みなさまへ (BCCにて)松元
バルセロナの童子丸開さんが、もはや「プライス・アンダーソン法を終わらせる」ときだと論じている米エネルギー環境センター研究員のマーク・クーパー氏の論考を訳出紹介しています。
原子力(核)産業が、莫大な政府補助金に支えられて建設・存続し、今回のような大惨事になれば電力会社の責任を最小化して、結局、大量の被ばく者が放置されたあげく政府支出によって国民に二重の犠牲を負わせる賠償責任制度の根にプライス・アンダーソン法があります。
核汚染と核関連産業事故にかんする民衆側からの国際法がいまだ樹立されていない現在、その本質を見極めて闘争の目標とすることは重要な突破口になると思います。
この貴重な論考から、世界を覆うファシズム的管理体制の一端が垣間見えてきます。
※ 英文を読まれる専門家の方には、各リンク先に貴重な論考が紹介されていますのでサイト原文を読まれることをお勧めします。(なお、ここでの英文紹介は省略させていただきました。)
http://doujibar.ganriki.net/fukushima/Nuclear_liability.html
———–以下転載————
フクシマがプライス・アンダーソン法を終わらせるか?
市場基準の賠償責任制度【全和訳】
これは、Bulletin of the Atomic Science誌に寄せられたMark Cooper による次の論文の日本語訳(童子丸開による暫定訳)です。
Nuclear liability: The market-based, post-Fukushima case for ending Price-Anderson
http://thebulletin.org/web-edition/features/nuclear-liability-the-market-based-post-fukushima-case-ending-price-anderson
著者のMark Cooper はVermont Law SchoolにあるCenter for Energy and the Environment(エネルギー環境センター)で経済分析を行う30年の実績を持つ研究員です。原文は上記のリンクでも確認できますが、念のために訳文の後に全文を付けておきます。
[原文の掲載は省略しますー「ちきゅう座」編集部]
米国の核関連産業は、1957年に通過したプライス・アンダーソン法のおかげで自由市場経済から隔絶され、政治家によって保護された「別天地」で、その奇形的な発展を成し遂げてきました。核開発を行う世界の国々は基本的にこの米国のやり方にならってきたといえます。そして日本でも、1961年にこの法案を元にして原子力損害賠償法が作られたのですが、日本の核(原子力)産業は、本家の米国ですらありえないほどの賠償責任の低さを享受してきたのです。現在の東京電力の、人を人とも思わず顧客を顧客とも思わない横柄で傲慢な姿勢は、この本来の自由市場から切り離された賠償責任制度に浸り続けた結果、という面があるように思えます。
長年Vermont Law Schoolで研究員を務めるMark Cooper は、政治ではなく市場をベースにして事故の際の賠償責任を明らかにするならば原発は存在不可能であり、フクシマ事故をきっかけにして自由市場経済への政治の横槍を見直す動きが生まれなければならないと主張します。 これは「原発廃止論」ではないのですが、Cooperは、もしそのような損害賠償責任の体制が作られるなら自由市場経済での必然的な帰結として核(原発)開発は廃止に向かわざるを得ず、現行の損害賠償制度の基本となっているプライス・アンダーソン法の廃止がその動きを現実のものにするだろうと語ります。
日本の電力会社がもし政治の保護から離れて本来の自由市場の中に置かれるなら、たとえ事故が起こらなかったとしても、おそらく数年も待たずに惨めに倒産していることでしょう。3月11日以来、原発についての議論は様々に起こっているのですが、このような視点で書かれたものは見ることが少なかったように感じます。私は経済学にはとんと疎い者ですが、このCooperの論文には、経済学の分野の専門家たちによって大いに、そして早急に議論されるべき多くの事柄を含んでいるように思われます。
翻訳をお読みいただく前に、いくつかの点でご容赦いただきたいと思います。
まず、“nuclear”という単語を、”nuclear reactor(原子炉)”などの限られた用語、および固有名詞の中で使われる以外では、基本的に「核」「核の」と訳しています。たとえば「核事故」、「核産業」、「核ロビー」、「核施設」などです。一般的ではないかもしれませんが、今までの「フクシマからの警告」シリーズをごらんの方々には、この点はご理解いただけると思います。
次に“public”と“private”の訳についてです。
通常、”public”は「公共の、公的な」、”private”は「私的な、民間の」というように訳されると思います。特に“private”について言えば、たとえば”private enterprise” は「民間企業」、”private sector”は「民営部門」、またこれと同じ語根を持つ”privatization”は必ず「民営化」と訳されています。私は従来、このような訳語に対して非常な違和感を感じてきました。
本当に”public”は「公」で”private”が「民」なのか?ということです。
そもそも日本語の文脈では、「公共の、公的な」は、国や自治体などといった、いわば「お上(おかみ)の」というイメージを強く持つでしょう。もともと「公」という言葉が君主を指していたのですから当然といえます。これに対して「民(みん)」が付く言葉は、「民(たみ)」つまり一般の人々、つまり「我々に身近なもの」のイメージを作ることになります。
ところが実際には、英語の”public”(西語”publico”)は”popular”(西語”popular”)や”people”(西語”pueblo”)と同じ起源の言葉であり、あくまでも「お上」ではなく「民」の側にある言葉です。同根の”publish”は「人々(我々)に対して広く開示すること」であって、決して「お上にお伺いを立てること」ではありません。“public”こそが「民のためにある」つまり「我々に身近なもの」なのであって、とうてい「公」などと訳せるようなものではないように思います。
一方で“private”は「私」であり「民」ではありません。したがって、たとえば“privatization”にしても「私営化」「私物化」以外の何物でもなく、国民や住民のために作られた企業や施設の”privatization”は一つの私営企業による私物化に他なりません。このことはネオリベラル経済のprivatizationによってぼろぼろにされた中南米諸国の歴史からも明らかです。これを「民営化」などと訳して、何だか「民(我々)が身近に感じるようなもの」に書き換えてしまうことは、とんでもない誤魔化し、言葉のすり替えによる一種の詐欺と言ってよいのでしょう。
したがいまして、以下の訳文の中で、“private”とあるところは全て「私」「私的」「私企業の」「私営の」というふうに訳しています。また”public”については適切な日本語が無いため、やむを得ず「公共の」「公的な」と訳していますが、私としては非常に不本意です。おそらく日本には本当の意味での「民(我々)」「民(我々)のためのもの」が存在しないのでしょう。(じゃあ、日本人にとって「民主主義」とはいったい何なのでしょうか?)
また原文は、長年法律と経済の研究に携わった人物のものらしく非常に洗練されており、そのまま日本語にすると分かりにくい部分が多いため、かなりの意訳を施している箇所もあります。これはあくまで暫定訳に過ぎないため、詳しくは原文をご参照ください。
(2011年10月30日 バルセロナにて 童子丸開)
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【訳出ここから】
核の賠償責任:プライス・アンダーソン法を終わらせるフクシマ事故後の市場基準
マーク・クーパー著 2011年 10月5日
この記事の要点
●プライス・アンダーソン法と国際的な取り決めは、核事故による巨大な賠償責任を不当にも発電所営業主から政府と国民になすりつけ、危険で不経済な運営を推し進める「モラルハザード」を生み出している。
●何十年にもわたって、規制担当者たちは、私設の保険による市場での規律を代行でき安全な核施設の運営を保証できるようなルールの仕組みを作ることができなかった。
●フクシマ事故は現存の賠償責任制度を段階的に廃止させる機会を作っているため、新たに核取り扱いの認可を得ようとする業者は、核事故に対して保険をかけるか、さもなければ全面的な賠償責任を背負わなければならない。
核事故に対する経済的な責任を考慮して規則の再考と改定を行う必要性は、少なくともこの四半世紀(チェルノブイリ以降)の間に明らかで抗しがたいものとなり、フクシマによって圧倒的に明確にされている。政治によって開始される規則の見直しは国ごとに異なるだろうが、米合衆国においては特に小さなものである。
プライス・アンダーソン法は、核事故が起きた際の実効的な賠償責任に限界を設けるものだが、米国のエネルギー政策の目的とは全く一致しない。それが、資源獲得の目安に大きないい加減さをもたらし、現在の経済的環境の中で誤った資産タイプ(ハイリスク、ハイリターン)を利するものだからである。投資リスクの分析に従うなら、不明瞭な環境の中で投資家は、リスクが低く予見可能で短期間の小規模で有利な投資を決定し続けることによって、選択肢を維持し柔軟性を重視するはずである。その高いリスク、巨額の破滅的なコスト、長い投資期間、そして極端に長い資産の寿命のゆえに、原子炉は現在見出すことのできる最悪の資産タイプである。
より低い賠償責任限度とより高い被災者救援への障壁のために、賠償責任についての国際的な合意はプライス・アンダーソン法よりももっと現状とかけ離れたものとなっている。実際に、国際的な賠償責任の制度はほとんどまるで制度になっていない。それは6つの異なった条約から成り立っているのだが、その中の3つだけが十分に多くの国々によって(必要とされるのがせいぜい5カ国であるにもかかわらず)批准され効力を発揮しているのみである。核施設を持つ国々の4分の1がいかなる合意にも参加しておらず、たった半分だけがどれか一つの合意に参加するだけだ。核施設を持たない国々の5分の4がどの合意にも参加していない。米合衆国はいかなる条約にも実効ある形では加わっていないのである。
市場こそが原子炉の賠償を取り扱う最も優れた制度であろうし、私企業による賠償責任こそ市場が導く最も優れた規制装置である。国家単位でも国際的にも、新たな原子炉に対する賠償責任の上限の廃止によって、現状の賠償責任制度は消え去っていくべきである。このことは、認可を受けた現存の原子炉をその期間中に競争ルールを変えないことによって「公平に」とりあつかうだけでなく、今から後に認可を得る全ての原子炉の営業主が全面的な賠償責任を負うことを要求するものだ。
プライス・アンダーソン法に対するどんな改正の提案も、極端に多額の資金を持つ核ロビーからの激しい反対をひき起こすだろう。しかし日本政府に対するフクシマのコストは、何千億ドルにものぼると見積もられるが、米国政府の長期の財政予測の改善に真摯な関心を抱く議会メンバーのために、ある程度の政策決定をもたらすものだ。フクシマは、リスクが現実のものであり、それを政党間で問題を切り替えることによって無くすことのできないものであり、可能性ある核事故の賠償責任が膨大になるということを、政策決定者に印象付けるものだ。現時点で鍵を握る事柄は、事故後の評価であり、赤字についての議論であり、差し迫る賠償責任の限界の失効なのだが、それらによって市場の規律に支えられる左右の同盟が育ち、現時点で変革への唯一の機会というかすかな希望の光を作ることができよう。
核事故のコスト
50年前、商業的な核産業が米国でスタートしたとき、核事故の賠償責任から保護されない限り原子炉を全く作れないことを、2つの大きな原子炉販売企業が明らかにした。エネルギーについての法学者ジョセフ・P.トメイン(Joseph P. Tomain)が1987年の著作「Nuclear Power Transformation」の中で次のことを記している。ジェネラルエレクトリック社は「倒産という暗雲が頭上にかかる状態では」同社が前進できないと言い、ウエスチングハウス社の幹部は「我々は当時、(リスク回避についての)あらゆる疑問が答えられていないことを知った。それが、我々がプライス・アンダーソン法の賠償責任体系を支持した理由なのだ。議会で証言したときに私は、私企業にある種の政府の後ろ盾が無い限り我々は前進できないと言った」と語ったのである。
その論理は明らかだ。市場に照らせば原子炉のリスクの補償が不可能であることが明らかだったからこそ、議会は、商業的な核開発部門支援のための「幼年産業」保護という形で賠償責任の限度を設ける法律を作ったのだ。最近の分析が、原子炉は実質的に補償不能のままであるという結論を支持している。議会はプライス・アンダーソン法で核事故のコストを社会的なものにした。現在実施されているのは、私企業はわずかな額の保険をかけて、この産業全体でおよそ120億ドルの事故対策の資金備蓄を作るというものである。
120億ドルは大金だが、とうてい重大事故のコストをカバーすることはできない。フクシマ事故のコストは2500億ドルにのぼると推定されており、さらにもっと増え続けていきそうだ。世界第4位の公共事業主である東京電力は、事故発生と同時に基本的には破産してしまった。チェルノブイリのコストにいたっては、チェルノブイリ・フォーラム(Chernobyl Forum)とFriends of the Earth Europeによれば、インフレを勘定に入れると6000億ドルをはるかに超えるものである。米合衆国における大事故の潜在的コストについての明確な査定で最も新しいものはスリーマイル島事故のすぐ後に作られたものである
インフレの研究から推測金額を調整すると、人口増加と資産価値の増大が、重大事故の平均コストを4000億ドルより上に押し上げるが、これは私企業の賠償責任の限度額の30倍を越すものである。最大の人口を持つ場所付近で原子炉の事故が起これば1兆5000億ドルという高額に膨れ上がる。ニューヨーク市のすぐ北にあるインディアンポイント3号炉が事故を起こせば最も高くつくものになるだろう。
モラルハザードと無財源の執行命令
【※ 無財源の執行命令(unfunded mandate)についてはこちらを参照】
政府がリスクを社会的なものにするとき、つまりそれを私企業の部門から公的なものに移す場合、政府は経済学者たちが「モラルハザード」と呼ぶものを作り出す。それは私的な行動主体が、もはやリスクを背負えなくなった場合に、もし自らの行為に全面的な賠償責任を負っていたならばとっていたはずの行動よりも、もっと危険性の高いことをやるというとんでもないものである。それはモラルの問題であり、無実の部外者に危害を加える無責任な行動である。それはまた、不経済な活動を企業に奨励するがゆえに、経済的な問題でもある。
現代の政治的な語彙の中で、モラルハザードはある種の無財源の執行命令を作り出す。それは、事故が起こる際に公共の部門が賠償責任限度額を超える弁償を負うように求められる、というものだ。それは公的な経費の増大という形か、あるいは被害者が弁償されないことに我慢を強いられるという形の、いずれかで実施される。
私企業の賠償責任は市場を基準とする経済的な運営の調整機能なのだが、このように見ていくと、原子炉の場合には政府の政治的な動議によって妨害され続けている。政府が私企業に賠償責任を回避させるとき、それは往々にして公的な調整を押し付けるものになる。原子力規制委員会(NRC)は、市場における私企業の賠償責任という見えざる手を、公的な安全規定という目に見える手に置き換えるものだと思われている。しかしながら、その安全規定を試すためにNRCによって作られた最近の専門委員会報告書は、現存の公的な安全規定が「深刻な食い違いのあるパッチワーク」であり包括的な枠組みが必要とされるという、困惑させるような結論を導いた。
政治的な反応と政治的な行動
賠償責任の最高額は政治的な決定である。フクシマに対する反応が政治的であることを知っても誰も驚くべきではない。またその反応が、核エネルギーに大きく頼っている世界中のあらゆる民主的な資本主義の国々で見出されることもまた、驚くべきことではない。
核エネルギー産業は、政府が事故のリスクを引き受けることに同意したという理由のみによって存在する。この非経済的なあり方に対して正当な反応があるとすれば、それはその産業を廃止させることであろう。あるいは核エネルギーへの依存を劇的なスケールで後退させることであろう。理論的には原子炉の数を減らせば事故のリスクは低くなる。その数をゼロにすればリスクを消すことができる。
米合衆国で、賠償責任制度の改革の歩みが経済学の理論と実践によって十分に裏付けられるなら、賠償責任の限度が取り除かれた後に市場がそれを決定できるようになるかもしれない。新たに原子力発電所を建設しようとするどんな会社でも、核事故の現実的なリスクに直面せざるを得なくなるだろう。そのことは、その原子炉に保険をかけることのできるレベルにまでリスクを減らすように安全対策を行わざるを得なくなることを意味する。もしそんな低いリスクを達成できるのなら。
プライス・アンダーソン法を無効にすることは、この法律の本来の意図に一致する。この法律は、1957年の上院報告に書かれてあるように、「原子炉の安全性の問題が十分な程度にまで解決され、保険の担当者たちが経験を積みそれを自分たち自身の健全な計画の基本にできる」期間と信じられていた、10年間の時限立法だったのである。1967年にこの法律の終了が近づいたとき、「私企業の賠償責任能力が1ドル分たりとも増えてこなかった」ことが明らかであり、この法律は延長された。米合衆国で最新の認可の延長に伴って、核の「幼年企業」は、事故に対する全面的な責任を背負うより以前に60歳を迎えることとなるだろう。
もう一つの選択肢があるのだが、それはNRCに、市場での全面賠償責任を果たすことで公的部門を保護するという規則と基準と罰金を設けてもらうことである。ただこの選択肢はあまり当てになりそうにもない。30年以上も昔、スリーマイル島事故を調査するために作られたNRCの専門調査委員会(Lessons Learned Task Force)は、「明瞭で幅広く認識さる国の安全政策の必要性が、狭く高度な技術的許認可条件と結び付けられた」ために、NRCによる規制の取り組みが結果として「寄せ集め状態」になってしまったという結論を出した。ついこの8月には、米国安全規制とフクシマ事故の関連性を調査するために作られたNRCの調査委員会は、米国のシステムが重大な食い違いを持つ「パッチワーク」であるという結論を出し、包括的な規制の枠組みを「論理的で、体系立ち、首尾一貫する、明晰で持続性のあるもの」にするためのリフォームを勧めた。
国際的な賠償責任制度
国際的な観点からすれば、核の賠償責任問題を取り扱うためには、市場の規律を再構築する動きが圧倒的に好ましいものだろう。二つの基本的な取り決めがある。1963年(1977年実施)のthe International Atomic Energy Administration Vienna Convention on Civil Liability for Nuclear Damage(核被害への国民損害賠償に関する国際原子力機関ウィーン協定:仮訳)および1960年(1968年実施)のthe Organisation for Economic Co-operation and Development’s Paris Convention on Third Party Liability in the Field of Nuclear Energy(核エネルギー部門における第三者賠償責任に関する経済協力開発機構パリ協定:仮訳)である。これらの協議会はある基本原則を共有している。それらは、原子炉の営業主(供給者ではなく)に独占的に与えられる非常に低い補償限度額を設定し、財産や健康や生命の喪失に対する賠償金を最小のものとし、環境破壊と経済的損失に対する弁償を全く設定していない。
それらは、賠償金額を含む重要な事項では異なっている。これら協定への参加国がほとんど無いために、国家による賠償責任制度が世界中で大きく様々に異なったものとなっている。先の国際的な協議会は賠償の限度額を約5億ドルに設定しており、米合衆国以外では平均の限度額が10億ドル、いくつかの核大国では1億ドル未満となっている。近年になって、賠償限度額を20億ドルまで引き揚げようとする努力がなされているが、それは環境被害と経済的損失を弁償すべき被害として含み、国家が営業主に対して全被害者のための十分な賠償責任を負わせるようにさせるためのものである。しかしそれは、たった2カ国による批准の準備がなされているのみである。
フクシマの経験はこの国際的な賠償責任制度がいかに不適切なものであるかを教えている。日本における原発の営業主は、いかなる国際的な合意にも加入していないのだが、世界原子力協会(WNA)によれば「1200億円(約14億ドル)の財政的な担保を提供する」ように要請された。政府は事故から数週間の内に、原子炉の営業主と政府が資金を出し合うことで、この産業を保証するために国家が支える備蓄を作ろうと動き出した。日本政府は当初の分担金として620億ドルを投入したのだ。こうしてみると、国際的な賠償責任制度が引きずり続ける20億ドルという数字は、どこかでフクシマ級の事故が起こるならいっぺんで吹き飛ばされてしまうものだったことになる。
国際的な共同体が早い時期での核産業廃止について合意に至るとはとうてい考えられない。一方で、世界的な規制の基準を手に入れるという観点から見れば、モラルハザードが特に深刻な問題である。チェルノブイリ事故の際にウクライナ外の国々に何千億ドルもの被害がもたらされるようなことが起こったのだが、このように原子力発電所を持つ個々の国がそのリスクを自国民から他の国々に転化するとき、彼らは国内の選挙区間に分配する予算を持っていないために、そのようにする非常に強い動機を持っているのだ。他方では、世界中の圧倒的多数の国々が核を持っていないために、それらは核開発を行う国々に対して原子炉のリスクを市場を基準にした賠償責任のやり方で負わせることに関心を抱くはずである。
フクシマは、最初に商業用原子炉事故(国際原子力事象評価尺度の定義による)の59年後に起きた12番目の事故である。たとえ最大級の重大事故はわずかしか(チェルノブイリとフクシマ)起こっていないと信じる者がいるとしても、その破局的な影響を考えれば60年間に2回は多すぎる。賠償責任制度さえあれば事故を無くすことができると考えるのは愚かなことであるにしても、従来の規制が達成できなかったことを行うチャンスを、政策および政治の言葉でもって、市場に与えるべきときがきているのだ。
【訳出、ここまで】
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔eye1693:111101〕