定された「ドイツの特別な道」にも根ざしていた。
※ユルゲン・ハーバ-マスは、1971年から1980年代初頭にかけて、マックス・プランク研究所(シュタルンベルクの「生活世界における科学技術の諸条件に関する研究所」)の所長を務めた
紆余曲折を経て、哲学と社会科学が最後に一体となった「コミュニケーション的行為の理論(TdkH)」が確立され、それは「支配のない言説」という規範に従うものとなった。この著作を記念して、「システム」と「生活世界」という概念は、社会秩序を説明する際に今もなお用いられている。この著作は、以前のズールカンプ版第1000巻『時代の知的状況について』と同様に、当時の批評ではあまり評価されなかった。教授エリート層からは非難され、左翼からも敬遠されたハーバーマスは、1980年頃には孤独な立場に追い込まれ、とりわけ彼が率いるマックス・プランク研究所も破綻したため、その状況は一層深刻なものとなった。ちなみに当時、ハーバーマスは米国において、すでに大学界を代表する哲学者の一人となっていた。
「知的権威と道徳的権威」
1982年から83年にかけて、彼はフランクフルトに戻ったが、それはヘルムート・コール政権下で宣言された「精神的・道徳的転換点」と時を同じくしていた。彼の中に常にあった危機感や「黙示録の四騎士」への恐怖は、1960年以前の時代への回帰が起きなかったこと、そして1986年のいわゆる「歴史家論争」において、ナチスの過去に対する「損害処理」を「知的・道徳的権威として」(マルセル・ライヒ=ラニツキ)退けることができたとき、ようやく消え去った。それどころか、ヨーロッパ系ユダヤ人虐殺の実証的検証が本格的に始まったのは、まさにその時だった。
啓蒙の弁証法や「大きな物語」の終焉といったあらゆる議論にもかかわらず、彼はモダニズムのプロジェクトを貫き通した。『アウシュヴィッツ』は、コミュニケーション的理性の理論には何の影響も及ぼさなかった大学で、彼は新たな研究グループを結成した。事実と価値、すなわち民主主義的立憲国家の洗練された正当化は、偽りの社会についてのフランクフルト批判よりも、カントの道徳哲学に近い。壮大な社会理論は、言説倫理へと矮小化されてしまった。マルクス主義の本質は、ますます不明瞭になっていった。
1990年以降、ハーバーマスはナショナリズムに対する警鐘を鳴らす存在として、また、コスモポリタン的な視点と普遍主義的な精神を備えた確固たる欧州主義者として、その立場を確立した。「時代の転換点」と呼ばれる出来事のほとんどすべてにおいて、彼は公の場で発言を行ってきた。最近では、デジタル化に伴う公共空間の構造的変化、コロナ対策の法的根拠、あるいはウクライナにおけるロシアの戦争や、イスラエルとガザでのテロや武力衝突に対するドイツ連邦政府の対応に関する論考などが挙げられる。
かつては、政治的な転換点が新たな哲学的視点を生み出した。9.11同時多発テロの後、ハーバーマスは信仰と知識の関係について論じ、その成果は彼の最新の代表作『哲学史さえも』(Auch eine Geschichte der Philosophie)に見ることができる。新たな複雑さにもかかわらず、ハーバーマスはより大きな視点から物事を捉え、社会進化論を受け入れ、理性に依拠する勇気を完全に失ったわけではない。彼の哲学史において、物質的再生産の領域における体系的な発展が、社会全体での解決を必要とする具体的な問題を引き起こし、世界観を変容させるという、古くからの史的唯物論の確信が再び現れる。この哲学史には、歴史哲学の香りが漂っており、それは驚異的な博識と鋭い思考が織りなす世界である。
自由化の原動力
西洋世界では、ハーバーマスはかねてより最も重要な哲学者かつ社会科学者と見なされてきた。この国でも、彼を「西ドイツのヘーゲル」と呼ぶ人がいる。実際のヘーゲルによれば、哲学とは、その時代を思想によって捉えたものである。ハーバーマスの理論言語、やや急進的な左派の立場からの公的な政治活動、そしてコミュニケーションへのこだわりといった、社会科学との絶え間ない相互作用は、1945年以降の西ドイツの歴史を象徴するものであり、『歴史理論』のような合理主義的な著作は、平和、民主主義、そして繁栄という輝かしい時代だからこそ生まれたのである。著者自身は、根本的な自由化を推進する原動力であり、保守化への警鐘を鳴らし、西洋化を提唱し、新たな不確実性の中で常に内省を続ける実践者であった。この近代の伝統主義者は、3月14日にシュタルンベルクで96歳で亡くなった。
(機械翻訳を用い、適宜修正した)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔opinion14734:260319〕








