今日は、終日ノモンハンの草原で風に吹かれている。

1975年発刊の五味川純平「ノモンハン」(文芸春秋社)の帯に、本文の一節を引用して、次の記載がある。

著者は言う―自分の戦争年間の体験を歴史の時間的順序に配列し直してみて気づいたことは、ノモンハンの時点に、その後数年間の日本の思い上りや、あがきが、集約的に表現されていたことである。ノモンハン事件は、小型「太平洋戦争」であった。ノモンハン事件は太平洋戦争の末路を紛うことなく予告していたのである。ノモンハン事件をあるがままに正当に評価すれば、それから僅か2年3ヵ月後に大戦に突入する愚を日本は冒し得なかったはずであった。
 ノモンハン――みはるかす大平原に轟いた砲声は、日本にとっては、運命が扉を叩く音であった。日本の指導者たちはそれを聞きわける耳を持たなかった―と。

これは、名文である。戦後になってからだが、ノモンハン事件の重大さを、多くの人が漠然と感じていた。その重大さの本質を的確に表現した一文。ノモンハンの時期は、第2次大戦の直前に当たる。日本は、ソ連と、本格的近代戦の予行演習をしたのだ。五味川は、それを「小型太平洋戦争」と表現した。

その予行演習で、日本軍は手痛い敗北を喫した。それでも、その教訓を生かすことのないまま、英米蘭との開戦に踏み切り、310万人の死者を出して、太平洋戦争を終えた。五味川は、あとがきでこう記している。

  ノモンハン戦失敗の図式は三年後のガダルカナル戦失敗の図式に酷似している。特に作戦指導部の考え方において、そうである。作戦指導の中枢神経となった参謀二名が両戦に共通しているからでもあろうが、当時の軍人一般、ひいては当時の日本人一般の思考方法が然らしめたものであろうか。先入主に支配されて、同じ過誤を何度でも繰り返す。認識と対応が現実的でなく、幻想的である。観測と判断が希望的であって、合理的でない。反証が現われてもなかなか容認しない。

五味川のノモンハン作戦指導部に対する評価は厳しい。
「前線将兵は奮戦しても、後方に在る高級司令部の戦闘構想と戦力補給の関係は画餅に近いものがあった。国が貧しいといえば、すべてそこに起因するが、出来ることまで出来ていないのは、戦争そのものを組織する能力が乏しかったとしか考えられない」。「日ソ両軍の間には・・・戦闘を組織的に遂行するための配慮の密度に甚だしい差があり、戦闘の予備段階で既に直接に勝敗を分つほどの懸隔があった」「この考え方の安易さと粗末さは、これが軍事のプロかと呆れるばかりである」。

「参謀たちは性懲りもなく敵の兵力使用を低く見積っていた。戦って失敗すると、敵の兵力が意外に大きかったという」「この思い上がった愚かしさは、ほとんど理解の外である」「日本軍は、一度やって失敗したことを、同じ方法、同じ兵力で、二度三度やろうとした。他に手がないから仕方がないというのでは、近代的な戦闘を組織することはできないのである」。

こうして、死なずに済んだはずの兵士に代わって、五味川は、高級参謀たちの無能と怠惰を切歯扼腕する。そのとおりだと思いつつ、違和感も禁じえない。戦史を読むときに、いつも感じる違和感。では、もっとセオリーに忠実に、もっと巧妙に、もっと戦意を昂揚して戦闘すべきだったのかという違和感。戦闘に負けたことが責められるべきことで、勝っていればよかったのか。

五味川のノモンハン事件に対する総括的な評価として、「国家の面目にかけて、不毛の地の寸土を争い、夥しい鮮血が砂漠に吸い込まれた」という一文がある。これには違和感がない。戦争自体が愚行なのだ。責任を負うべきは、戦闘を起こしたことであって、けっして負けたことではない。

ソ連を相手に近代戦争のなんたるかを知った旧軍が、なぜ、もっと大きな規模で同じ過ちを繰り返して、壊滅的な敗北に至ったか。ノモンハンの現地に行っただけでは分かるはずもなかろうが、考えるきっかけくらいにはなるだろう。

今日は一日ノモンハン。ハイラルから、200~250キロの距離だという。
(2019年8月24日)

初出:「澤藤統一郎の憲法日記」2019.8.24より許可を得て転載

http://article9.jp/wordpress/?p=13112

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