「尖閣『棚上げ』サッチャー・鈴木会談の記録」について

2014年暮れ、思わぬところから尖閣情報が届いた。英国政府の情報公開により、1982年9月、サッチャー首相と鈴木善幸首相とで交わされた尖閣対話の内容が明らかになったという話である。電話口で東京の共同記者がロンドン特派員から届いた記録の要旨を伝えたので、私はその程度の会話はおそらく「当時の常識」であり、鈴木首相が後の「特定機密」を漏らしたような話ではあるまい、とそっけなく答えた。そもそも鄧小平氏は東京のプレスセンターで数十分の記者会見を行い、その趣旨は当時各紙が大きく報道したし、プレスセンターのホームページには発言の全文が掲載されているではないか。

もし、それが中国側の一方的見解の表明にとどまるものであり、日本政府としては、承認しがたい内容であるならば、当然「発言の修正を求める」とか、「発言に抗議する」とか、の対応があって然るべきだ。そのような対応は私の記憶するかぎり、一切なかったはず。つまり、日本政府(外務省)としては特に異論がなく、鄧小平会見の内容が日中尖閣対話の(中国側の理解した)要点だと内外に受け取られることを容認したのではないか。

その後、件の記者が私の談話要旨をメールで確認を求めてきたので、若干の字句を修正して返信した。談話の内容は以下の通りである。

事実認め関係改善を、矢吹晋・横浜市立大学名誉教授(現代中国論)の話 外国首脳にまで尖閣諸島をめぐる問題を「棚上げした」との認識を首相自身が伝えているのは、日中関係において「棚上げ」の存在が当時、常識だったことを裏付けている。鄧小平氏が一九七八年に日本で記者会見し、尖閣について日中間で触れないことで合意したと明らかにした際に、日本は特に反論しておらず、異論がなかったと国際的に受け止められても仕方がない。日本政府が現在「棚上げはなかった」などと主張しているのは無理がある。日本政府は事実を認めた上で、日中関係の改善を図るべきだ。

 

2012年9月の尖閣国有化前後、私は日中関係について4冊の本を急いで書いた。すなわち『チャイメリカ—-米中結託と日本の進路』(2012年5月、花伝社)、『尖閣問題の核心—-日中関係はどうなる』(2013年1月、花伝社)、『尖閣衝突は沖縄返還に始まる—-日米中三角関係の頂点としての尖閣』(2013年8月、花伝社)、『敗戦・沖縄・天皇—-尖閣衝突の遠景』(2014年8月、花伝社)、である。1冊目のタイトルには「尖閣」の文字はないが、第10章「日中相互不信の原点を探る—-大佛次郎論壇賞・服部龍二『日中国交正常化』の読み方」は、御用学者による史実の歪曲であり、このようなレベルの低い本に賞を与えて宣伝する『朝日』、『毎日』(アジア太平洋賞)やその選考委員たちは、日中関係の悪化に貢献するものだと批判した。第11章「外務省高官は、いかなる国益を守ったのか」では、田中角栄・周恩来会談の記録を改竄した外務省高官の作風を批判した。2冊目から4冊までには、いずれも「核心」「頂点」「遠景」など、尖閣を主題とし、伏線を分析したタイトルが付されている。これら4冊は、いずれも情況に追われて書いたもので、当初から本にまとめる構想は一切なかった。

遺憾ながらこれら4冊は国内マスコミによって完璧に黙殺された。大新聞の書評は、私の知る限りゼロに近い。書評担当者たちは時の反動政権の顔色をうかがい、「非国民の書」扱いして敬遠したものか、と私は邪推している。

ロンドンから思わぬ援軍が到着したのは、まさにこの時だ。すなわち「共同電が報じたサッチャー首相と鈴木善幸首相とで交わされた尖閣対話」である。

以下に私のコメントを付しつつ、内容をコピーする。

【ロンドン共同】一九八二年九月、鈴木善幸首相が来日したサッチャー英首相(いずれも当時)との首脳会談で、沖縄県尖閣諸島の領有権に関し、日本と中国の間に「現状維持する合意」があると明かしていたことが分かった。英公文書館が両首脳のやりとりを記録した公文書を三〇日付で機密解除した[英公文書館は当時の記録を完全に保存していたこと、そして32年後に原文をそのまま、公開した。この種の公文書公開は世界の潮流として定着した感がある。ところが日本政府・外務省は公文書の現物自体を改竄している。尖閣問題がトラブルの原因となった一因は、公文書の改竄のためである]。「合意」は外交上の正式なものではないとみられるが[ここで沖縄返還におけるニクソン佐藤栄作の秘密メモを想起しよう。このメモは後日佐藤の遺品から発見され、両首脳のイニシャルまで書き込まれていたが、政府は私的メモ扱いして、その存在を認めていない。日本では首脳よりも官僚が上位にある]、鈴木氏の発言は、日中の専門家らが指摘する「暗黙の了解」の存在を裏付けている[記者はここで「日中の専門家ら」と書いているが、『朝日』は20121231日付のインタビューで当時の栗山尚一条約課長が「暗黙の了解」と認めたことを報道しつつ、その責任を一切追及していないことが想起されるべきだ]。日本政府は現在、尖閣諸島問題について「中国側と棚上げ、現状維持で合意した事実はない」と主張、暗黙の了解も否定している。首脳会談は八二年九月二〇日午前に首相官邸で行われ、サッチャー氏の秘書官らのメモを基に会話録が作られたとみられる[日英の首脳会談が行われた日付82920日および場所は首相官邸である事実に留意したい。単なる私的な会話ではない念のために記すが、歴史的なサッチャー・鄧小平会談の4日前だ]。

鈴木氏は尖閣問題について中国の実力者、鄧小平氏と直接交渉した結果、「日中両国政府は大きな共通利益に基づいて協力すべきで、詳細に関する差異は脇に置くべきだ」との合意に容易に達したと説明。その結果、「(尖閣の)問題を明示的に示すことなしに現状を維持することで合意し、問題は事実上、棚上げされた」と述べた[この発言で重要なのは、鈴木が鄧小平との対話とその率直な印象を語っていることだ。「共通利益に基づく協力」「差異は脇に置く」とは、周恩来・田中会談の「求同存異」を確認したにすぎない。「合意に容易に達した」とは、すでに前例として(1)田中・周恩来の72年会談および(2)園田直・鄧小平78年会談が存在し、その確認にすぎないためにほかならない。つまり、大平の急死を受けて首相の座を得た鈴木までは、田中・大平・園田3者による中国要人との対話記録が正確に伝えられており、世論もまたその概要を承知していた]。鈴木氏は、尖閣問題で鄧氏は極めて協力的で「尖閣の将来は未来の世代の決定に委ねることができる」と述べたと紹介[この鄧小平発言は当時、人口に膾炙した。ところが、「未来の世代」はますます愚かになり、今日の日中対立をもたらした]。その後、中国は尖閣問題に言及することはなくなったと説明した[こうして寝た子をあえて目覚めさせ混乱を作り出したのは、誰もが知るように石原慎太郎であり、それに追随した野田佳彦政権である。その罪は万死に値する]。鄧氏とは七八年八月に園田直外相が北京で会談、鈴木氏も首相就任前の七九年五月に訪中し会談しており、鈴木氏のサッチャー氏への発言はこうした経緯を踏まえたものとみられる[鄧小平・園田直による北京会談の記録は存在しないと、石井明教授の質問に対して外務省は返答している。その無責任を野党もマスコミも追及していない。鈴木・鄧小平会談については私は調べていない]。会談でサッチャー氏が英国の懸案だった97年の香港租借切れ後の英国統治継続問題を取り上げたことを受け、鈴木氏が鄧氏と直接交渉するよう助言した[サッチャーは、東京から北京に向かい、82年9月24日鄧小平と会談を行い、香港返還の基本方針を協議した。そこから英中協議が重ねられ、841219日に返還協定に両国が署名した。鄧小平は「一国両制」を約束したが、雨傘革命はその約束の継続を求めた]。七八年一〇月に来日した鄧氏は記者会見[この内容はプレスセンターのホームページに掲げられている]で、日中両国政府が72年の日中国交正常化交渉の際に「(尖閣諸島の問題に)触れない」ことで合意し[田中・周恩来会談記録の改竄を私は批判している]、78年の日中平和友好条約の交渉でも同様のことを確認した[これは園田直外相と鄧小平氏との会談であり、園田自身は自著『世界 日本 愛』(第三政経研究会、1981)で経緯を詳しく記している。矢吹は前掲『核心』「園田直の語る外相交渉の真実」(8183ページ)で園田の証言を引用した]と述べた。

以下に、サッチャー首相と鈴木善幸首相対話に関わる関連報道をまとめておく。

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r1r2r3r4r5〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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