Global Headlines:権威主義国家における政治と宗教 ――ミャンマー内戦は武力解放とともに、タブーからの精神的解放をめざす

 ミャンマー反体制ポータルサイト「イラワジ」の主幹であるアウンゾー氏は、6/7号で「不浄な同盟:ミャンマーのメルセデス僧侶と緑の男たち」と題する論評を発表した※。かのスタンダールの「赤と黒」が軍服と僧衣を表していたように、ここでは「メルセデス僧侶」とは贅沢三昧にふける高僧たち、そして緑は軍服を表している。この国では、長く国軍と仏教僧侶に対する批判はまったくのタブーとされ、それを冒すものは刑事的かつ暴力的処罰とともに、社会的な制裁を覚悟しなければならない。2010年以降の政治過程において、漸進的民主化の一方で、ロヒンギャへの迫害と殺戮に、「マバタ」――超国家主義団体「人種と宗教の保護協会」――といわれる排外主義組織を背景に、指導的な僧侶が重要な役割を果たしてきた。アウンサンスーチー氏率いる民主化勢力が、国軍と僧侶層の特権的地位を剥奪するかもしれないとの怖れから、伝統的なセノフォビア(外国人嫌い)と黒いナショナリズムを目いっぱい煽り立て、民主化を妨害してきたのである。さらに2021年2・1クーデタ以後は、高僧たちは軍・警察による6000名に上るとされる民間人の虐殺に対しても支持を表明し、毒食わば皿までとばかりに、ミンアウンフライン最高司令官の蛮行に宗教的お墨付きを与えているのである。
※原題:Unholy Alliance: Myanmar’s Mercedes Monks and the Men in Green

 しかしかつては必ずしもそうではなかった。植民地時代の1930年代初頭にイラワジ・デルタ全域に広がった反英独立農民暴動を指導したのは、サヤーサンという僧侶であった。サヤーサンらが処刑された跡を継いで、やがて反英独立運動を指導したのは、ラングーン大学の学生運動指導者だったアウンサンらであった。また最近では、2007年9月の「サフラン革命」という軍事独裁反対闘争を行なったのも、義憤にかられた若い僧侶層であった。
 ところが2010年代の改革開放政策による外資の潤沢な流入や天然ガス、レアアース、銅・錫、宝石等の採掘から生み出される富を囲い込む軍部は、余剰資金を高僧たちを買収するために投入した。その結果、高僧たちが最新のメルセデス・ベンツやロールスロイス、ベントレーに乗って、ヤンゴンの街中を通り過ぎるのを誰でもが目にするようになった。5300万人の国民の半数以上が貧困層に転落し、500万人以上の国内難民が生み出されているときだけに、さすがの信仰に篤い国民も堪忍袋の緒が切れつつある。アウンゾー氏によれば、「日和見的な托鉢僧は次第に世間から非難を浴びるようになり、『聖職僧』や『縁故僧』といった蔑称をつけられ、大衆によるボイコットの標的となっている」という。そもそも上座部仏教はその救済思想の個人主義――僧侶という宗教エリートのみが解脱できるのであって、生きとし生けるものすべてが救済されるという衆生済度の考え方はない――ゆえに、安定した檀家組織というものが欠けており、「聖者崇拝」の伝統とも相まって、人気のある僧侶個人のもとに信者は集合する。お布施の程度は人気に比例するであろうから、権力と癒着して人気のない僧侶たちは、ますます軍とその取り巻きの政商への依存を深めることになる。
 こうした風潮の中で、国際的にも孤立し、アセアンからさえもボイコットの憂き目にあっている軍部にとって、高僧たちは心強い味方である。軍部はイスラム勢力や西欧的価値の浸透から国を守っているとして、仏教界のエリート層から正当性(正統性)を付与される。アウンゾー氏によれば、特に、クーデタ以来、シタグ・サヤドー・アシン・ニャニサラ僧侶 とダマドゥータ・アシン・チェキンダ僧侶という二人の著名な僧侶が軍事政権のお気に入りとなっている 。彼らと政権の緊密な関係は、先般2人が 政権指導者らとともにロシアを訪問し、 モスクワのシュエズィーゴン・パゴダのレプリカを奉納した際に完全に明らかになった。ロシア正教とプーチンとの癒着のコピーのような、ミャンマー仏教界とミンアウンフラインとの癒着である。ロシア正教も上座部仏教も、それぞれがキリスト教世界と仏教世界において、きわめて保守的で権威主義的体質を有する点で共通性がある。その意味で独裁政権とはきわめて親和性が高いのである。

ミンアウンフライン夫妻は、2022年7月12日にモスクワで、シュエズィーゴン・パゴダのレプリカ用のダイヤモンドの球を高僧のシタグ・サヤドーに手渡した。/ Cincds
 アウンゾー氏は、上記二人の僧侶について聞き捨てならないことを記している。かれらはクーデタ後の抗議行動への死の弾圧について口を閉ざしているだけではない。それ以前、クーデタの数か月前から軍に権力の掌握を促していたというのである。いやはや高僧たちの腐敗堕落には枚挙にいとまがない。軍事政権の熱烈な支持者である東部シャン州出身のヴァシパケ・サヤドーは、占星術による予言と沈黙の誓いで有名だという。この僧侶は、クーデタ直後の街頭デモの際、治安部隊に抗議者の頭を撃つよう指示するよう上級将軍に助言したとして非難されている。

治安部隊に頭部を撃ち抜かれる直前のカヤル・シン氏
 上座部仏教は、ある面で原始仏教の面影を強く残している。解脱に至る手段として瞑想をもっぱらとし、托鉢僧として一生僧院にて禁欲的な生活を送るすがたは、釈迦を囲んでインド全土を遊行し、雨季にのみ一時定住した原初の仏教集団を彷彿とさせる。しかし他方で、M・ウェーバーならば「呪術の園Zaubergarten」と名付けるであろう、非合理的な迷信やビルマ伝来の占星術、太陰九遊星などのヒンズー教的要素やアミニズムの土俗信仰が混じり合った世界でもある。歴代の独裁者には、有名な占星術の使い手が政治顧問としてついているという――ロマノフ王朝末期と怪僧ラスプーチンを思い出させる。タンシュエが首都をヤンゴンからネピドーに移した時も、その出発の日時を占星術で決定したという。ことほど左様に、独裁者の政治決定には占星術が欠かせない。

シタグ・サヤドーは2020年にヤンゴンでメルセデスに乗っている。/アシン・ニャニサラ師Facebook
 アウンゾー氏は「慈善的な国民を搾取する」と題する一章を設けて、上座部仏教の「カルマ(業)」という教説が、いかに民衆を自縄自縛の精神状態に追い込み、圧政者を利しているかを分析している。 カルマ教説とは、簡単にいえばこうである。現世は輪廻(サンサーラ)と業の支配する虚妄の世界である。現在の状態は、過去の業の結果であり、したがって善因(善い行い)は楽果(良い結果)を生み、悪因は悪果を生む。輪廻とは、この連鎖が死後の運命に関わるとき、転生(次の生)の道が決定されることをいう。たとえば極悪人は、蛇に生まれ変わる。善人は前世より一段良き生を送ることができる。したがって人々はより良き転生を願って、現世で功徳を積むことに励む。しかし究極的には業に囚われている限り生の苦しみからは遁れられない。修行によって煩悩の束縛を脱して、自由の境地に至ることを解脱といい、仏教者の最終目標となる。しかし上座部仏教では、在家者は解脱にいかにしても到達しえないのであるから、出家者を物的に支えることが最高の功徳だと教える。かくして修行者や僧院・仏塔にひたすら寄進、寄付(ダナ)を重ねることによって、よりよき来世の確証を得ようとする。
 1920年代、植民地時代のビルマで末端の警察官として勤務したジョージ・オーウェルことエリック・アーサー・ブレアは、植民地支配の片棒担ぎに対する自己嫌悪とともに、仏教の功徳教説の欺瞞性への侮蔑を隠さなかった。つまり功徳説は貧乏人からその慈悲心につけ込んで、なけなしの金銭を巻き上げるのに役立ち、またパゴタや仏像の建立を最高の功徳とする業績主義ゆえに、悪行に走る金持ちを道徳的な縛りから解放する機能を持つ。つまり功徳を積むと称して金銭をばら撒けば、罪業はチャラにできるという逃げ道を功徳説は提供した。軍の高位高官たちが、有名な僧侶を豪華な邸宅に定期的に招いたり、寺院を訪れて多額の寄付をしたりして、仏教界の歓心を買う様をみるがよい。不正不義の行ないで蓄財したとしても、それの一部を仏教界に寄付すれば、浄財に生まれ変わるというマネーロンダリングの役割を功徳教説は果たしている。

後列左から三番目が、若き日のジョージ・オーウェル。ビルマ/1923年
 ドイツの哲学者ヘーゲルは、「法(権利)の哲学」で貧困対策としての慈善活動の限界を指摘し、社会政策の必要性を主張している。心情や愛に基づく慈善行為は、主観的で偶然的なので貧困対策としては不十分であり、どうしても公的な救済事業が取って代わらなければならないという。近代市民社会の重大な欠陥が、貧困問題であり、貧富の格差拡大であるとして、市民社会内部と国家からという二重の側面からの公的扶助の重要性を指摘している―今から二百年もまえに。一国内という限界があるにせよ、ヘーゲルの考え方は、所得の再分配という社会民主主義的な政策思想につながっている。カントに由来する抽象的な人格・人権思想に比して、ヘーゲルの市民社会論は、より具体的な内実を与えている。私が関わった難民組織の長を務めたある人物は、帰国するにあたり私にこう告げた。「日本では多くのことを学びました。税金をしっかり払って、それをもとに社会福祉の財源に充てるというやり方は、慈善に頼るミャンマーのやり方よりも優れています。どういう方向に国が進めばいいのか、よくわかりました、ありがとうございました」
 過酷な内戦をとおして、今Z世代をはじめとする若者や僧侶たちは、功徳教説の欺瞞性に気づき始めている。軍の高官や高僧の貪欲さを合理化するその機能に仮借ない批判を浴びせ、本来の利他主義(altruism)に立ち還るべく、抵抗運動に身命をなげうって奔走している。仏教界の現状を批判することと、仏教教説の核心的な意義を強調することは、矛盾していない。次世代の若者たちのために、自分たちは喜んで捨て石になる――このような高貴な思想を育んでいるのも、また仏教のもつ道徳的な力であるに違いない。独力で闘うミャンマーの若者たちの道徳的勇気は、確かな見通しを失い、現状に何かと妥協しがちな我々を叱咤激励して已まないのである。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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