<はじめに>
本日登場する反体制活動家コ・ワイヤンピョーモー(コは英語のMrにあたる)は、1988年の軍クーデター後立ち上げられた全ビルマ学生民主戦線(ABSDF)の、今日における最高幹部のひとりである。全ビルマ学生民主戦線は、1988年の国民的決起が武力鎮圧されたのをうけて、武装闘争に転換すべく、
タイとの国境地帯で結成された。しかし当時は、少数民族武装勢力との連携も十分でなく、またアウンサンスーチーの掲げる非暴力抵抗運動が人々の心をとらえていたので、組織は孤立し、事実上壊滅状態に陥った。追い込まれた組織の一部は、日本の連合赤軍と同様の内ゲバ・リンチ殺人事件を犯したため、国民からは完全に見放されてしまった。
その後2016年、スーチー政権になってすぐ、教育改革法案をめぐる闘いにおいて、復活した学生組織は最前線で闘ったが、血の弾圧を喰らって一時後退を余儀なくされた。このころからNLD政権と反体制組織とは食い違いが、少しずつ現れ始めた。当時、武装警察隊の学生デモに対する弾圧の仕方を見て感じたのは、大学に行かせてもらえた青年たちへの、貧しい階層出身の警察官の激しい憎しみであった。1960年代にデモに参加して感じたところの印象を想い出したのであるが、低開発国ミャンマーにおいては階級格差は日本の比ではないのだから、意識的に煽られたであろうその憎悪には、激しいものがあった。
2021年のクーデタは、反体制勢力内にあった過去のわだかまりを一挙に押し流した感があった。非暴力抵抗運動から武力闘争への転換は、びっくりするくらいスムーズに国民に受け入れられた。半世紀以上続いた軍事独裁体制を打ち砕くには、もうこれしかないと国民は見切ったのである。それは福沢諭吉のいう「愚民の上に苛政あり」という抑圧と迎合の負の関係を、自らの力で打破する決意――愚民であること拒否――であった。クーデタに対する「春の革命」は、いわゆるZ世代の若者が主導した。私がミャンマーに移住したころに、生まれたか、母親の胎内にいた子供たちだったことを思うと、感懐で胸がいっぱいになった。当時若かったホテルの従業員女性たちから、夜7時以降外にいるなんて不良のすることだから、絶対家に帰りますと言われてびっくりさせられた。そのくらい保守的だった彼女たちの多くが、息子や娘たちをジャングルに送り出してたのだ。

雨季のミャンマー南部のジャングルにて。そこはマラリア感染の土地でもある。MSRS
その後、2023年秋の攻勢によって、軍は敗北に敗北を重ね、古都マンダレーの陥落も視野に入ってくる時点で、中国が強力に介入。本年に入って、抵抗軍が占領した地域を軍事政権に返還するよう内政干渉してきた。加えてトランプ政権の海外援助引き揚げ方針にもとづき、人道支援がストップ、あるいは貴重な現地情報をカバーし報道してきた「VOA(アメリカの声)」や「RFA(ラジオフリーアジア)」の資金を引き揚げてしまった。中国とロシアが、資金や兵器から監視システムにいたる物量を思うがままに供与したため、一時窮地に追い込まれていた軍事政権は、このところ息を吹き返している。
これからの政局と軍事情勢は、本年12月に予定されている総選挙をめぐって目まぐるしく動くであろう。抵抗勢力(国民統一政府、人民防衛隊、アラカン軍、カチン独立軍、カレン武装勢力、カレニ―武装勢力など)がどれだけ統一した政治的・軍事的攻勢を10月からの雨季明けにかけられるか、一瞬たりと目が離せなくなるであろう。
以下、本文の末尾で、「革命には依然として統一的な政治指導力とコンセンサスが欠けています」と、抵抗勢力の弱点について述べられている。民族的、宗教的、地域的に分裂したモザイク国家という歴史的な負の遺産を克服するのは、並大抵のことではない。軍事政権は、頭さえはねてしまえば、あとは有象無象でなんとかなると思っている。スーチー氏の接見禁止の長期拘留
に始まって、将来国民的指導者になりそうな人物を早々と処刑した。政治犯を処刑する国とは、いったいどんな国なのか。特にコ・ジミー氏は、1988年からの生き残りの指導者であったが、2022年7月23日に、他の三名とともに、ミンアウンフラインは処刑した。中国、ロシア、ミャンマーという悪のトリアーデは、二十世紀いずれもが社会主義国を標榜していた国である。このことをよくよくnachdenken(反省熟考)しなければならない。


絞首刑にされた、高名な反体制運動家コ・ジミー氏とコ・ピョーゼヤタウ氏。イラワジ
拷問を受けても屈しなかった学生リーダーが、4年間の刑務所生活を経てミャンマーの抵抗運動に再合流する
出典: The Irrawaddy July 1, 2025
原題:Tortured But Unbroken: Student Leader Rejoins Myanmar Revolt After 4 Years in Junta Jail

クーデタ後の決起集会で演説するコ・ワイヤンピョーモー イラワジ
コ・ワイヤンピョーモーは、全ミャンマー学生連合連盟(ABFSU)の指導者として、2021年2月の軍事クーデターから1ヶ月後に、反クーデター抗議活動に参加したとして逮捕された。彼は反乱罪と平和的集会法違反の罪で7年2月の刑を言い渡され服役の後、2025年4月上旬に釈放された。彼はヤンゴンのインセイン刑務所で2年間を過ごし、残りの期間をタヤワディ刑務所で過ごした。現在はABFSUの第三書記を務めている。
逮捕される前、彼はヤンゴンの街頭デモでの演説でンアウンフライン最高司令官に対し、このクーデター首謀者が民衆の蜂起によって打倒されることを恐れているのではないかと詰め寄った。彼は、尋問センターで拷問を受けていた際に、反クーデター演説を繰り返し言わされたと述べている。 彼は反体制ポータルサイト『ザ・イラワジ』に対し、収監中の経験と軍事政権に対する武装抵抗への信念について語った。
あなたはいつ釈放されましたか?
私は2025年4月2日に刑期満了により釈放されました。しかし、刑務所当局と上層部との間で連絡の不備があったようで、他の受刑者から、私は4月中旬のミャンマーの新年祭日に恩赦を受けた受刑者のリストに載っていたと聞かされました。釈放された夜、軍事政権の保安要員が、私が収監される前に住んでいたヤンゴンの家を襲撃しました。一方、軍政支持派のテレグラムチャンネルは、私の再逮捕を要求し、私のABFSUの同僚の大多数が既に反体制武装組織の指導的立場に就いていると主張していました。
どのような罪状で起訴されましたか?
クーデタ反対活動に関して、私はヤンゴンでの抗議活動中に発表した演説に関する反乱罪の1件の起訴を受けただけです。しかし、2020年末にラカイン州の戦争に反対する抗議活動を行ったことについて、既に反乱罪と平和的集会及び行進法違反の罪で起訴されていました。結局、私は反乱罪1件と平和的集会法違反罪2件で起訴されました。
尋問センターでどのような経験をされましたか?
憎悪です。私が到着した時、彼らは悪意に満ちた笑みを浮かべて私を迎えました。彼らの主な拷問方法は、私を殴りながら反独裁政権の演説を繰り返し言わせることでした。幸いなことに、私はただ皮膚の傷を負わされただけで、内臓損傷は免れたようでした。囚人たちは、尋問の合間に待っていたラウンジのような部屋から足を引きずられて連れ出され、真夜中に殴打されました。※この尋問センターで、多くの反体制人士が拷問によって殺された。
政権は、あなたが刑務所にいた際に何か提案をしましたか?
2022年5月、軍関係者がインセイン刑務所に現れ、私と[収監中の教授]アーカーモートゥ博士との会談を行いました。政権は学校を再開させることに必死でした。私たちと話す前に、彼らは「人民防衛部隊」が無辜の市民を殺害する様子を映した動画を私たちに見せました。彼らは学校の再開について私の意見を尋ね、学生団体が再び活動できるようになると述べました。彼らは、私たちが独裁政権との闘いを放棄することに同意すれば、文部科学省との協議を調整すると述べた。また、私たちが政権との闘いではなく政治的プラットフォームを構築することに同意すれば、支援を申し出た。彼らは、ミン・アウン・フラインが2015年の学生デモ(新しい国家教育法に対する反対デモ)で提起された要求について議論する用意があると言及しました。
私は、国が不安定な状態にあり政治問題が未解決のまま学校を再開することに反対だと彼らに伝えました。その措置は、政治的利益を得るための学生の搾取に他ならないと述べました。彼らの政治的プラットフォームの形成に関する提案について、私は「人々は革命の道を選択した。私は別の道を選ぶつもりはない」と述べました。
あなたが刑務所にいた間、政治犯は監視されていましたか?
彼らは職員と警備員を使って、そしてスパイカメラを使用して、私のような反体制活動を行う可能性のある囚人を監視していました。私は、そのカメラで記録された映像を見る機会があったため、この事実を知っています。
インセインとタリアワディの刑務所内での生活はどのようなものでしたか?
インセイン刑務所は中央刑務所として、他の施設よりも厳格な規則が適用されています。刑務所当局の考え方は、他の刑務所では反体制活動が発生する可能性はあるが、ここにはないというものです。タリヤワディ刑務所は、ストレスポーズと規律的な懲罰制度を強制的に課すことから、「ポーンサン(ストレスポーズ)」刑務所の異名をとっています。政治犯と犯罪者の墓場として悪名高い場所です。刑務所当局は、移送を懲罰として使用し、より劣悪な生活環境の刑務所へ移送します。最も深刻なのは、他の刑務所から悪名高い受刑者が送られてくるタリアワディです。囚人は到着直後に、犯罪の軽重に関わらず激しく殴打されます。最初の1ヶ月間、彼らは刑務所の庭の開けた場所で手錠をかけられ、様々な形態の拷問や恐喝にさらされます。このシステムは現在も機能しています。
インセイン刑務所でコ・ジミーと他の3人の政治犯の処刑が行われたことをご存知でしたか?私たちは処刑そのものは目撃しませんでしたが、処刑の準備作業、具体的には絞首台室の清掃と点検、および外部からの車両の到着に気づいていました。当時、私たちは彼らが絞首刑に処されることを知りませんでした。前夜、刑務所当局は4人の男を独房から連行する際に、刑務所全体で電気を遮断しました。一部の受刑者は、武装した警察官、看守、および軍人によって連行されるフードを被った人物たちを見ています。しかし、彼らが処刑されたことを知ったのは、次の日になってからでした。新聞の報道を見ても、信じられないという人もいました。
今後の計画についてお聞かせいただけますか?
私はABFSUの業務を新たな拠点で再開し、特に農村地域と学生に焦点を当てた活動を行っています。私の仕事は、学生、農民、女性の労働組合の設立を支援するため、政治的な講演を行い、一般市民の支持を呼びかけることに重点を置いています。
現在の革命の状況をどのように評価していますか?
軍事協力は強力ですが、革命には依然として統一的な政治指導力とコンセンサスが欠けています。依然として政治的な連合が必要です。この革命で勝利を収める唯一の方法は、協力し合うことです。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔opinion14312:250705〕