憲法と落語(その5) ― 「てれすこ」は、権力分立のない社会の噺

てれすこは、子どもの頃からラジオでよく聞いた。さして面白い噺ではない。何度聞いても、オチがよく分からなかった。不粋にオチを説明されても…、やっぱりよくは分からない。分かったようでも面白くはない。

「圓生百席」のCDで聞くと、マクラが実に巧みで面白い。ずいぶんと推敲された無駄のない語り口。聴衆のいないスタジオ録音であれだけ語れるのは、さすがに名人の芸。しかし、やっぱり噺自体はさして面白くはない。噺のなかでオチの説明がなされている。さらに、インタビューの芸談で説明が付加されているが…、オチはつまらない。

この噺、奉行所がやたらと大きな顔をする。漁師が漁場で珍しい魚を捕ったが、名前がわからない。そこでお役人に聞きに行く。というのが、噺の始まり。奉行所って、いったい何だ。漁師が、珍魚の名を聞きに行くところか。

もとより、魚の名前なんぞ役人が知るはずもない。だから、「知らぬ、存ぜぬ」「ここは、魚類鑑別所ではない」で済むところを、「調べをするからしばし待て」ということになる。で、その魚の絵を何枚も書いて、「この魚の名を存じる者は申し出よ。百両の賞金をつかわす」と広告する。この辺はバカバカしいが、落語らしくもある。

これが評判になり、近在から人が押し寄せる。なかに、多度屋茂兵衛という男。魚の名を知ると申し出て、もっともらしく現物を見てから、「これは『てれすこ』と申す魚にございます」。

「ん? 『てれすこ』?」。まさかとも、違うだろうとも言えない。役人だって知らないのだから。「サンタクロース」だって「WC」だって、なんでも良いのだ。役人は怪しいと思ったが、咎める訳にも行かず、「てれすこで100両はなかろう。30両にまけろ」とも言えず、100両持たせて帰した。

この話を奉行に伝えると、少し考えて、「この魚を干してみよ」との仰せ。干すと大きさも小さくなって趣も変わった。『この度も珍魚が捕れた。この魚の名が判る者は、役宅に届け出よ。褒美として金100両つかわすもの也』と、前と同じようにお触れを出した。再び人だかりがして大騒ぎ。
また、多度屋茂兵衛が現れ、その名を知るという。聞けば『すてれんきょう』だと言った。「先日は『てれすこ』と申したその魚を干したものが、どうして名が変わる。上を偽る不届き者め。吟味中入牢申し付ける」となった。その頃だから「吟味中入牢」。今なら、「予審中未決」(と圓生は言っている)。

吟味の末「多度屋茂兵衛。その方、『てれすこ』と申せし魚をまた『すてれんきょう』と申し、上をいつわり、金子をかたり取ったる罪軽からず。重き咎にも行うべきところなれど、お慈悲をもって打首申しつくる」と判決が下った。

その上で、「最期に何か望みがあれば、一つは叶えてつかわす。酒がほしければ酒を。タバコを吸いたければタバコでも」というので、茂兵衛うなだれて 「妻子に一目、お会わせを願いとう存じます」。

乳飲み子を抱いて出てきたかみさんのやせ衰えた姿に茂兵衛が驚いてようすを聞くと、「亭主の身の証が立つようにと、火物断ちをしていましたが、赤ん坊のお乳が出ないのはかわいそうなので、そば粉を水で溶いたものをいただいていました。そのため痩せ衰えて」と言う。「それほどわしの身を案じてくれてありがたい。もう死んでいく身、思い残すことはないが、ただ一つ言い残しておきたい。この子供が大きくなったのち、決して『イカ』の干したのを『スルメ』と言わせてくれるな」と遺言をした。

当時、奉行のお裁きに控訴ということは絶対にできなかった。が、男の機転の一言に、お奉行が膝を叩いた。「多度屋茂兵衛、言い訳相立った。『イカ』の干したのが『スルメ』。『てれすこ』を干して『すてれんきょう』でくるしゅうない。無罪を申し渡す」。

茂兵衛は喜んだ。首のなくなるのを、スルメ一枚で助かった。助かるはずです、おかみさんが火物(干物)断ちをしましたから。

今の世の国の仕組みは、三権分立てなことを申しますな。権力てぇものは恐ろしいものでできるだけ、権力は強くない方がよい。てれすこのお奉行なんて、権力そのもので、茂兵衛をペテンに掛けておいて、「入牢申しつくる」「その罪軽からず。お慈悲をもって打首申しつくる」なんて、ひどい話しじゃないですか。権力とは、人の自由を奪うことも、人を殺すこともできる。じゃあ、権力なんてない方がいいかというと、まったくなくても困るんですな。警察も消防も、上下水道もゴミの回収も、裁判所も刑務所もみんなの役に立っている。

そこで、必要な権力を適切に行使するような仕組みを考えなければならんというわけですな。そのためには、権力を集中せずに分散する。分散した権力が、相互に監視し合い、牽制し合うようにしなけりゃあいけない。

お奉行さまてぇのは、分立していない丸ごとの権力ですな。強すぎて危険きわまりない。奉行の権力をまずは法で縛らなきゃならない。奉行といえども、法の認めないことはできないようにしなければならない。「無礼者、入牢申しつくる」「打首申しつくるものなり」なんて、勝手に言い出されたのでは迷惑この上ない。法の縛りをかけて、不当、不合理な振る舞いを止めさせなければならない。

お白州での裁きの仕方についても、お奉行は権力強過ぎですな。文明の知恵は、訴追の権力と裁判する権力とを分離してきたわけですよ。そもそもが、お調べでは多度屋茂兵衛に十分弁明の機会を与えなくてはならない。できれば、弁護人も欲しいところ。

圓生は言っていますな。昔のお白州。ゴザなんてない。砂利の上に座らせた。被告人だけてなく、証人まで。人権思想のない時代。くわぱらくわばら。

権力てえものを信用しちゃあいけません。権力は腐敗するんです。いつの世も同じですよ。ましてや、一強への集中はいけません。アベシンゾーを見ていりゃあ、よくお分かりでしょう。

(2018年10月5日)

初出:「澤藤統一郎の憲法日記」2018.10.4より許可を得て転載

http://article9.jp/wordpress/?p=11234

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/

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