『資本論』第1巻冒頭の価値についての説明、「gespenstige Gegenstandlichkeit」の各国語訳を調べてみた。この語句の直訳は「幽霊のような対象性」となるはずだが、各国語訳にはかなり意訳が多い。以下のとおりである。
英語版 unsubstantial reality 実体のない現実
フランス語版 Réalité fantomatique 幽霊のような現実
中国語版 同一的幽灵般的对象性 同一の幽霊のような対象性
大月版(岡崎訳)まぼろしのような対象性
河出版(長谷部訳) 幻影のような同じ対象性
ドイツ語原文に近いのは中国語版で、意訳の程度が激しいのは英語版であると言ってよいだろう。そして、中国版とフランス語版を除けば、各版とも「幽霊」という言葉を避けている。各訳者とも、「幽霊」などという言葉は学術書である『資本論』にふさわしくないと判断したのだろうか。それとも「『唯物論者』マルクスがこんな言葉を使うのは…」という無意識の自己規制が働いたのだろうか。しかし、どうであれ、事実はマルクスが「幽霊」という言葉を使ったということである。
さて、「幻影のような対象性」と「幽霊のような対象性」とを比べると、どちらが「本当はそんなものはない」というイメージを読者に与えるだろうか。私は後者の方だと感じる。私から見ると、ここでのマルクスはあたかも「価値なるものはない」と読者に呼びかけているように感じるのだ。もちろん、この直後にもう一人のマルクス、すなわち「リカードの忠実な弟子としてのマルクス」がこの「表現上の危うさ」を止めるかのように「価値は社会的実体としての労働である」と続ける。すなわち、「価値」なるものは、Ding(ハイデッガー流に言えばVorhandensein)としては実在しないが、Sache(同じくZuhandensein)としては実在すると付け加えたわけである(もちろん、マルクス自身がDingとSacheを厳密に使い分けたという意味ではない。結果としてそうなるという筆者の解釈である)。
マルクスがなぜ「幽霊」という言葉を使ったかは推測の域をでないが、マルクスが「価値」を我々の言うDingではなく、Sacheであると見ていたのは確かであろう。こうした「価値」のあり方は、「Dingに宿るSache」という形を取っていないところは異なるが、かの「裸の王様の王国」の臣民にとっては、かの着物はSacheとして「実在する」のと同様である。
以上のことは、廣松渉の『資本論の哲学』の出版以来分析されていることかもしれないが、ここであらためて指摘しておきたい。