小説 「明日の朝」 (その14)

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ノースリーブの肩口からのびる柔らかい腕が優しくて、まぶしい感じだった。朝付けていた薄いカーデガンをとって、代わりに胸に木製のネックレス姿だった。おしゃれに気を配ったこんなに活発な女の子が自分のアパートを目指して来るなんてこれまで考えたことのないことだった。が、そうした新鮮な思いとは別に、小さなこだわりに似たものが脳裏にあるのも確かだった。いつもと少し違った感じの聖子が居るようでもあった。<みずから一歩前に出ようとする聖子>そうした感じだった。
吉祥寺駅南口の大通りを渡って、しはらく住宅街を歩くと井之頭公園だった。昼間の日差しの中では特別魅力があるとは思わないが、夜になるとなぜか落ち着いた雰囲気をかもちだす。つき合い初めてまもなく聖子を誘ったのも、そんな夕闇の中だった。その時聖子もこの公園を気にいった様子だったのを思い出す。
公園の真ん中にある池を渡ってすぐ、右側の木立の奥に数寄屋造りの喫茶店があった。その向こうには赤い提灯が並ぶビヤガーデンもあった。駅に向かう途中、聖子をそこに誘おうかと思っていた。
「コーヒーでも飲む?それとも生ビールいきますか?」
「コーヒーでいいです」
聖子が生真面目に言って二人は数寄屋造りの店に入った。
「これお土産なんだけど、しばらく私持ってる」
聖子がハンドバックと一緒に膝に置いた小さな紙袋を示した。
「有難うね」
「たいした物じゃないんですよ。子ども騙しみたいなんだけれど、村で売り出してるもんですから…」
「俺のところには何もないから、何でもおいしい食べ物になるんだ」
聖子がクスリと笑う。
「ローラスケートは昨夜大変だったんですね。アイススケートでも今朝からその話しばっかり。うちもやられたらどうするって」
「アイスも嫌がらせする者はいるだろうね。でも、油撒いても仕方ない感じじゃない」
「アイスはねぇ、糠とか砂を撒かれるんですって、最近はないみたいですけど、昔屋根がついてない頃、砂撒かれたりしたことあるみたい」
「なるほどね」
「それでみんなで犯人捕まえてお仕置きしたんですってねえ」
「お仕置きか…。そんなことまで伝わってるの」
「アイスもローラも野球場も現場の従業員はどこも同じみたいですよ。朝までマージャンしてたり、泊って行く人がいたりで。だから、昨夜はローラの人と一緒にアイスの人も二人お仕置きに行ってたみたいですよ。ローラの丸尾さんから“犯人捕まえるから手伝え”って電話あったみたい」
「なるほど。そおいうふうになってるんだ」
「それ、昔からお仕置きって言ってたみたい」
やはりそうだったんだ。自分たちのシステムが出来上がっているんだ。しかも自治的暴力装置も備わっている。<だからあの現場はもっている>
コーヒーを一杯飲んで二人は店を出た。黄昏の公園に薄闇が迫り始めていた。このまま公園にいても退屈な時間ではない。しかし、足は自然にアパートに向かった。やはり二人だけになりたかった。
公園を囲む南側の木立を抜けると、生垣に囲われた屋敷が続く。その道端に、周りの屋敷に較べていかにも安っぽい二階建ての家があった。それが平崎のアパートだった。二階の南側の角。それが平崎の部屋だった。
部屋に入り、聖子が紙袋から土産物の包を取り出す。予想以上に分厚くて重い土産物だった。俺のためにたくさん包んでいるのだろうかー。「有難う」彼は立ったままそれを受け取り、窓辺の机に置いた。その机の端には先日貰ったばかりの目覚まし時計があった。すでに彼の生活に活かされている。そうしたことも含めていろいろ語ることがありそうだ。しかし彼はそうした思い付きを頭の隅にはじいた。
聖子もすでにこの部屋のことを知っているのだ。人を迎え、もてなす用意は何もない。彼がたまに使うお茶の急須はあるが、人前で使えるようなものではなかった。窓辺のその机の下はいつもは万年床だった。晴天の日なら、布団をそのままにして窓を開けておけば布団の乾燥になる。そんなことを考える日々だった。さすがに、初めて聖子を迎えた時、彼は久しぶりに布団をあげ、簡単な掃き掃除をしたものだった。そして、今日もまた同じようにした。心の中で<結局のところすぐ敷き戻すだろうに…>などと思いながらー。
「二人で向きあって座る小さいテーブル必要かも知れないね」
彼は思い付きを言った。そして聖子の肩に手を置いて抱き寄せる。
柔らかく甘い唇。なめらかに弾む胸と身体ー。抱き締め、彼女のブラウスのボタンに手を掛ける。そして途中で彼は、出がけに思ったとおり、聖子から離れて押し入れの襖をあけ、布団を取り出す。最初の時もそうだった。燃えるような触れあいの中、おかしな間だと思いながら彼が聖子から手を離し、襖をあけた時、彼女がそばに来て彼に体を寄せ、すがるようにしていた。しかし今日、聖子は自分でブラウスのボタンを外す。胸の騒ぐ時だった。柔らかく弾む肌、しなやで丸い厚み―。
彼は再び聖子を引き寄せ抱きしめる。唇をつけたままゆっくりと体を沈ませ布団に倒す。二人は舌の触れ合いを求め続け、その二人の手はすでに勝手に何か他のものを求めて動いた。柔らかく弾む乳房。なめらかで分厚い太股と臀部。すべてを抱き込み、押し付け、求めて指が這う。衣の上から掴み。もどがしくその衣の中へ。聖子が自分でブラジャーを外す。飛び出す豊かさ。柔らかさ。愉悦。彼の顔がそこに埋まる。彼の一つの手はなめらかな肌を這い、豊かな臀部。堅くてはじけるスカートのホックを外す。そして聖子が彼の希望を察して自分の手をもスカートに添え、彼の手と一緒になってその邪魔者を外そうとする。その間に、彼もまたもどがしく衣服を取る。
すべての希望。悦楽と快感。彼の唇は乳房へ―。乳首へー。もう一つの手もまたもう一つの乳房へ。乳飲み子のように欲張り、掴み揉む。が、その手は単なる乳飲み子ではなかった。やがて、一つの手が聖子の肢体を這いまわり、腰のくびれから盛り上がりへ、そして、ゆたかな大腿の間へー。聖子もそれに応じて、奥まった秘所、その柔らかさー。選ばれた彼の指だけが誘われ、忍ぶ泉ー。
神秘の泉が、濡れて柔らかく開いていく。さらに欲張り、すべてを。甘い唇を、弾む乳房、しっとりしたくびれと臀部、抱きしめ。そしてもう一つの手が、強欲に堅く突張る自分自身を導き、柔らかく開く神秘の泉へ、押し込み、入る感触・悦楽ー。聖子の手がしがみつく。忍ぶ声。互いに抱きしめ、触れ、揺れて擦れ―。やがて希望が焦点に集まり、さらに奥へ、波打ち、擦れあって進むー。まるでその先で時間が止り、それが永遠であるかのようにー。
静になった後も二人は言葉もなく抱きあっていた。触れ合う悦楽と幸せの余韻のなかー。
二人がアパートを出た時、辺りはすっかり暗くなっていた。来たときと同じ生垣に沿った小路を歩いて二人は井の頭公園に降りて行った。淡い水銀灯に霧がかかり、どこからか水鳥の鳴く声がした。
 二人は黙って池の周りの小路を歩いた。何を話していいかわからなかった。単なる動物のように言葉もなく、家もなく、職場もなく、自然に任せた人生ならいいのに、と平崎は思う。しかしそうはいかないのだろう。
「ローラの事務所の三人にも土産持って行ったの?」
「うん。時間がなくて結局帰る時寄ったの。そしてね、ローラを出る時、山田さんと一緒になったの。山田さんも早番だったでしょう、だから階段のところでピッタリ出会って、駅まで一緒だったの」
「……」
「山田さん新宿で乗り換えでしょう。だから、そこまで一緒になって…」
「そうか。君はいつも千葉方面だもんねぇ」
「そうなの。いつもと方向違うじゃないって…。だから平崎さんの所に行くのって言っちゃった」
聖子がいたずらっぽく言う。平崎も笑った。しかし心の中は複雑だった。山田のことだ、何を言いだすかわかったものではない。このことはすぐローラスケート内に伝わるだろう。もっとも、それを隠す必要もないだろうと思う。職場ではすでに二人のことは衆知のことだ。そう思うのだったが、平崎には喜んではいられないものがあった。聖子との関係がこの先どうなるかー。それはまだ定まったわけではない。少なくとも平崎の内ではそうだった。
「山田さんにからかわれたんじゃない。嫌みっぽくチクリと」
「でも今日はそんなこと言われなかったわ。先輩らしく教えていただいたの…」
「何を教えてもらうの?山田さんに」
二人は思わず一緒に笑った。
「芯は真面目な人なんだなって思った。山田さんも入社当時は女子寮に居たんだって、平崎さん知ってた?」
「いや、全然知らない」
「二年間居たらしいのよ。そして彼氏が出来て今の中野に引っ越したんだって。それ聞いてビックリしちやった」
「……」
「だから山田さん私に、吉祥寺に引越せばって…」
「そんなこと教えてもらったの」
平崎は冗談に紛らわせた。しかし内心ドキリとした。<おかしなめぐりあわせになってるぜ…>と。
二人は小路から林に入り、再び池の端に出た。霧が水面を覆い、池の真ん中にある橋を渡る人の足音が遠く幻想の彼方から聞こえた。池に面したベンチを見つけて彼は聖子を促した。落ち着きたくはなかった。しかし反対に、歩き続けたくもない、そんな気持ちだった。水銀灯に浮かぶ霧がゆっくり動いていた。
「今日来たの迷惑じゃない?」
何を考えているのか聖子が彼を見ていた。
「迷惑じゃないよ」
「私ね、山田さんには何も言わなったんだけどね、本当は寮を出てもいいと思って…。独立した生活してみたいと思ってたの。だから今日平崎さんに相談してみようと思って」
「そうだったの」
聖子が積極的にアパートに来ようとした理由がやっとわかった。
「それでね、自分のアパート探すんだったら、平崎さんの近くがいいと思ってるの…。平崎さん迷惑じゃなかったら」
想像していなかった。しかしあり得ることかも知れない。彼はうろたえた。しかし平静を装った。
「迷惑じゃない。そんな事考えてたの」
「いつでもいんだけど、平崎さんと一緒にアパートー捜したい」
今日聖子はそれが言いたくて来たのだろう。しかしそれならそれで、もう一つこだわりのようなものが残っていそうなのだ。聖子の目的がはっきりすることで改めて思い付くものがある。聖子が父親に俺のことを話したと言い、「ごめんなさい」と言ったこと。その時俺のことをどのように話したのか、何を思って話したのか、そのことは二の間でまだ言葉になっていない。彼女はそれを語らずに、飛び超えようとしているのかー。聖子はそのことを今俺に知らせようとしているというのかー?
「いくらでも一緒に捜すけど」
 彼は言った。が、言葉は口の中で乾いていた。
「吉祥寺に来て捜してもいい?」
「ここに来て?」
「うん」
「いいけどね…」
<俺は何をしているのだ。聖子はそれを伝えようとしている。おそらく独りで、乗り越えようとして…>
「私もう寮母さんに話してるの。最初は総武線の沿線と思ってたの、会社に近い所でいいと。でも平崎さんがよかったらこの辺に来たい」
「いいけど。会社には結構遠いよ。この辺は」
 言いながら彼はヒヤリとするものを感じた。
「遠いのはかまわない」
 聖子が彼を見ていた。
「それはいいとしても、もう一つね、実は俺ここに長く居ないかも知れないんだ」
 彼は思いつきを言った。そして急いで言い加えた。「前から伯母さんが来てくれって言って、断り切れないんだよね。伯母さんの体力もなくなっていて、実はそんな話しをしてるとこなんだ。君が来てくれるのはうれしいけど。」
「私がいちゃあだめ?」
「……」
 聖子が思いつめた顔で聞いた。何かを言わなくてはならないだろう。
「そういうことではないけど」
「一緒のアパートでも私いい。伯母さんの近くでもいいのよ」
 聖子が詰め寄った。
<この女は独りで超えようとしている。親には反対された。だから“お父さんお母さんに何を言われてもいい”と言った。とはいえ何を反対されたのか…。俺は何も約束していないのに…。体を抱いた。求めた。だけど一緒に暮らすことや結婚は考えていなかった。いつか考えることがあるかも知れないとして、彼女は何を親に何を話し何を反対されたのか>。もっとも、それもこれも“言わずもがな”かも知れない。しかも、それは二人の間で最早問題ではない。彼女は独り超えようとしているのだからー。そしてそれを今俺に知らせようとしているのだからー。
「……」
闇の中で聖子が彼を凝視しているのがわかった。<とうとう行き着くところまで来た…>平崎は思った。ベールに包まれたままでいたかった。しかし、ここまで来るとそうしたベールは欺瞞のベールになるかも知れない。
「俺ねぇ」
追い詰められ、彼は言った。声がかすれ、胸が痛かった。しかし自分に正直に生きる以外何も頼りになるものはない。
「俺、実は他に好きな人が出来たんだ」
 彼は闇に言った。本当は何も言いたくなかった。
「やだ〃」
悲鳴のような女の声。
「どうしてそんなこと…」
「……」
一瞬後、横で白い物が跳梁した。
 彼はなおも闇を見た。聖子が横で立ったまま彼を見ているのがわかった。
「いやだもう…」
 聖子が言った。そしてあわただしい靴音ー。
 靴音が遠ざかる。立ち上がろうとする自分がいた。彼はそれを見たような気がする。が、彼はやはり闇を見たままだった。
<許してくれ。これが俺なんだ。俺はこんなくだらない男なんだ>
 靴音が消えていた。まるで何事もなかったかのように。
彼はそこにいた。闇に沈む自分を見とりながらー。ふと気づくと靴音がした。近づくのだろうかー。が、しかしそれは女の小刻みな靴音と違って、ゆっくりと砂利を踏み、後ろの小路を遠ざかる。

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