《中野@貴州さん。花崎 皋平氏へハガキを宛ててみました。》マルクス生誕200年祭(2018年5月予定)についての内外性

先日の講演の時、お話ししていた際、花崎 皋平氏に名刺を頂きましたので、年内に何とか便りをしたいと考えていましたのでしたが遅くなってしまい、葉書になってしまいましたが、出してみる事にしました。

(ハガキの後半、尻蕾になって読みづらい文面を失礼します。明日12日投稿です。数日後無事着くと良いのですが…。お忙しいと思うのですが、ちきゅう座を是非、ご覧になってアドバイス下さいと伝えてもいますので、二重になる内容もあり、他の方の様に、Eメールにすると良いのでしょうけれども、最初は、葉書としてみた次第です。)

当面、来年参議院選挙、2018年マルクス生誕祭を目標に全員体制で、事に当たりたいと考えています。

柄谷行人氏の論ではありませんが、先日の憲法1条と9条のフロイト的無為意識潜在性の部分と、意識されたる知性の側の構造について、ある意味、思考する社会運動の側の連帯、連携としての狭い範囲であっても、共同体的展開とは、如何にして可能かの内側の論議の場が、「ちきゅう座」「たんぽぽ舎」でもあり、

外側とされたる潜在性としての無意識領域にある民主主義、国民、労働者、そして、彷徨を始めている若者から老人の苦しみ、人生の側の全体集合としてのまずは、先住民とか民族論的低みに置くのではなく、「普通の人々」隣りの日本人、三世代革命論(一族・家族・個人)、人間の一生とは何であるのかの対話を先行させながら、共通分母たる基盤とは何かを描いていきたい欲求がある。

先住民についての苦しみ、民族や独立国植民地国の苦しみ、それは、具体的には、アイヌ民族であったり、沖縄、辺野古問題であったり、または、「カムイ伝」で描かれていた部落差別、身分制差別の問題であるのだけれども、それが、分って欲しいとして、書きだし、伝えたいとしているのは、向こう三軒両隣の日本人の良心であり、それが伝わらず、思わぬ反発や拒絶、反知性、反論理、ヘイトの場があったとしても、人間の対話の場こそが、民主主義の基盤であり、「説明責任」としての言葉をせめて隣にいる人、本が好きな趣味を共にしている人にまずは、対話を広げなくてはならず、

それが、苦しんでいる人であるのであるなら、それこそ、「どぶ板選挙」的に、社会の救済の手を持って、盲目的なる「独房=認知」から解放していく事が、既に、目的と手段の一致である事の到達であるからである。

医療革命的なあまりに生命倫理的な革命へ。

なんとか、狭い「ちきゅう座」の殻を破って、インターネット活用の幅を広げたいと考えているのだが、伝えるべき思想の整理がままならない状態であり、先日の講演にもあり、また、僕自身も書き込みにもしていた様に、「左派リベラル」と括られ、更には、「リベラル」と称されている中で、左派は、現在の日本では、「消去」されている状態であるのだ。

(先日、衝撃1にて、貼り付けた動画、田原総一朗×池上対談にあって、ヨーロッパでは左派は、一定の勢力を保っていると言う池上、しかし、日本の左派は、蛮勇ゲバはあっても、覚悟がないと田原、この限界があるのだ。)

中国リベラル講演についても尖がった左派の代表としての具体的カリスマ象徴の位置づけである最後の牙城?柄谷行人批判として「過去化」する展開によって、時代的歴史的昭和年間にも疎い、聴衆に入り易いものとする配慮として展開があったのか?

言葉通りではなく、吉本隆明的にも言葉の裏側にあるものが何かを考えていた。

相対性『羅生門』はどこにでもあるものだからだ。

寧ろ、語る側の問題ではなく、聴衆側の無垢に対して、ドイツ観念論も空想的社会主義、古典経済学加味としての展開も届かない、どうでも良いアカデミックなこだわりとされている印象があり、そこに、絶望的歴史の断絶がある事をどの様に、わかり易く、伝えるかの技法こそが、問題となっており、そこからひも解いているとしたなら、とても、現代中国へと論を進めることが出来ない。

それぞれが、ヘーゲル的ではなく、キルケゴール的個人的飛躍、実存哲学の孤立であり、「飛躍」としての「独房」状態にあること、

(再び、動画から)池上彰氏が、「小学生にもわかる政治」を語ろうとしたら、お年寄りが視聴者になっていて、「みな政治がわからなかったのか」と語っていたのと同じであり、

池上彰、佐藤優からしか始められない、《知の商品的断絶化》があり、これが、絶望的に、民主主義をも遠ざけていると言うあり方を「ちきゅう座」はどの様に、国民へ、労働者へ、若者フリーターまでに、「資本論」までの道を説明できるのかのそれぞれの模索があるのではないだろうか?

マルクスは、もう終わったと即断すること、それも一つの立場であり、柄谷行人氏を「過去化」さらに、危険な「黒田寛一」を語らず封印化して、毛沢東主義側ではない、リベラルとして、「テーブル」を設置するしかない、日本の首都圏知識人のテーブルこそが、「中国、台湾、日本」の当面の共通分母化であり、「出発点」として展開するしかない事が歴史断絶的問題点であるのだ。

共産主義理論と現実・歴史の離反は、池上彰氏が語る「繰り返すバブル」の構造と同じであり、同じ、人間が、その場にいるのではなく知らない新しい人が、入れ替わり世代としてまた、最初から同じ過ちの中で、歴史的享受せずに、いるのと同じことだと言う事だろう。(経済学教室参照)

この問題を解決するには、ヘーゲルから更には、柄谷行人氏の『世界史の構造』的総論的理解から再び始めなくてもならないのだが、国民も労働者もやはり、そこでは、孤児にならざるおえず、歴史ではなく、日常性と言うハイデガーの頽落に閉じ込められている図式をどうするのか?

どうしても、そのアンチテーゼたる《知の共産化》としての教育課程の共同主観的テキスト化体系としての展開を必要としているのであり、

商品性資本主義の枠にはまるものではないだろうと言うのが、こちらの《人間学》《人の生涯》《ゲバラ的医療革命的基礎》として、まずは、帰納法的に語りだしている視点である。

さて、今回の本題へ入ろう。

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「日本革命への衝撃」(その3)

行きたかったが、こちらも行けませんでした。

12.9 『検証TPP―全国フォーラム』のお知らせ

https://chikyuza.net/archives/58401

師走、年始面白そうな集会があるのですが、また、時間があわず参加できないのが残念。

内田聖子氏講演「TPP協定文の衝撃」(第79回 草の実アカデミー)

https://chikyuza.net/archives/58520

(内田聖子さんは、ツイキャスにてTPP批判を視聴したことがあるのですが、頼もしい存在です。)

12月12日世界資本主義フォーラム:青才高志氏-「株式資本論」に期待すること

https://chikyuza.net/archives/58552

矢沢さんのコメントを読んで- 資本の物神性」「資本の商品化」「株式資本」について

https://chikyuza.net/archives/58579

1月16日現代史研究会:柴垣和夫(東京大学名誉教授)/日本における新たな財閥復活と日本経済のこれからの進路について

https://chikyuza.net/archives/58582

マルクスから宇野、岩田展開の日本マルクス、資本主義研究の上記的〔内外性〕としての一瞥は、2018年マルクス生誕祭的な布石として、更に、問い出されるべき、左翼的余禄に属しているものであり、

更に、具体的実践性としての問いとして「語り変えを必要としている」だろう。

僕としては、佐藤優氏の宇野入門的展開(エンゲルス論ノート)ではやはり不満も多く、それを再び、生きた実践の理論として、復興する世間へと問い直す基盤尽力に頭が下がるのであるが、

まだまだ、中国リベラリズムテーブルから歴史的に繋がる、繋げる「大方程式」としての2018年への助走として、まさに、入門から体系、応用、実践としての歴史の大海に結び付けるのはどうしたら良いのか?

それを念頭に置かねば何も始められない。

人の一生は短い。

水木しげる氏野坂昭如氏そして、『家裁の人』、『白土三平の真実』の毛利甚八氏が相次いで亡くなられている。

『人間臨終図巻』的総覧の中で、「死」を問い続ける中で、短期的長期的見通しを僕自身も現代日本人同胞のみなさんも同じように見つめなくてはならない宿命と真実への誠実を問わねばならないのは同じなのではないだろうか?

 

これこそが、ヘーゲル的には、精神革命であり、『世界精神マルクス』であり、マルクス的には、唯物論的諦念としての世界、白土三平、山田風太郎の「花火」の様な命の在り処でもある故に、そのすべてに対して、無頓着ではいられないのだ。

政治に結び付けて、夏の参議院選挙の陣へ。

http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2015/12/post-6ce2.html

年末猿芝居に騙されるな! 自公の「軽減税率で妥協」の欺瞞

https://chikyuza.net/archives/58594

政権奪取から財政学搾取の根本的改革へ。

中国にとり憑いているものは? -2

https://chikyuza.net/archives/58571

日本1億人の人生と中国13億人の人生を背負う政治と歴史ではおのずと違う。

真の政治家とは、リンカーンであり、レーニンであり、全国民、1億人に語りかけられる創造的人間性に基づく演説をする、政治家労働の商品性としての価値とはそれであり、「一億活躍社会」とか「死ぬまで働け99%よ」的な離反をなす安倍政治は、ブルジョワ性(幼児性)の極致でまったく、お話にならない退行だろう。

水木しげる巨匠の死に何も思わないのだろうか?

日本人を大切にしているとは思えない。

日本革命への衝撃より、革命的外交対話へ。

まずは、アソシエーション連携から夏の参議院選挙に陣である。

付録:TPP堤美果氏の展開について

http://revolutio.exblog.jp/22645146/