(1)ちきゅう座拠点を考える
流れがそれ程早いわけではありませんがまた、目立たせるために以下に今回主に興味ひかれる書き込みを再掲載してみました。
しかし、一年365日の刻印としての時間の流れは速く、なかなか書いている時間が取れない間に問題点が集積し更に、ブームとしてのピケティも埋もれつつある危惧をいつもながら感じないわけにはいられません。
今回は、じっくり語っている暇がないので、次回以降の承前として。
《期待されるちきゅう座に掲載された学習会の再掲載》
3・16公開研究会・シンポジウム 『21世紀の資本』(トマ・ピケティ著)と現代資本主義
― 格差拡大社会の分析と克服の道をさぐる ―(2月24日掲載)
https://chikyuza.net/archives/51076
4・18『労働組合で社会を変える』出版記念討論会(3月4日掲載)
https://chikyuza.net/archives/51318
以下のちきゅう内ピケティ論を越え出たシンポジウム、そして、ちきゅう座の更なる活性化を求めてじっくり意見交換がつながっていく事に期待します。
《ちきゅう座内ピケティ格差論批評》
本間宗究(本間裕)の「ちきゅうブッタ斬り」(80)(3月4日掲載)
https://chikyuza.net/archives/51332
異常なピケティブームを支える経済学の貧困(2月25日掲載)
https://chikyuza.net/archives/51094
さて、ちきゅう座拠点の情報とは何かを考えながらやっていきたいのですが、現在ある知性上の危機が最も現れているのは、経産省前テントと反原発運動の在り方についてでしょう。
全てが、喉元過ぎれば熱さを忘れるのブームで終わらせない抵抗こそが、ちきゅう座に求められている広報であり、原発もピケティ格差論もブームとせず内容を展開しなくてはならない立場を確保しなくてはならないのではないでしょうか?
『裁判所は市民団体側がこれまで土地使用料として1140万円を国家に支払い、
撤去までに1日あたり追加で2万1000円を支払うよう命じた。』
これは、まさに、言論の自由の規制であり損害賠償的資本主義的規制であり、こんな法外な関わりがあるなら庶民、国民は、ファシズムの台頭にも沈黙せざる負えない状況を作っていると言う事でしょう。
重要な論点をブームで終わらせず広報手段として抵抗(レジスタンス)があるわけですが、ピケティ氏の言うように、教育格差として、世襲制資本主義は現れており、民主主義の最大の弊害として現れているのだと言う《大文字》的な段階において、経済学=アカデミズム次元からも警鐘を鳴らしたこと、その普遍性と具体的問題としての原発事故問題の風化へのレジスタンス拠点としての関連であるのか
それぞれの問題をつなぎ合わせながら2015年の同時代性の問題意識をどうするのかが庶民の側ではなく、学究者の側がどの様な知識整理をしてくれているのか?その問題点の広報こそが、「ちきゅう座拠点」の問題意識ではないのかと考えています。
日本に真の文化人も戦う知識人(インテリゲンチャ―)、言わば大人の視点が不在となっているのであり、その危機が、そのまま、政党政治の崩壊状況、独占の根源こそが、ピケティ氏の指摘している教育格差の問題点であり、それを重く受け止めなくてはならないのが、第一義ではないでしょうか?
ただデモを呼びかけるだけでは民主主義の土壌にもあがれていない。
労働組合を立て直すのも当然なのですが、それ以上に、政党政治としての《利害対立》を明確にしていくこと、その点について、議論をし、全ての人の参加を求めていく事ではないでしょうか?
それであるなら、「ウォール街を包囲せよ」デモの様に、1%と99%の対立が、明確にされるべきであるのだけれども、そうならないのは何故か?
それに、ちきゅう座拠点は、大衆、庶民に答えて見せなくてはならないはずです。
「プレジデントピケティ実践講座」
うがった見方だが、r型人間、g型人間として、差別論的格差論を展開をしていますが、分りさすさもあるのでしょう。
r型人間「読書や勉強にお金を使う」g型人間「読書や勉強にお金を使わない」など、対立概念として、労働者=奴隷的人間の排斥を問題としているからです。
人間の本質が、rとgに分かたれているはずはありません。
寧ろ、帝国主義的格差が、大部分の「人間の可能性」を楔につなぎ奴隷的労働者階級へと結び付けているのことが問題であると言うマルクスのテーゼへ戻らせないことが問題であると言う事を明確にしていけない事が日本のインテリゲンチャ―(戦う知識人)の不在の問題がちきゅう座拠点でも問われ続けているのではないでしょうか?
デモ、労働運動から政党政治運動へ《利害対立》を明確な焦点とさせないのが、日本の問題点であると考えて、論陣を僕は、張ってきています。
(2)教育商品論社会としての資本主義批判
さて、ここから、また、ピケティ「21世紀の資本」と新「資本論」体系の刷新(その7)を再開します。
前回まで、問題として来たのは、まだまだ、「資本」ではなく、「商品」についての分析であり、最初に現れる衣食住商品以上の問題点として、最初に、誰もが、ぶつかるであろう「教育商品」論としての展開だったわけです。
モーツアルトは、クラッシクでもあるので、現代音楽として復興を求められているとは思えませんが、
常の思うのは、丸山眞男氏、宇野弘蔵氏、白土三平氏などの復興であり、「何故、彼らは、一人であるのか」の問題意識です。
「日本人は、何を求めてきたのか?」手塚治虫氏から白土三平氏へ。
カムイ伝の一揆、デモ、大衆運動の在り方から「資本論」の精神を学んだと言う一時代があったようです。
それは、前回述べている、マルクスの最前線としてのレーニンの戯画化、毛沢東氏の語録と同値であり、日本では、残念ながら政権を奪取するに至らない「民主主義未満」の問題があった故に、手塚治虫氏から白土三平氏への文化的段階での展開に抑制されていたと言う事であったと考えます。
しかし、反原発運動も今や、カムイ伝的デモの方式ではなく、労働組合から政党政治として、政治の表舞台での争点を明確にしていかねばならない段階であると言う事です。
モーツアルトは、作らずとも、「場」としての政治学論経済学論を一人の丸山眞男や宇野弘蔵ではなく、共同の場として、理論を体系化できないのだろうか?
その問いに他ならないし、求められているのは、その事である。
漠然とした天才としてのモーツアルトではなく、現在、希求されてやまない政治学経済学の「場」としての整備共同であり、
それに対して、ちきゅう座拠点及び、各学習会、シンポジウムは、答えられているのだろうか?この問いに、理論的にも辿り着くのではないだろうか?この事を説いているに過ぎない。
(3)マルクス最前線との関連について
2・26学術シンポジウム「マルクス研究の最前線」
-ミヒャエル・ハインリッヒとケヴィン・アンダーソンを迎えて-(2月13日掲載・26日講演終了)
https://chikyuza.net/archives/50750
さて、マルクス問題を苦い記憶として、20世紀に置き去りにしようとする風潮には、反対の立場で論陣を組まざるをえない。
このシンポジウムについても多くを語りたいと思うのですが、今回は、承前とせざるをえない。
質疑応答以前の講演内容の資料が、整備されていたので、この部分についての言及は、出来るのですが、
質疑応答部分のライブとしての資料が、保存されて、ちきゅう座拠点において共有されていないのが残念でならない。
狭い室内であったが、満室であり立ち見もいた状況、学生や若い人、英語力の勉強の延長で参加していた人も多かったように感じた。
この感じる場所であるライブが、生きている事の魅力の一つであるはずであり、
更に、自身の勉強、学習となり、庶民、大衆としての広報次元としての手助けとなる質疑応答部分の後記がちきゅう座拠点としての展開されていない事が残念でならない。
ライブは、それによって、死んだ時間ともなるし、生かす道を閉ざしているともなるからだ。
とても、簡単なことであり、学生は、そこから感じたものを表現することで、得るものも多いはずだが、その発想へと広がらないのが、いつも、日本的協働性共同体の危機であり続けるのだ。
日本語で展開されたとしても誰も、サイードがどうのポストコロアズムがどうのなどちんぷんかんぷんなのだろう。
その厭世観が、ちきゅう座拠点としての文化人、知識人の中でも広がっている状況において、新たな「狼少女」状態を平成生まれの学生たち、そして、労働者、庶民、大衆としての政治的ファシズム自民党独裁政治の内情としての閉塞をそのまま体現している事が残念でならない。
鶏が先か卵が先かの問題となり、経産省前テント、たんぽぽ舎さん的実践知性批判デモが先か、労働組合運動から格差論、政党政治の《利害対立》的立て直し、マルクスの資本主義批判の立て直しが先かの問題であるのだが、それを一気に行うのは、新たなたった一人の天才英才教育、モーツアルトを求めるのではなく、「場」としての共同作業として一気にできると言う社会主義的三ヵ年計画と創造の道筋を立てる事であると言う事です。
(4)結語
❶20世紀の歴史を置き去りにしない。マルクスを置き去りにする事に反対の立場である。
❷教育商品の結実は、ソビエト的空虚な勲章であり、名誉教授など世相から遮断されたるアカデミズムの事であり、庶民、大衆の右傾化などは、その空虚な左翼性に反発をしている事実。
雨宮処凛氏の「生きさせろ」の次元、人間の本質論的なものに、上記の「教育商品」としての結実に対立している事に気が付き、真の生涯学習の場を築くことと=資本主義(幼年期の終わり)とちきゅう的社会主義的段階の確立を一致させることの論理体系に他ならない。
❸資本主義、金融商品論的立場の延長は、時間稼ぎの段階に来ている。時間との闘いである事を実存哲学、「存在と時間」からも学びなおす必要がある、このことへの共鳴から開始されてる。
❹ちきゅう座拠点にも蔓延している厭世観、それを正しながら、反原発ブーム、ピケティ格差論ブームを一過性にのものにしてはならない立場が、ちきゅう座拠点の主要論点として、明確にしていかねばならない。
以上の次回への承前として。(取り急ぎ乱筆失礼して)