『日本経済新聞』が英日刊経済紙『フィナンシャル・タイムズ』(FT)を買収したという。極私的感想を述べたい。
《タテのものをヨコにする邦銀と日経》
1974年のことである。三人の信託銀行員が「ウォール街40」というビルでニューヨーク支店の開店準備に奔走していた。そこに机を一つもらった私は、同じ会社だが駐在員ではなく半年足らずの「研修生」だった。金融市場をよく見てこいと命じられたのである。米大手証券の新人教育を傍聴したり、一人で米欧のカウンターパートを取材した。二重価格構造(two-tier market)の株式相場の崩壊にも遭遇した。米信託会社の資産運用現場にいたときである。エリート運用者も狼狽するのを見た。水門事件で退陣する大統領の演説もテレビ視聴した。良い勉強になった。
ニューヨーク駐在員諸兄の仕事に現地情報の報告があり、彼らは『ウォールストリート・ジャーナル』や『ニューヨーク・タイムズ』(ビジネス欄)を読んで、ヨコのものをタテにしたレポートを、東京本部へ送っていた。至急のものはテレックスで、通常は航空郵便の時代である。興銀や東銀や野村は一次情報もあろうが、新規参入者としてニューヨークへ殺到する日本の金融機関はシロウトの集団であった。
日経の米国金融記事も基本は同じである。一言でいえば現地メディア記事の要約であった。
《英米経済紙の存在感とリアリズム》
40年が経ち、私が退職してから20年になる。
現役時代は、米紙のほか英紙FTや『エコノミスト』を読んだ。彼らの事実報道もコラムも、ヨコタテ式記事の多い日経とは格段の差があると感じた。
今はどうであろうか。改善されていると思いたい。
日経FTに関するメディアの評価は、買収価格の1600億円の是非をめぐる損得勘定ものが多い。しかし、ことの本質は、相場情報を起源とする日経が、イギリス帝国主義のDNAをもつFTを「企業統治」できるか、である。
私のいた企業は 設立母体の一つが野村證券だった。野村が、かつての圧倒的な力を失った理由を同期の友人は、2008年の「リーマン・ブラザース」部門買収に求めている。当初に期待した相乗効果が出ず、むしろ両者の企業カルチュアの差異が、野村のアイデンテイティーを失わせたというのである。私は内部を知らないから、この判定はOBのノスタルジックな繰り言かも知れないと思う。また不調の原因はリーマン合併だけであるまい。
《第三世代も揺らぐ今、日経の統治は如何》
早大教授の谷藤悦史氏が『マスコミ市民』(2015年8月号)に書いている。
ジャーナリズムの第一世代は主張ジャーナリズム(蘇峰や諭吉の時代)、第二世代は事実報道ジャーナリズム、第三世代は批評・解釈ジャーナリズムだという。国際的にも共通の現象だそうである。第三世代では、欧州では「ジャーナリストが良いコラムニストになる」という実例に現れている。(氏によればその成功もIT化などで揺らいでいるそうだ)。FTのコラム「LEX」や、NYTのOpinion欄の面白さを、いくらか知る者としてこの分析は納得できる。
問題は日経である。経済評論家の佐髙信は、かつて日経を「日本株式会社の機関紙」と呼んだ。なるほど、だからオリンパスや東芝のスキャンダルはスクープできないのであろう。その編集方針も以前に紹介した通りで、ポビュリズム的である。「財界の提灯持ち」である。しかしFTも提灯持ちではないのかという反論があろう。私はそうだと思っている。
FTの提灯は世界企業が信奉する「新自由主義」というスマートな理念である。
しかも世界の企業人への認知度は、FTと日経とは大差がある。役者がちがう。
「日経FT」は「野村リーマン」の二の舞になるのか。成り行きを注目したい。(2015/08/04)
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