中江兆民(なかえ・ちょうみん、1847~1901)は幕末に生まれ明治時代に活躍した政治家・思想家である。若くして岩倉具視の米欧回覧使節団に同行したがフランスに残り西洋近代からギリシャ文化までを学んだ。自由民権運動の精神的支柱の一人であり東洋のルソーとも称された。咽頭ガンで1年半の余命と知って書いた『一年有半』、『続一年有半』や『三粋人経綸問答』で知られる。兆民が、死の前年、明治33年10月に書いた「考えざるべからず」という文章がある。その一部を次に掲げる。(***から***まで。カッコ内は半澤が付記、「/」は中略を示す)。
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内閣政府は我儕(わがせい=我々、儕は「ともがら」)人民の給料にて生活する人物の集合体なり。我儕人民の用向(ようむき=用事、要求)即ち法律、経済、軍備、教育等我儕人民に必要なる用向を任じ居る庸人(ようにん=雇われた人)なり。/唯それ我儕人民考へず、故に彼れ内閣政府は唯天皇陛下に隷属するを知りて、我儕人民に対して債務者たるを忘れて、勝手に休業し勝手に遷延(せんえん=引き延ばし)し、我儕人民の財布を掠取(りゃくしゅ=奪い取ること)して平然たるなり。
吾人がかくいへば世の通人的政治家は必ず得々として言はん、それは十五年前の陳腐なる民権論なりと。欧米強国には盛に帝国主義の行はれつつある今日、なほ民権論を担ぎ出すとは世界の風潮に通ぜざる流行遅れの理論なりと。しかりこれ民権論なり。しかりこれ理論としては陳腐なるも、実行としては新鮮なり。/欧米の民権は行はれたるがために言論としては陳腐なり。我国の民権は行はれずしてしかもかつ言論としては陳腐となれるは、果(たし)て何を意味するか、人民の無気力を意味するなり。かくの如き人民は真の人民にあらざるなり、脊椎動物の屯聚(とんしゅう=集合体)なり。
故に吾人は大声疾呼(しっこ=早口で叫ぶこと)して言はんとす、人民たるもの少(し)く考へることを知れ。/椅子の分捕は新鮮なり、政党の内揉めは新鮮なり。今の政党家皆いふ、民権は陳腐なり、人民の輿論にあらず。帝国主義は新鮮なり、人民の輿論なりと。人民たる者果たして椅子の分捕を輿論となせるか、今の政党家は、人民の財布の盗賊にして、また輿論の盗賊なり。既に財布を盗まれ、また輿論を盗まる、なおこれにても考へざるか。(松永昌三編『中江兆民評論集』、岩波文庫より)
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私は兆民の上記言説を次のように要約する。
①政治家と役人は、血税を払っている人民の要求を実行する使用人である。
②ところが彼らは本来の仕事をサボり、大臣や官僚の椅子の分捕りと党内抗争に明け暮れている。
③人民からの批判に対して、彼らは世界の大勢のもと「民権論」は古く「帝国主義」が新しい輿論だという。
④政治家は人民の財布と輿論を略奪している。しかし人民は無気力だ。そこから脱してよく考え真の人民たれ。
「民権論」に「民主主義」を代入し、「帝国主義」に「集団的自衛権」を代入すれば、兆民のことばは、2014年12月の総選挙結果への批判となる。それは52%の投票率に終わった。「アベノミクス」への信認を唯一争点とした安倍与党の圧勝に終わった。「人民の財布の盗賊にして、また輿論の盗賊」である政治家の勝利に終わったのである。
そのなかで僅かな望みは沖縄での「統一戦線」の勝利であり「次世代の党」の惨敗であった。将来に対して楽観的になりたい。しかし私は楽観的になれない。115年経って何も変わっていない。戦争体験者がいなくなりそうな戦後70年を前にして私の気分は沈んでいる。(2014/12/21)
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