Global Headlines:EUにおける反リベラル派勢力の抬頭

著者: 野上俊明 のがみとしあき : ちきゅう座会員
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<はじめに>
 日本の政局は波乱含みではあるが、停滞の感は否めない。既成政党は保革を問わず、磨滅し老衰の印象すら受ける。それゆえ岸田内閣が支持率20%を切ろうとも、与野党内から反撃ののろしはどこからも上がらない。労働組合の組織率が20%を切り、組織された部分も資本側にほぼ完全に取り込まれている状況があり、かつ理論的イデオロギー的にも社会民主主義が磨滅している状況から、どうにも出口が見えない行き詰まり感がある。日本共産党も組織論・組織体質ではコミンテルン時代を引きずるとはいえ、政治戦略はほとんど社会民主主義化している。しかし、かといって労働運動にせよ住民運動にせよ、そこの強化に力を注ぎ組織を拡充することをなおざりにしてきた結果、野党共闘にのみに活路を求めるしかなくなっている。人民に奉仕するどころではなく、赤旗の講読を勧め、共産党に投票依頼をするというセールス活動が党活動というのでは、党員は思想的肉体的にも磨滅していかざるをえないだろう。現実から学び、政治的思想的に錬磨していく機会が少なければ、既成理論がドグマ化するのは避けがたい。もともとレーニン型党組織は、大衆の要求や状況の変化に末端組織が敏感に反応し、すばやく上級組織にフィードバックして政策化していく仕組みづくりをねらったものである(レーニン・党規約問題「一歩後退二歩前進」)にもかかわらず、スターリン支配のもと、上意下達の官僚主義を強化し、党員の自主性を抑圧する装置に変質してしまったのである。
 選挙に際してポステイングされる共産党のチラシを見ても、70年代初めに民主連合政府の政策体系を打ち出した頃と比べ、その政権構想なき政策のスケールの小ささと貧弱さに愕然とする。福祉・教育・生活保障の充実―それ自体が間違っているわけではないが―をいうのみで、国力の低下に歯止めをかけるべく、新自由主義にクザビを打ち込む政策体系――社会格差打破や環境政策だけでなく、産業政策―地域産業政策も含め―をどうしていくのかについて、全く言及がない。一種左派ポピュリズムに退化しつつあるのではないかと危惧する。
 国力の低下は、日本の場合、当然ながらただでさえ脆弱な再分配政策の縮小となってあらわれる。以下紹介するドイツの例を見てもわかるように、世論の右傾化は移民政策―富の横取りと感じられる―や生活困難の増加が震源地になっている。人々の生活不安や社会格差拡大からくる閉塞感、敗北感や孤立感、総じてコミュニティの崩壊に収斂する事態こそ、ファシズムの温床となる。GDP至上主義とはちがった意味での経済的価値の増大は、人々の社会生活の水準を低下させないために不可欠であろう。そうでなければ、守るべきリベラル普遍的な価値体系(民主主義、自由、人権、法の支配)は、その土台を掘り崩されてしまうであろう。立憲民主党にせよ、共産党にせよ、新自由主義と右傾化に歯止めをかける政党政派が他に見当たらない以上、依然としてその果たすべき役割は大きい。ただし両党を刺激し活性化させるためにも、ドイツの若者たちのように新しい政党政派―得票率28%!―をどんどん立ち上げるべきなのであろう。
 ちなみに、先のドイツにおけるEUの欧州議会選挙結果の順位を記しておこう。
1.中道保守・キリスト教民主同盟・社会同盟(CDU/CSU)――29議席(得票率30%)
2.極右・AfD――15議席(得票率15.9%)
3.中道左派・社会民主党(SPD)――14議席(得票率13.9%)
4.緑の党(グリュンネン)――12議席(得票率11.9%)
5.「ザーラ・ヴァーゲンクネヒト同盟(BSW)」――6議席(得票率6.2%)
6.リベラル・自由民主党(FDP)――5議席(得票率5.2%)
7.左翼党――3議席(得票率2.7%)
その他極小政党合計――28%
 以下の論文は、旧東独地域でファッショ政党AfDが伸長する原因の分析である。スターリン主義的な政党によって培われてきた権威主義的な精神風土が、今日もなお人々の心的傾向(Gesinnung)を支配しているというのである。しかしそれが分かっているのであれば、それに対抗しリベラルな価値の教育(学校と社会)を強力に推進すべきであったろう。ちなみに、ミャンマーにおいて、ドイツ・エーベルト財団は2010年代の半文民政府のもとにおいて、市民の人権教育に力を注ぎ、少なからず成果を上げた。欧米諸国の援助団体による市民社会を意識的に育てようとした試みは、クーデタ後の国民的決起の民主主義という枠組みづくりに役立ったと思われる。

 

ドイツ東部の州選挙を控えて:多数派の独裁

――AfD(ドイツのための選択肢)とBSWは、取り締まる強い権威主義国家を目指している。これは東部の多くの人々にアピールするもので、彼らはドイツ民主共和国(東独)時代からこれを知っているのだ。
出典:TAZ 7/27
原題:Landtagswahlen im Osten:Diktatur der Mehrheit
https://taz.de/Landtagswahlen-im-Osten/!6023632/
※「BSW」は、本年1月8日にドイツに新しく誕生した政党。BSWのBは同盟で、SWはザラ・ヴァーゲンクネヒトの頭文字。つまり、「ザラ・ヴァーゲンクネヒト同盟」である。東独のドイツ社会主義統一党の流れをくむ左翼党から離脱したザラ・ヴァーゲンクネヒトらが創設。左派ポピュリズム政党とされているが、反移民・反NATO・ウクライナ戦争即時停戦(ウクライナ支援反対)を掲げており、右派、極右派にも通じる主張をしている。
人気政治家ザラ・ヴァーゲンクネヒト党首
 旧東独は今、かつてないほどカラフルで多元的な国になっている。魅力的な社会を描いた新しい出版物がほぼ毎日出版されている。SED(ドイツ社会主義統一党)という国家は、どうやら社会がほとんど気にもとめない背景として描かれている。映画では通常、国家を軽蔑し、それに屈しない、愉快で自己主張の強いコミュニティが登場する。ソーシャルメディアには無数の想い出グループがあり、そこではすべてがバラ色に塗りつぶされている。何百万人もの人々が、連帯感、温かさ、そして何よりも「安全」を特徴としていた時代に立ち戻る思い出に浸っている。
 もし東ドイツ人の大多数が1989年のSED国家に対する自由革命に参加したとしたら、その大多数が後悔しているかどうかを今日問わねばならないだろう。しかし、自由革命に参加したのは少数派なのだから、この質問は無意味だ。それはありきたりなことだが、少数派だけが革命に参加する。大多数は待機し、すばやく確信をもって勝者の側につく。1989年も同じだった。1989年11月初めに、その旅の行き先が明らかになると、大多数は国家に反対して参加することを決定した。しかし、何百万人もの人々は国家に忠実であり続けた――そのことは、しばしば忘れられている。
 真の革命家らは、自由、民主主義、法の支配を望んでいた。解放された人々は、にぎわう商店やドイツマルクが欲しかった。これは非難されるべきことではないが、ビジネスの基本を変えてしまった。東ドイツの革命史における最も重大な転換点は、1989年11月9日の壁崩壊でも3月18日の選挙日でもなく、1990年7月1日、すなわちドイツ民主共和国におけるドイツマルクの導入と、西ドイツの経済・社会・法秩序の採用であった。解放された人たちは、次に何が起こるか予想していなかった。彼らはトラバントやワートブルクを製造していたが、自分たちはVWやメルセデスに乗りたかった。彼らは自分たちの製品を買わなくなった。今日でも東部に蔓延しているトロイハンドへの憎悪―もちろん多くの過ちを犯したが―は、常に自己嫌悪の一形態であった。ドイツマルクの急速な導入に賭けていた人―それは人口の約80%であったが―は、徹底した措置が講じられると予想しえたはずである。多くの人々がこのような事態を予想していただろうか。おそらくほとんどの人は、この杯(苦難?)が自分たちを通り過ぎると信じていただろう。
東ドイツ人は犠牲者であっただけではない
 統一と変革の過程には多くの失敗があった。しかし、文学教授ダーク・オシュマンが怒りの著書『東方:西ドイツの発明』で主張するように、この統一は起こったのだろうか?東ドイツ人は犠牲者であり、歴史の対象でしかなかったのか?いや、そのどちらでもない。彼らは、欧米のお金はできるだけ早くやってくると自分で決めたのだ。当時、冷静な人々は、ドイツマルクの急速な導入がもたらす影響は計り知れず、制御することはほとんど不可能だと警告していた。それを聞きたがる人はほとんどいなかった。東側では警告の声は共産主義者とみなされ、西側では亡国の輩として無視され、ドイツ全土では統一の敵とみなされていた。1990年、東ドイツ人の大多数はこう言った、「ヘルムート、私たちの手を取って不思議の国へ連れて行ってくれ」。
 およそ市民運動出身で、ドイツマルクの即時導入に警告を発した東ドイツ人たちは、実はある点でドイツ民主共和国の大多数の人々とは根本的に異なっていた。彼らは国家に対して異なる理解を持っていた。 彼らは、自由と民主主義には自国問題への干渉を認めない国家が必要だと信じており、権威主義的でもパターナリスティック(温情主義的)でもない国家を望んでいた。しかし、東ドイツ人の大多数は1990年にこう言った、「ヘルムート、私たちの手を取って不思議の国へ連れて行ってくれ」。彼らはすぐにすべてを欲しがった。連邦首相は?コール首相はまさにそうすると約束した――3年後、5年後、7年後に花咲く風景を実現すると。「父なる国家」というものが19世紀に構築されたものであり、国家はそれ自体のために存在するのではなく、むしろ開かれた社会の枠組みを提供するものであることを、大多数の東ドイツ人はどのようにして知りえたのだろうか?西ドイツ人は 1945 年以降、このことを苦労して学ばなければならなかった。
 民主主義と自由は空虚な概念ではない。しかし、それらは何度も何度も学ばなければならない。しかし、1990年以降の数年間は、東ドイツ人も西ドイツ人も、自由と民主主義は自明のものだと思い込んでいた。 しかし、それらはそうではないのだ。そして誰も、自由な生活は独裁国家での生活よりはるかに過酷であることを東ドイツ人に教えなかった。(西ドイツでは)常に決断を下し、「わたしは」と言い、自分のことに関与しなければならない。独裁国家では、国家がすべてを引き受ける。ルールは単純明快、言われた通りにやるだけ!そして言う人は国家である。
 東ドイツ人の大多数が1990年以降も、まさにこのようなパターナリスティック(温情主義的)な国家理解を育み続けていることに、誰も気づいていなかった。それに従って行動したのはヘルムート・コールだけではない。ザクセン州のクルト・ビーデンコップフ、チューリンゲン州のベルンハルト・フォーゲル、ブランデンブルク州のマンフレッド・シュトルペなど、1990年以降の東ドイツで最も有名な首相たちは、まったく同じように行動した。つまり、自国の「子供たち」の面倒を見る温情主義的な統治者としてだった。1970年の時点で、西側にいる東ドイツの難民について明確な見解を示していたのはウーヴェ・ジョンソンだった。つまり彼らは欧米にやってきて、その多くがSED(ドイツ統一社会主義党国家)のことを家族の一員であるかのように話していた。ウーヴェ・ジョンソンによるこのエッセイは、西側における東側の人間について書かれた最も賢明なるもののひとつである。そして、それは今日に至るまで適切であり続けている。
権威主義的国家観 
 今日、私たちは、東側と西側の根本的な違いは、主に国家に何を期待するかにあるということを観察できるが、一般的な観察者でこのことに着目するものはこれまでほとんどいなかった。東側と西側の間には多くの違いがある。それらは何年経っても存在するだろうし、問題にすらならないだろう。(ただし)国家政策の考え方に関しては、状況は異なる。東側では、権威主義的なモデル、強い国家を彷彿とさせる国家観が優勢である。これは根本的な問題であり、特に西ヨーロッパではこのような考えがウィルスのように蔓延している。
 そして、まさにAfDとサーラ・ヴァーゲンクネヒト同盟(BSW)の出番となる。両党は、ある点では異なっていても、中心的な一点では一致している。すなわち彼らは、社会を囲い込み、庇護し、均質化する強力で権威主義的な国家を目指している。これが、二つの潮流の指導者たちが言っていることだ。AfDはBSWよりはるかにオープンだが、ここでも政治理論の基礎知識があれば解読できる。かれらがロシアや中国に近いのは偶然ではない。AfDもBSWも「介入」を目指しており、社会のニーズではなく自分たちのニーズを重視する国家を目指している。
 結果はどうなるのか?それを予測するのは難しい。おそらく「多数派の独裁」であろう。ジョン・スチュアート・ミルやアレクシス・ド・トクヴィルは、19世紀にはすでに民主主義に対する大きな脅威として認識していたものだ。 東ドイツを見れば、未来が見えてくるかもしれない。民主主義を救いたいという名のもとに、まさにここで脅威が迫っているのだ。ほとんどの人は、この「多数派の独裁」が問題であることに気づいていない。実際、ドイツ民主共和国の復活を望んでいるのは、東側のごく少数にすぎない。
 より多くの少数派は、記憶されているが存在しなかった東ドイツに憧れている。しかし、多数派は、「常識」(あらゆる種類のポピュリストや過激派が好んで使う表現)に従って物事を規制し、少数派の立場を抑圧しながら多数派の意向にのみ応える、強力で権威主義的な国家を目指す。
合意社会ではなく、自由を生きる
 これがやがてドイツ全体、そしてヨーロッパ全体の現実になる可能性は否定できない。それはドイツ民主共和国にとっては遅咲きの勝利であり、クレムリンにとっては重大な結果をもたらすものだ。自由は自由の中でのみ裏切られる――われわれは今それを目の当たりにしているのかもしれない。自由は平和よりも重要であり、自由なくして内なる平和も外なる平和もあり得ないということを、他の場所と同じようにその痛切な経験を回避するにはまだ遅くはない。私たちに必要なのは、多数派の独裁でも合意社会※でもなく、自由と民主主義の実践である。
※ここでいうコンセンサスとは、協調的合意というよりも、全会一致という意味で用いられているのであろう。
 そしてそれこそが、妥協を求める公正で民主的な交渉の場なのだ。この場では、対立する者たちは、自分たちが誰にとってもベストであることを望んでいると想定する。政治的な対立者として、互いの手段、方法、目標をある程度否定することはあっても、民主的なパートナーとして対等な立場で接する。一方、東部では、AfDとBSWが妥協を許さず、完全な再編成を目指す敵対的イデオロギーを支持し、国民の約50%を束ねている。これも東ドイツとクレムリンを彷彿とさせる。これに対抗できる唯一のことは、民主主義者が団結して潜在的な多数派の独裁者に対抗し、連立を形成できる能力を維持することである。
(機械翻訳を用い、適宜修正した)

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔opinion13830:240805〕