古いメモを整理していたら、「経済学の目的」という、いささか肩ひじ張ったメモが出て来た。もうそんなことを考えなければならない年でもないのだが、もう少し若い頃はかなり真面目にこのことを考えていたようだ。メモにはこうある。
これは現代の主流派経済学(新古典派)のいうミクロとマクロの差というものではない。目的が違うというのが最大の違いである。ある経済学者は「経済学の究極の目標は、経済行動の理解ではなく、経済の再生産の構造とその変動を説明し、理解することにあります」と言っている。「(家庭内の)入りを量って、出を制す」という目的からはこういう発想は決して出てこない。
この「ある経済学者」とは、当時、大阪市立大学にいた塩沢由典氏のことである。塩沢氏は次のように言う。
「ケネーやマルクスは、経済分析の出発点に経済の時間的再生産の構造をおきました。この再生産の構造こそが、限定された合理性しかもたない人間がある程度、適切な判断を行える環境的な条件なのです。経済学が、人間の経済行動・目的行動の科学に止まることができないのは、この再生産の構造を明らかにしなければ、経済行動そのものを理解したことにならないからです。これが経済学という学問が背負わされた科学の統一性です。経済学の究極の目標は、経済行動の理解ではなく、経済の再生産の構造とその変動を説明し、理解することにあります」。(塩沢由典『複雑系経済学入門』、249頁)
「経済学の究極の目標は、経済行動の理解ではなく、経済の再生産の構造とその変動を説明し、理解することにあります」という説には、当時は全面的に賛同したが、今も基本的はこの主張は正しいのではないか、と考えている。ただ、塩沢氏自身の叙述は──上記の文は別にして──簡単とは言えない。同氏の『リカード貿易問題の最終解決』などは、通読するのさえいやになる。こういう書き方では、同氏の主張する「経済学の究極の目標」は決して幅広い同意を得られないのではないかと危惧してしまう。
「経済学の究極の目標は経済の再生産の構造とその変動を説明し理解することにある」としても、そのことを分かってもらうためには、それを誰にでも納得できるように書く必要がある。もちろん、だからと言って、日常的な用語(台所の言葉)で書けばいいというものではない。「家計=入りを量って、出を制す」という方法で書けばいいわけではないのである。それと、「家計=入りを量って、出を制す」という規定からははみ出してしまうものがある。「人間の社会関係」である。これがターゲットになっているかどうかは、経済学の主流派=新古典派の場合も怪しいが、「入りを量って、出を制す」という家計にあっても、このことは問題にはならない。経済(分析)の目的が人間の社会関係(の解明)だとするのは、一見奇妙な印象を受けるが、塩沢氏の言う「経済の再生産の構造とその変動」も、つまるところ、人間の社会関係ということに行きつく。逆にこのことがターゲットにならない「家計」というものは、主流派経済学=新古典派と同様に、経済学の本来の課題を見過ごしてしまう危険性を持っている。
塩沢由典『複雑系経済学入門』生産性出版、1997年
同『リカード貿易問題の最終解決』岩波書店、2014年
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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