今こそ知ってほしいアラゴンの詩 - 4月から教員や学生となる方へ -

 4月は門出の季節だ。中には、4月から初めて教壇に立つ人や、初めて大学の門をくぐる人もいるだろう。私は、その人たちの新しい門出を祝って、フランスの詩人、ルイ・アラゴン(1897―1982年)の詩の一節を贈りたいと思う。この1年、この国の教育現場は荒廃しているのではと思わせる出来事や不祥事があまりにも多かったからである。

 ルイ・アラゴンは詩人であるとともに小説家でもあった。
 1914年に勃発した第1次世界大戦に従軍後、シュールレアリスム運動に加わり、その主要メンバーとなる。1927年にフランス共産党に入党。ソ連の詩人・マヤコフスキーの義妹エルザ・トリオレとの出会いを機に社会主義リアリズムに基づく小説を発表するようになる。1939年に始まった第2次世界大戦中は対独レジスタンス運動に身を投じ、レジスタンスを主題とする詩を発表し、フランス国民に広く愛しょうされた。大戦後はフランス共産党中央委員として活動するとともに多くの詩や小説を執筆した。
 
 私がこの詩人の存在を知ったのは、今から約60年前の1950年代のことだ。早稲田大学に入って出会った先輩から「フランスにこんな詩人がいるぞ」と教えられたのが、ルイ・アラゴンであった。
 当時、同大学では学生運動が盛んで、その先輩も学生運動に熱心だった。私は、その先輩との付き合いを通じて、そのころ、同大学の学生運動活動家の間でアラゴンの詩が熱烈に読まれていたことを知った。詩そのものに感動しての愛しょうだったのか、それとも、アラゴンが困難な状況の中で知識人として対独レジスタンス運動に加わったことへの敬意を込めた愛しょうであったのか、私には分からなかった。今では、おそらく、その両面からの傾倒だったのだろうと思う。

 先輩たちが、最も愛しょうしていたアラゴンの詩は、彼の代表作の一つとされる「ストラスブール大学の歌」の一節だった。
 この詩は、1945年に刊行された彼の詩集『フランスの起床ラッパ』に収められていた詩で、第2次世界大戦中、ナチス・ドイツ軍によって教授や学生たちが銃殺されたストラスブール大学の悲劇をうたった詩だ。先輩たちが愛しょうしていたその中の一節とは、次のようなものだった。
 「教えるとは 希望を語ること/学ぶとは 誠実を胸にきざむこと」(大島博光訳)
 
 この一節に初めて接したときの深い感動は、いまでも鮮やかに覚えている。その時、私の心をゆさぶった感慨は「この一節ほど教育・学問の真の意味を言い当てた字句はないのではないか」というものだった。そして、こう思ったものだ。「よし、大学に在学中は誠実を胸に刻もう。そして、将来、教壇に立つようなことがあったら、希望を語るよう努力しよう」と。それからは、「ルイ・アラゴン」という名前を耳にしたり、活字に出合ったりするたびに、思わずこの一節を口ずさんだものだ。 

 しかし、大学卒業後、私は新聞記者の道を選んだため、「アラゴン」は次第に遠いものとなっていった。思い出すこともなくなった。ところが、昨年、ひょんなことから「アラゴン」が私に甦ってきたのである。

 昨年11月18日夜、東京の日比谷コンベンションホールでドキュメンタリー映画『まなぶ 通信制中学 60年の空白を越えて』の有料試写会があった。映像ディレクターの太田直子さんが、さまざまな事情で中学を卒業できなかった高齢者が東京都千代田区立神田一橋中学校の通信教育課程で学ぶ姿を、5年かけて記録した映画だった。
 試写会後、会場でシンポジウムがあり、舞台に座っていた講師の1人の見城慶和さん(元夜間中学校教師・山田洋次監督の映画『学校』の主人公のモデル)が発言した。見城さんは「通信制の中学校があるということは知っていたが、そこで、どのような人たちが、どのように学んでいるかというようなことは全く知らなかった。この映画との出合いは感動の一言につきる」と語り、さらに、「学ぶことの意義」に言及して、こう述べたのである。「フランスの詩人、ルイ・アラゴンは言った。『教えるとは希望を語ること 学ぶとは誠実を胸にきざむこと』だ、と」

 その瞬間、観客席にいた私の胸に、大学時代に口ずさんだアラゴンの「ストラスブール大学の歌」の一節が甦ってきたのである。私は、60余年前にこの一節に出合った時の興奮を思い起こしながら帰途についた。
 
 教育活動の経験豊かな見城さんの発言を聴いて、私は、アラゴンの詩の一節ほど教育・学問の真の意味を言い当てた字句はないという自分の思いに自信を深めた。加えて、その後、まことに偶然なのだが、そうした自信をいっそう深めることになる。というのは、私が加わっている読書会の今年2月の例会のテキストが、堀尾輝久著『教育入門』(岩波新書、1989年刊)で、同書の末尾が、なんと次のような文章で結ばれていたからである。
 「フランスの詩人ルイ・アラゴンの詩に『教えるとは希望を語ること、学ぶとは誠実を胸にきざむこと』という一節があります。私たちの望む教育は、こうありたいものだと願うのです」

 こうしたことがあって、私は、自分の思いを教育関係の人たちに伝えたくなった。なぜなら、昨年来、教育現場で教員や学生の不祥事が多発していたからである。

 新聞を見ていると、教員の不祥事には、飲酒運転、わいせつ行為、体罰、暴言、情報漏えいなどといったものが多かった。
 そればかりでない。「教育現場でこんなことが」と驚いてしまうニュースに出合うことも少なくなかった。例えば、昨年11月には、東電福島第1原発の事故で福島県から横浜市に自主避難した小学生が、同級生から名前に「菌」をつけて呼ばれたり、「賠償金があるだろう」と金銭を要求されるなどのいじめを受け、不登校になったにもかかわらず、担任教師や校長がこうした事態を放置していたと報じられた。また、昨年暮れには、やはり原発事故で福島県から新潟市へ避難している小学生が、同級生や担任の教諭から名前に「菌」をつけて呼ばれ、学校を休んでいる、との報道があった。
 
 もちろん、大部分の先生は日々、身を粉にして真摯に教育に取り組んでおり、不祥事を起こす先生はごく一部に違いない。が、こうした報道に接するたびに「それにしても多すぎはしないか。なぜだろう」と考え込んでしまった。

 学生諸君についても、びっくりさせられたことがあった。その一つが、有名大学の学生による不祥事である。
 昨年5月には、東大生5人が、女子大生への強制わいせつ容疑で逮捕された。同年9月には、慶応大学が広告学研究会の学生4人を無期停学、または譴責(けんせき)処分とした。処分の理由は、研究会が借用していた合宿所で、未成年飲酒や性行為など「気品を損ねる行為をした」というものだった。さらに、同年11月には、千葉大学医学部5年生3人が、集団強姦致傷の容疑で逮捕された。
 こうした事件が連続的に報道されると、「学園はどうなっているんだろう」と思わずにはいられなかった。

 4月から教壇で子どもたちと向き合う人や、学園で勉強を始める人に伝えたい。「教えるとは 希望を語ること/学ぶとは 誠実を胸にきざむこと」とうたった詩人がいたことをぜひ知ってほしい、と。  

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