【世界資本主義Ⅰは現在読むに足る書物か?(問題点その1)楽しいピケティ⑤】第1・2部《臨終と商業》第3部《ちきゅう座的大河ドラマの流れについて》

【認知症問題の周辺から】《臨終と商業》

第1部 〔巨大メディア〕の「支配報道」について

僕自身の現在の主張は、単純でわかり易いものであると感じている。

〔巨大メディア〕が今、どの様な問題意識として「支配」「報道」しているのかを具体的に列挙していくとしたなら、

まずは、かつてRCサクセション、故忌野清志郎氏も歌にしていた様に、ストーカー殺人を訴えている弱者を守り切れない何もしない警察の在り方に代表されているそれぞれの命を蔑ろにしている、政治、行政、司法、警察に至るまでの「官僚支配」の在り方についての異論として具体的基点として、「認知症」問題を第一に考えている立場である。

黒澤明『生きる』(忙しい忙しいしかし、彼は何もしていないのだ)

これこそが、官僚の空洞、政治の空洞、警察の空洞の実態であると言う指摘である。

ここには、商業主義的断片化があり、建物だけが立派であっても人間が不在である問題点と言うわけである。

これは、昨今繰り返し報道されている

広島中3自殺

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160314-00000505-san-soci

小・中学生の自殺、原因の1位は「学業不振」

http://style.nikkei.com/article/DGXMZO79950870Q4A121C1000000

更に、川崎の老人ホーム連続殺人事件や賠償としての徘徊老人の列車事故悲劇、最高裁判決など極端な不合理、つまり、死んだり殺されたり自殺に至るまで問題視されない事、更に、指摘されていた様に、川崎の連続転落不審死については、早急に調べるなら第二第三の被害は防げたかもしれない、忌野清志郎の「動けよ警察」の叫びの様に、誰もが、その「命」について無頓着な社会である事は、前近代的発展途上国として日本においても同じであり、尾木直樹氏が、バス事故に次いで驚いていた教育現場における不合理は、万引きを疑われて自殺した学校側の単純過失に留まらず、もっと広い意味である事を分析に上げるべきであり、それが、「詰め込み教育」であったり、「画一化教育」でもあり、端的には、血の通わない官僚主義的階級化教育としての問題点であろうと言う原点があると言う事に他ならないが、「死」「自殺」「殺人」「事故死」その極端な問題だけが刺激的に問題視されるだけで、根底に迫れずにいる問題点に他ならないと言う事だろう。

極端な例に慣れされる故に、微妙なニュアンスが消し去られてしまい生きている人間、生活にまで迫れない、迫らない、そして、排除の論理として、加害者、被害者、双方の家族の在り処、悲劇は、問題とされない、そして、昔ながらの「村八分」の論理が、繰り返されている悲劇の増幅について何ら、教育学的にも社会学的にも言及されていないのではないだろうかと言う具体的考察から開始する事を、「即物的」「唯物論的」と僕は、呼んでいる訳である。

問題は、ただただ子供の貧困率、情報弱者性、貧困と言う下部構造(土台)であり、その経済学的文脈であると言う批判、その当たり前の結論である。

共同体経済として転換を具体的に今後、方法論を語っていきたいとしている点でもある。

そして、この様な切実なる展開へと向かっているのだと言う事であるのだ。

「日本死ね」の悲鳴 あらゆる分野に広がる

http://www.asyura2.com/16/senkyo202/msg/399.html

しかし、保育園が、増え、共働きの夫婦が、増える事が、親の愛情に飢えたる幼児に取って、本当に、幸せな事であるのだろうか?

その結語としての労働奴隷である親と子の中で、生じている結果が、「情報弱者」問題であり、「認知症」問題であると言う図式、悪循環、悪無限をどこで断つのか?

この問題に他ならない。

資本主義分業の結果としての官僚主義、機械主義的支配、それによって、かき消されて来たのは、「総合的人間」であり、「歯車」となり、「労働奴隷」となる「労働力商品」となる構造があると言う事、これをどこから改革していくべきかの方法論についての言及をなす具体的基点を複合的に示していく事に他ならない。

柴垣先生の「労働力商品化の止揚」に該当する部分が、上記と僕は考えているわけなのだ。

巨大メディアの支配が、「死」「殺人」「自殺」「事故死」「悲惨死」と言う「爆報フライデー」的週刊誌的野次馬根性に留まり、代表されている問題点から再び、「教育と人間」問題、「労働と人間」問題(=保育園増やせよ)(=介護離職問題切り崩し)この様に、同じ位相にある事としての最初の「人間学的解放」を「医学的独占タブー」の解放として、革命的提言を誰にでもわかり易く展開したいとしているのが、苦心している点である。

第2部 認知症医学の問題点を主題化。まとめについて

《認知症は防げるにも関わらず防がない社会的構造》

①政府、地域広報の不足について。先人の知恵の社会的開示。爺(じじ)の役割りの確認。

②医療、医師の社会学的無理解、人間学的無理解。

③施設の認知症、能力の維持設備の不備、リハビリの不在について。

和田秀樹氏が、どの位の意識で、書いているのかは定かではないのだが、まったくもってここに一致しているので、再び、リンクを貼っておこうと思う。

http://revolutio.exblog.jp/22944719/

本来、人間の生涯と「労働奴隷」状況問題と「情報弱者」「認知症」までの医学的解放とは何であるのか?

健康な者に病気の人の事は理解されない中で、如何なる「広報」が、「予防として可能であるのか」それを

「全力で伝えていけるのか」この問題に移るわけである。

「同じ失敗を繰り返してはならない」

医学的データー化広報の問題があり、更に、戦争法、戦後70年の教訓があり、311フクシマ原発事故の教訓があると言うのは、同じ位相であると言う認識を広げる事を根源化する事が、問われていると考えている。

「楢山節考」「恍惚の人」では徹底されていない。

寧ろ、宮崎駿アニメジブリアニメにおいて、「ハウルの動く城」元気なお婆ちゃんでは足りない真の人間の悲劇の広報を盛り込むのでなくてはならない段階であると言う事ではないだろうか?

それを促すプロジェクトチームをどこからでも、また、ちきゅう座発でも開始しなくてはならないと言う事である。

具体的実践としての短期的長期的改革案は更に、続報を考えている。

 

第3部 思想から情報へ

《ちきゅう座的大河ドラマの流れについて》日曜日の友愛党会合から

http://revolutio.exblog.jp/22977268/

付録リンク集

http://revolutio.exblog.jp/22972758/