みなさまへ 松元
京都の諸留さんが、わが国の原発導入の歴史を描いてすでに有名になったNHKのドキュメント『原発導入のシナリオ―冷戦下の対日原子力戦略―』をていねいに文字起こしをしました。
文字に残された記録であるとともに、添えられた[◆註]には諸留さんの見解が今日の時点で率直に述べられていることが特徴です。転載、紹介いたします。
======以下全文転載======
[2011(H23)年8月10日(水)AM11:30]
《パレスチナに平和を京都の会》の諸留です(Bcc送信)
**転送転載 自由**
——————————–
1994年放映のNHKドキュメンタリー「現代史スクープ・ドキュメント」『原発導入のシナリオ ~冷戦下の対日原子力戦略~ 』は、日本の原発導入は、その背後に、西側核軍事ブロック構築という、アメリカの軍事外交戦略があったことを暴露している。
フクシマ原発事故以降の現在ですら、「原子核エネルギーの平和利用と核の軍事利用は別ものだ!とする、誤った見方が支配的です。しかし、そうした見方は、全く間違っており、両者は表裏一体米国核軍事戦略構想の下で押し進められていたことを如実に示している。 我が国の反核世論を潰す目的で、「原子力の平和利用」という幻想と美名の下に原発導入が図られたのである。
以下は、この番組
http://video.google.com/videoplay?docid=-584388328765617134&hl=ja#
の文字起し。文中の[◆註]は私(諸留)の付加。
———-以下文字起し————
去年(1993年)12月、アメリカ政府は開発に関わる隠された事実を明らかにした。冷戦が本格化した1940年代後半からから50年代、放射能の影響を調べる人体実験が行われていたというのである。
【テロップ】:プルトニウムの人体への注射 (Pulutonium
injections humans)
【テロップ】:ベーター線に対する皮膚の反応 (Reactions
of human skin to beta rays)
こうした中、アメリカはもうひとつの巨大な実験を準備していた。
【テロップ】:水爆ブラボー(1954年3月1日)
1954年3月1日、アメリカはビキニ環礁で水爆実験ブラボーの爆発実験を行った。この実験で放出された死の灰が近くで操業中のマグロ延縄巨船、第五福竜丸に降り注ぎ、乗組員32人が被曝した[◆註:1]。いわゆる第五福竜丸事件である。
[◆註:1]このビキニ環礁での水爆被曝したのは第五福竜丸だけではなかった。第五福竜丸以外にも約1000艘もの操業中の中部太平洋諸島島民の漁民たちも被曝した。しかし我が国の反核平和運動者の中からも、彼らとの連帯を唱える運動は殆ど起きなかった。反核反原発運動の限界があったことを深く反省すべき点の一つである。
【テロップ】:第五福竜丸
広島・長崎に次ぐ3回目の被曝事件として、日本では激しい反米世論と放射能パニックが沸き起こった。この頃、一人のアメリカ人が銀座で日本人と密談を交わしていた。二人は日米関係に亀裂が入ることを恐れ、ある計画を具体化すべく、協力を交わした。それが日本に原子力を導入する重要なステップとなっていた。その日本人の名は柴田秀俊、当時日本テレビの重役であった。
【テロップ】:柴田秀俊
柴田秀俊は日本の初期の原子力に関わる膨大な資料を残している。政財界の要人の連絡先を記した手帳、アメリカとの頻繁な書簡の往復、そして政府側の内部文書など、その数は二百点を超える。そこからは日米が手を組み、反核感情が高まる日本に原子力発電を導入するまでのシナリオが鮮明に浮かび上がってくる。
【テロップ】:柴田秀俊の資料より「”毒は毒をもって制する”」
【テロップ】:『原発導入のシナリオ~冷戦下の対日原子力戦略~』
原爆でアメリカに遅れを取ったソヴィエトは、1950年代、水爆の開発にやっきになっていた。
そして、1953年8月12日、ソヴィエトはアメリカに先んじて実用的な水爆の開発に成功した。
【テロップ】:第1回水爆実験(1953年8月12日)
核開発競争で、始めてソヴィエトがアメリカの優位に立ったのである。4ケ月後、アメリカのアイゼンハワー大統領は、国連総会で世界に向けて演説を行った。
【テロップ】:1953年12月8日 国連
それは、原子力の情報を全て機密扱いとしてきた従来のアメリカの外交国防政策を大きく転換するもの[◆註:2]であった。
[◆註:2]NHKのこの解説は不適切。アイゼンハワーの 「アトムズ・フォー・ピース」”Atoms for Peace”は、核開発と切り離して核の平和利用の解放を宣言した「平和的なもの」「歓迎すべき政策変更」などでは、決してなかった。一見「核の平和利用」を装いつつ、更に強固な核兵器軍事ブロック体制の中へ、アメリカ従属国を組み入れようとの戦略が働いていたことを見逃してはならない。
【テロップ】:アンゼンハワー米大統領
アンゼンハワー[英語演説]:「私は提案したい。原子力技術を持つ各国政府は、蓄えている天然ウラン、濃縮ウランなどの核物質を、国際原子力機関(IAEA)をつくり、そこにあずけよう。そしてこの機関は、核物質を平和目的のために、各国共同で使う方法を考えてゆくことにする」
「アトムズ・フォー・ピース」”Atoms for Peace”
原子力の平和利用を呼びかけたこの提案は、画期的な核軍縮提案と見られた。ウラン鉱石の中に含まれる核分裂性物質ウラン235(U-235)。その濃度を上げた、いわゆる濃縮ウランが核兵器に使われる。アメリカの提案は、核兵器用に生産した濃縮ウランを、原発など民間に転用することにより、軍縮を進めようというものであった。
【テロップ】:December 4, 1953
WASHINGTON TOP SECRET
しかし、この提案の裏には、アメリカの核戦略における、もうひとつの大転換があった。アンゼンハワーアメリカ大統領の演説の5日前に行われたアメリカ国家安全保障会議の文書にはこう書かれたいた。
【テロップ】:国家安全保障会議文書
「アメリカは同盟国に対して核兵器の効果や使用法、ソヴィエトの核戦力について情報を公表していくべきである」
【テロップ】:Weapons Effects(核兵器の効果)
Use of Atomic Weapons(核兵器の使用)
Soviet Atomic Capabilities(ソ連の核戦力)
【テロップ】NATO foces in the event of war;
それはNATO(北大西洋条約機構)など、同盟諸国にアメリカの核兵器を配備しようとする計画であった。
【テロップ】:フルシチョフ書記長
平和利用を呼びかける一方で、西側諸国の核武装を進めていたのである。ソヴィエトはアメリカの二枚舌を非難して、原水爆の無条件禁止を世界に訴えた。そして、米ソは互いに核の脅威を煽り立てる宣伝合戦を繰り広げていく。
【テロップ】:ソ連の国内向け宣伝映画
「これが原爆です
巨大な爆発力をもつ原爆は‥‥
アメリカによって第二次世界大戦ではじめて使用されました
いかにしてアメリカはソビエト
との戦争に勝利するか
そんな内容の雑誌がアメリカでは発行されています
すでに1945年依頼ずっと
ワシントンでは‥‥
ソビエトとの核戦争に備える
動きがあったのです」
【テロップ】:アメリカ国内向け宣伝映画
「原爆だ!頭を下げて隠れろ!」
「頭を下げて隠れろ!」
【テロップ】:東京
アメリカは海外での広報宣伝活動を強化するため、海外各地に「広報文化交流局」、いわゆるUSISを置いた。東京には、当時虎ノ門のアメリカ大使館別館にUSISが設置されていた。USISは新聞や放送、映画などのメディアを通じて、アメリカの原子力平和利用計画の宣伝を進めていた。
【テロップ】:当時のUSIS
【テロップ】:元USIS局次長ルイス・シュミット
「我々USISは、日本での原子力平和利用の宣伝活動に特に力を入れました。日本は原爆が投下された唯一の国であり、いかなる形の原子力計画に対しても反発していたからです。」
【テロップ】:ビキニ環礁(1954年3月)
アメリカは原子力平和利用計画を宣伝する一方で、ソヴィエトを凌ぐ水爆の開発に全力を挙げていた。アイゼンハワー米国大統領の演説から、わずか3ヶ月後の、195ビキニ環礁で秘密裏の水爆実験[◆註:3]、キャッスル作戦が実行された。
[◆註:3]ビキニ環礁水爆実験が秘密裏であったことはしっかり記憶にとどめるべき。核エネルギーで秘密主義はつきまとうものであり、その被害者は常に弱い立場の者である。これは核の軍事利用や平和利用の如何を問わず共通する点である。
【テロップ】:水爆ブラボー(1954年3月1日)
秘密だった実験は、第五福竜丸の被曝事件によって世界中に知れ渡った。やがてビキニ近海で取れたマグロから放射能が検出され始めた。食料品の汚染は、日本国民の不安を掻き立て、アメリカの核実験に対する反発が強まった。
【画面】:水爆マグロは使っていません 店主
さらに、雨からも微量の放射能が検出され、野菜や牛乳などにも汚染の疑いが起こり、放射能パニックが広がっていった[◆註:4]。
[◆註:4]この時の放射能汚染経験は今回のフクシマ原発事故の放射能汚染には全く生かされていない。この1954年以来今日の2011年までの57年間、放射性汚染問題、内部被曝研究が全くなされてきていない。科学者の無関心さ、その無責任さには呆れる。
【テロップ】:広島市(1954年8月6日)
原爆の日を迎えた広島でもアメリカへの非難の声が相次いだ。
「アメリカは人道主義の国だと言っているけれども、何が人道主義の国だ!原爆というようなものは、もうこの世からないようにしなくちゃいけない」
【テロップ】:元USIS局次長ルイス・シュミット
「私たちがせっかく積み重ねて来た努力が水の泡になってしまいそうでした。全く最悪の事態だったと言っても良いでしょう。第五福竜丸事件の後、日本人はアメリカの原子力平和利用計画に疑いを強めるようになってしまったのです」
柴田秀俊は反米に傾いた日本の世論の動向を気にしていた。柴田はこのビキニ事件が起こした大きな波紋を次のように記している。
【テロップ】:柴田秀俊の手記より
「日本は唯一の被曝国であり、こと原子力と言うとたちまち人々の神経を刺激し、怒髪天を突く。原爆アレルギーの最たる国である。日本人全体の怒りと恨みは、それこそキノコ雲のように膨れあがり爆発した。その動きを見逃す手は無い。たちまち共産党の巧みな心理戦争の餌食にされ、一大政治運動と化した[◆註:5]」
[◆註:5]反核運動が、反軍事同盟運動、東西冷戦対立のイデオロギー対立という政治的対立に絡め取られ、「人間のいのちと健康を守る」という最も基本的な視点が、骨抜きされていった点も、深く反省すべき点である。
【テロップ】:柴田秀俊
【テロップ】:吉田茂首相
柴田秀俊は吉田茂総理大臣を始めとする、政財界の上層部に通じていた。また、国内のみならずアメリカにも多くの人脈を持っていた。
【テロップ】:アイゼンハワー米大統領
戦後最大の労働争議と言われた「読売争議」。
【テロップ】:第2次読売争議(1946年)
柴田秀俊はその中で頭角を現した。GHQの担当記者だった柴田秀俊は、GHQ幹部を動かして、組合側の要求を抑え、経営側を勝利に導いた。[◆註:6]
[◆註:6]労働者の生活と権利を抑圧し資本家擁護に走る柴田秀俊が、戦前の特高幹部で関東大震災事の朝鮮人大虐殺事件を工作した正力松太郎の「懐刀」に走ったのは、驚くに当たらない。労働者の権利やいのちを蹂躙した柴田秀俊や正力松太郎が、日本へ原発を導入したことで、半世紀後の現在、またもやフクシマ県民を始め日本国民の健康と命を、今又、脅かしたのだ。
【テロップ】:元読売新聞社主 正力松太郎
【テロップ】:柴田秀俊
柴田秀俊は社主、正力松太郎の「懐刀」として次第に重用されるようになり、そして、日本テレビの創設に深く関わるようになり、GHQの人脈を元に、アメリカとの交渉に辣腕を振るったのである。
手記によれば、柴田秀俊は第五福竜丸事件のあと、銀座の寿司屋で一人のアメリカ人と接触を重ねていた。
【テロップ】:柴田秀俊の手記より
「このまま放っておいたら、せっかく営々として築き上げてきたアメリカとの友好関係に決定的な破局を招く。日米双方とも対応に苦慮する日々が続いた。この時、アメリカを代表して出てきたのがD・S・ワトソンという、私と同年輩の、肩書きを明かさない男だった。私は告げた。日本には『毒をもって毒を制する[◆註:7]』という諺がある。原子力というのは諸刃の剣だ。原爆反対を潰すには、原子力の平和利用を大々的に歌い上げ、日本国民に希望を与える他はない」
[◆註:7]共産主義・社会主義体制を「毒」とし、その毒に対し、核エネルギー及び放射能という毒をもって制したと豪語した柴田秀俊であったが、その毒は共産体制のみならず、60年後には、我が国国民にまで放射能汚染という猛毒となって襲いかかってきたことを、彼らは予想しただろうか?「毒をもって毒を制する」と「毒を甘く見た」かれらの核物資に対する認識の甘さが、今日のフクシマの悲劇を生みだした。
【テロップ】:Mr.Daniel S. Watson
柴田秀俊の書簡にも登場するダニエル・S・ワトソン。ワトソンとは一体何者だろうか。アメリカ、コネチカット州に、かってワトソンの同僚だった人物がいた。彼は匿名を条件に電話インタビューに応じた。
「なぜワトソンを知っているのですか?」
「同じ時期に東京に駐在し、政府のために働いていたからだ」
「ワトソンは、心理戦略などに関与していましたか?」
「そのとおりだ」
「情報は、国家安全保障会議などに届けられていたのですか?」
「そのとおりだ。当時はアイゼンハワー政権の時代で‥‥大統領は、原子力平和利用計画には特別熱心だったからね」
「ええ‥‥ええ。すると、原子力平和利用計画についての情報は‥‥」
「情報は、かなり高いレベルのところに届けられていましたよ」
【テロップ】:クエルナバーカ(メキシコ)
ワトソンはメキシコに住居を移していた。メキシコ南部にあるクエルナバーカ。メキシコ屈指の高級保養地プエルナバーカにワトソンは今も健在であった。ワトソンは日本での活動を終えた後、パキスタン、香港、ベトナムなどでアメリカ政府のために働いたという。
【テロップ】:ダニエル・ワトソン
しかし、彼は所属機関や日本での仕事の目的などは、決して明かそうとしなかった。
ワトソン:「私がアメリカ政府のどこに属して、どこに報告していたのかは、当時、柴田秀俊にも伝えませんでした。日本に来ている公式の目的についても同じです。柴田秀俊も私に対して同様の態度を取っていました。私が言えるのはそれだけです。柴田秀俊は明らかに首相官邸と関係を取り合っていました。私は日本の首相から出された様々な提案を、柴田秀俊を通じて受け取っていました。私は非常に驚きました。それはテレビ局の重役がするような提案ではなかったからです。全くレベルの違うものでした」
【画面】:NATIONAL SECURITY COUNCIL
PROGRESS REPORRT on UNITED STATES OBJECTIVES AND COURSES OF ACTION WITH RESPECT TO JAPAN
対日政策の進行状況を記した当時のアメリカ国務省の報告書。第五福竜丸事件後の対日政策について、次のように記されている。
【画面】:The violence of Japanese reactions to any matter relating to nuclear weapons is an element in all of our relations with Japan and raises particular problems in connection with any further U.S.tests in the Pacific as well as in relation to U.S.actions in the development of peaceful use nuclear energy.
「核兵器に対する日本人の過剰な反応は、日米関係にとって好ましくない。核実験の続行は困難になり、原子力平和利用計画にも支障を来す可能性がある。その為に、日本に対する心理計画をもう一度見直す必要がある」[◆註:8]
[◆註:8]核エネルギーの平和利用が、核兵器アレルギーを消すために戦略的に使われてきた点を、しっかり記憶すべき。
【テロップ】:Psvchological strategy Program for Jpan
「日本に対する心理戦略計画」
ワトソン自身の説明によると、彼は1963年の6月に来日した。やがて、当時のイギリスのサンデー・タイムスの東京特派員を通じて、柴田秀俊と知り合った。目的は読売新聞社主の、正力松太郎に近づくことであった。
【テロップ】:ダニエル・ワトソン
ワトソン:「日本では新聞を抑えることが必要だ、ということが、はっきり解っていました。それも大きな新聞を抑えることです。日本の社会は、新聞に大きく影響を受けます。[◆註:9]。日本人は一日に最低三紙に目を通し、それから自分の意見を組み立てるのです。
[◆註:9]我が国大衆が世論操作に如何に弱いかが、見事にアメリカの側から見抜かれ、戦略(というより謀略というべき)としてマスコミが狙い打ちにされている事に注目されたい。
その新聞は、当時一人の男によって経営されていました。その下には、決してミスをしない、優秀で従順な部下が揃っていました。ですから、この仕事で成果を上げるには、誰よりも先に、正力さんに逢って話をしたほうが良いと思いました」
【テロップ】:元読売新聞社主 正力松太郎
当時の読売新聞社主、正力松太郎。内務省の警察官僚だった正力松太郎[◆註:10]は、大正13年、官職を退いて読売新聞の経営に乗り出した。正力が買収した時、発行部数が、僅か五万部ばかりだった読売新聞は、正力の斬新な企画力と、紙面改革によって、急速に部数を拡大した。
[◆註:10]正力松太郎(しょうりき まつたろう、1885年(明治18年)4月11日~1969年(昭和44年)10月9日)。日本の警察官僚、実業家、政治家。元読売新聞社社主。従二位勲一等。富山県高岡市名誉市民。京成電鉄OB。読売新聞社の経営者として、同新聞の部数拡大に成功し、「読売中興の祖」として大正力(だいしょうりき)と呼ばれる。日本に於ける「プロ野球の父」、「テレビ放送の父」、「原子力の父」とも呼ばれる。関東大震災に際し「不逞朝鮮人が井戸に毒物投入を計画している!」のデマを流した張本人が、当時内務官僚だった正力松太郎であったことは、後日の正力自身の告白証言からも明らかにされた。戦犯不起訴で巣鴨プリズン出獄後の正力がCIAの意向に従って行動していたことを、早稲田大学教授の有馬哲夫がアメリカ国立公文書記録管理局によって公開された外交文書(メリーランド州の同局新館に保管されている)を基に明らかにし反響を呼んだ。アメリカ中央情報局(CIA)と、日本へのテレビの導入と、原子力発電の導入の3点で利害が一致していたので協力し合い、その結果、アメリカ中央情報局(CIA)より「podam」、「pojacpot-1」というコードネームを与えられた。正力松太郎は、まぎれもないCIA諜報部員だった。これに関する大量のファイルがアメリカ国立第二公文書館に残っている。
昭和28年、正力は新たな事業拡大に乗り出した。日本初の民間テレビ局「日本テレビ放送網」を創設したのである。街頭テレビのプロレス中継は爆発的なブームを呼んだ。読売新聞の発行部数は、この時300万部に迫ろうとしていた。正力は新聞とテレビの二大メディアを手中に収めていたのである。ワトソンは柴田秀俊の仲介で、正力松太郎と会談する機会を持った。ワトソンによれば、会談は第五福竜丸事件の起きる前から既に行われていたという。
【テロップ】:ダニエル・ワトソン
ワトソン:「正力は実に鋭い男で、的確な質問をしてきました。私はすぐに本題に入り、原子力の平和利用について話をしました。日本は原子力の平和利用にうってつけの国である。なぜなら国内にエネルギー源がほとんどない。それが私の話のポイントでした。すると、それを聞いていた正力は、目を輝かせたのです」
なせ、この時、正力は原子力にそれほどの興味を示したのだろうか?
【テロップ】通産省工業技術院初代原子力課長:堀純郎さん
堀純郎:「日本が非常に貧乏していると。これは日本が貧困の結果、共産化するかもしれないと。特にエネルギーが不足していると。そのために、貧乏して共産化する恐れがあると‥‥。これを何とか防がなくちゃいかんと。それには、将来原子力というものが、エネルギー源として非常に有望だと聞いていると。だから、これを開発してエネルギーを開発して貧乏を救済し、ひいては共産化を防ぎたいと‥‥」
アメリカの水爆実験から半年後、第五福竜丸の無線長だった久保山愛吉さんが死亡。
【テロップ】:久保山愛吉さん死亡(1945年8月23日)
死因は放射能症とされた。アメリカを非難する世論はさらに高まった。水爆実験に対する日本人の強い反発にどう対処すべきか、アメリカの方針が列挙されたホワイトハウスの文書には、次のような一説がある。
【画面】:Seek to attribute continued illness of Japanese patients to chemical effects of coral dusting rather than radioactivity
【画面】:水爆はまっぴらよ!
「漁民の病気の原因は、放射能ではなく、飛び散った珊瑚礁の化学作用によるものである、とする」
水爆実験の責任を取ろうとしないアメリカに対し、日本国内では抗議運動が広がっていった。社会党や共産党など、左翼勢力はアメリカを「戦争精力」と位置づけ、アメリカと結びついた保守政権への攻撃を強めていった。
アメリカは日本の政治情勢に神経を尖らせていた。極東での反共の砦となるべき日本の政治基盤が安定しないことを懸念していたのである。
【テロップ】:アメリカ国務省
【テロップ】:元米国務相日本課 リチャード・フィン
「アメリカに対して友好的だった吉田茂政権は弱体化する一方でした。これに対し、左翼はアメリカの核実験を非難することによって、精力を増し、日本を乗っ取る危険性さえ生まれていました」
ソヴィエトもまた、こうした日本の情勢に注目していた。日ソの国交回復を果たし、日本をアメリカから引き離す好機ととらえていたのである。
【テロップ】:モスクワ
当時のフルシチョフ書記長は、ソヴィエトの対日政策について、次のような証言をしている。
【テロップ】:[声]フルシチョフ書記長
フルシチョフ書記長:「日本には、アメリカに対する大きな不満があった。広島と長崎に原爆を落としたのは、ほかならぬアメリカだ。被爆者やその家族、政治家は強い不満を持っていたのだ。もし、わがソビエトの大使館が東京にできれば‥‥日本の政治に不満を持つこれらの人々が、われわれの大使館に節食してくるようになるだろう」
内外の政治情勢が緊迫する中で、柴田秀俊はワトソンと銀座で会い、一つの計画を持ち掛けた。
【画面】:”Atoms-for Peace”Mission 「原子力平和利用使節団」
それは、民間使節の形を取った原子力平和使節団をアメリカから招き、原子力の平和利用を広く一般国民にPRしようというものであった。
【テロップ】:タニエル・ワトソン
ワトソン:「柴田秀俊にカネはあるのか?と尋ねると、『十分にある』、と答えました。では、『プロデュースをこちらでやろうか?』と尋ねると、『それも自分たちでやる』と答えました。私もそれに賛成でした。そこで私はゼネラル・ダイナミック社と連絡を取り始めたのです」
その年1月、アメリカは世界に先駆けて、原子力潜水艦ノーティラスを完成させた。
【テロップ】:米原子力潜水艦ノーティラス[◆註:11]進水式(1954年1月21日)
[◆註:11]我が国の原子力発電は、基本的には、原子力潜水艦搭載用原子炉である軽水炉型原子炉から始まった事も見落としてはならない。
【テロップ】:ゼネラル・ダイナミック社長 ジョン・ホプキンス
ゼネラル・ダイナミック社は、その開発メーカーであった。ゼネラル・ダイナミック社の社長、ジョン・ホプキンス氏は、原子力平和利用計画に熱心で、海外での市場開拓をアメリカ財界で提唱している人物だった。
柴田秀俊はアメリカのテレビ関係者と通じて、このジョン・ホプキンス氏と連絡を取り、平和使節として来日するよう、正力の意向を伝えた。
【画面】:正力松太郎の以下の手書きの手紙
正力松太郎:「原子力の平和利用の先覚者なる貴下の訪日は、この際、期せずして、アメリカ側からする最も効果的な反撃となることは、小生の深く確信するところであります」
【テロップ】:1955年1月1日 読売新聞朝刊
「米の原子力平和使節」
「明日で遅すぎる 原子力平和利用」
「ホフキンス氏来日を前に 火に代わる新しき熱源」
「ナゾも不安もない」
「野獣も飼ならせば家畜」[◆註:12]
[◆註:12]「飼ならせば家畜」となるべき筈の野獣が2011年現在も「手のつけられない凶暴な野獣として猛威を振るっている」事からも、正力松太郎や読売新聞のキャンペーンがデマ宣伝だったことが改めて暴露された。
明けて、1955年、読売新聞は元日の朝刊にアメリカ原子力平和使節団の招聘を告げる社告を掲載した。これ以後、五ヶ月に渡り、原子力平和利用のキャンペーン記事がたびたび読売新聞紙上に登場することになる。
【テロップ】:柴田秀利の手記より
「読売も日本テレビも、共に原子力特別調査班を作り、両社を上げて使節団を受け入れる世論作りに邁進した。私は新聞もテレビも、両メディアを合い呼応させて活用させた。本格的な大キャンペーン開始の時の来たことを痛感し、精魂傾けていった」
【テロップ】:オプニンスク原発(ソビエト)
この頃、ソヴィエトは世界初の商業用原子炉の開発に成功し、アメリカを驚かせた。そして、ソヴィエトは諸外国に対し、原子力平和利用の技術援助を行う用意のあることを明らかにした。
アメリカではまだ最初の商業用原発の建設が始まったばかりだった。アメリカは大きな政策転換を図った。
【テロップ】:アイゼンワー米大統領
アイゼンワーは、原子力の国際管理案をいったん棚上げする。そして、西側友好国に対し。アメリカが個別に、二国間で協定を結ぶという方針を打ち出した[◆註:13]のである。
[◆註:13]原子力の平和利用(=原子力発電)自体が、アメリカを中核とする西側核戦略国家群に日本を組み込もうとする日米軍事同盟と、ピッタリ軌を一にして幕いたことが明瞭に読みとれる。国連の一機関IAEAの管理にある事で、我が国の原子力平和利用施設(原発)が、安全な国際管理下に置かれているかのように錯覚している市民が非常に多い。だが、実情は、日本の原子力発電がアメリカとの個別的な「二国間協定」という形で発足したことは、日米安保条約と同様の、日米二国間の核軍事利用同盟戦略として発足したシロモノである。「原子力平和利用」と、敢えて「平和」と断わるところに、日本国民を欺く政治的外交戦略の思惑がある。この視点が欠落している者の説く原発論は賛成派・反原発派であろうと「まやかし」論である。
アメリカは協定締結国に対し、濃縮ウランや原子力の技術情報を供与することになった。アメリカは、濃縮ウランを外交カードとしてアメリカの勢力下に置こうとしたのである。
【テロップ】:旧アメリカ原子力委員会
アメリカ原子力委員会は、日本政府とも原子力協定を結ぼうと、ワシントンで日本側に対する打診を行っていた。当時の原子力安全委員会国際部長ジョン・ホールは日本政府と公式な交渉を始める時期を模索していた。
【テロップ】:元原子力安全委員会国際部長 ジョン・ホール
元原子力安全委員会国際部長ジョン・ホール:「第五福竜丸事件のせいで日本が神経過敏になっていることは良く解っていました。第五福竜丸事件の決着と原子力協定の公式交渉の時期が重なるのは、避けるべきだと思いました。そこで、交渉の時期を遅らせて、春にすべきだと私は提案しました。春ならば、交渉妥結後、すぐにアメリカ議会の承認を得ることも出来るからです」
昭和29年、日本政府は2億3500万円の原子力研究予算を成立させていた。しかし、学会には原子力に対する反発が強く、ウラン入手の目途すら立たない状態が続いていた。アメリカからの提案は、こうした状況に突破口を開くものだった。1月4日、第五福竜丸事件はアメリカ政府が補償金200万ドルを日本政府に支払うことで決着した。アメリカの法的責任は一切問わないことを条件とする政治決着[◆註:14]であった。
[◆註:14]第五福竜丸も含め、ビキニ環礁周辺海域で操業中の中部太平洋諸島民のビキニ被曝者のいのちは、アメリカ政府には「ハシタカネ」で処理され、切り捨てられた。ヒロシマ・ナガサキの悲劇だけ強調されても、世界中の原水爆、原発の放射能被曝被害で苦しむ民衆との連帯、救済も、同時に訴えなかった、我が国の原水爆反対運動も厳しく批判されねばならない。
その1週間後の1月11日、日本政府に当ててアメリカから濃縮ウラン受け入れを打診する書類が届けられた。しかし、外務省はこのことを外部に対して一切秘密にした。
【テロップ】:元外務相国際協力局第三課長 松井佐七郎さん
「皆反対したんだよ。平和利用という名のもとに軍事利用に走るようじゃかなわんという、一部の人があったからね。非常にそのね‥‥何ていうのかなぁ‥‥火のつくような発火しそうな議論でね。今から見ると何ということか‥‥って思うけど、当時はやっぱりね、火を着けると療原の火のようにパァ~っと広がる背景が、その当時はあったからね。やっぱり相当慎重に足下を見て、ひとつひとつ、当たりを見渡していかざろう得なかったんですよ」
【テロップ】:ソ連の原子力援助対象国 中国 ポーランド 東ドイツ チェコスロバキア ルーマニア
その3日後の1月14日、ソヴィエトは中国、東欧五カ国に対して、原子力技術や濃縮ウランの援助を行うと発表した。ソヴィエトも独自に二国間協定を結び、核のブロックを作ろうとしたのである。
【テロップ】:1955年4月14日 朝日新聞朝刊
「原子炉用ウラニウム 米から配分受申入れ 政府、近く態度決定」
一方、外務省がひた隠しにしていたアメリカからの濃縮ウラン提供の申し入れは、3ヶ月後、朝日新聞のスクープによって明るみに出た。以降、日本国内の世論は、受け入れの是非を巡って二つに割れていく。
【画面】:「日本学術界会議第十九回総会会場」の立て看板
一週間後に開かれた日本学術界会議の総会でも、この問題を巡って議論が沸騰した。受け入れに反対する科学者たちは、原子力を通じて日本がアメリカの軍事ブロックに組み込まれる可能性を指摘し、あくまで自主開発をすべきであると主張した。
【テロップ】:物理学者 武谷三男さん
物理学者の武谷三男さん[◆註:15]。武谷さんも当時、濃縮ウラン受け入れに反対した一人である。
[◆註:15]「武谷三段論法」でも有名な武谷三男教授は、終止一貫し「軍事利用・平和利用を問わず核エネルギー利用に反対した。この点、湯川秀樹氏の場合は、核兵器は「絶対悪」としながら「平和利用」に関しては、曖昧な立場に止まった。
武谷三男:「そりゃ勿論、アメリカがやってるいろんなことを見ていてですね‥‥あぁ、これはヤバイと‥‥つまり軍事との区別が無いわけですよね、アメリカでは‥‥。英国でもそうですよね。軍事のおこぼれが、平和利用っていう格好になっていて‥‥そういう出発ですからね‥‥」
柴田秀俊の資料に、学術会議の主要メンバーの思想傾向を調べた書類が残っていた。『警察庁と公安調査庁調べ』と記された、1955年当時のものと推定される資料である。当時、共産党寄りと見なされた学者には、赤丸が印されている。
【テロップ】:元読売新聞社主 正力松太郎
二月、正力松太郎は、突如、富山二区から衆議院選に立候補することを表明した。正力は、保守合同による政局の安定と、原子力平和利用推進を二大公約に掲げた。この選挙で正力は初当選をし、原子力に向けた大きな足がかりを得たのである。
【テロップ】:原子力平和利用懇談会発足(1955年4月28日)
正力は早速財界に働きかけて、原子力平和利用懇談会を発足させ、自ら代表世話人に就任した。経団連の石川一郎会長を筆頭に、電力業、電力業界を始め、財界の主要メンバーが集まった。学会からも原子力の導入に積極的な科学者が集められ、平和使節団受け入れの準備が整えられていった。
【テロップ】:ダニエル・ワトソン
ダニエル:「正力の存在がなければ、これだけの人は集まらなかったでしょう。特に、科学者たちは地位を失う事を恐れていて断れなかったように見えました」
当時、日本では慢性的な電力不足の解決の為に、大型ダムが次々に作られていた。しかし、建設費が次第に高騰し、水力発電は限界に近づいていた。火力発電所もまだコストが高く、将来の石炭不足も予想されていた。産業界は新たなエネルギー源を模索していたのである。正力はアメリカから提供されたデータを使って、水力や火力より、原子力発電の方が経済的であると、財界を説得した。
【画面】:財界紙『先見経済』紙面記事 原子力の産業利用
「死の灰」の活用 全てのバイ菌も即座に死滅[◆註:16]
[◆註:16]元内務相の特高上がりの正力松太郎に原子核エネルギーや放射能の危険や怖さに関する科学的な正確な知識が全く欠落していたにもかかわらず、こうした悪辣な「安全神話」のキャンペーン、大デマを堂々と語らせることを見逃し、黙認し、追従した当時の原子力学会科学者の責任は大きい。
正力は原子力発電の安全性についても説明した。財界紙に掲載された正力の文章には、「原子炉から出る死の灰も、食物の殺菌や、動力機関の燃料に活用できる」と書かれている。
一方、アメリカ国家安全保障会議は、海外との原子力協力について、次のような方針を採用していた。
【画面】:
authorized U.S.programs for power reactions are unlikely to produce economically competitive atomic power for a decade or
the USSR could gain an important advantage in whith ‥‥ ming a critical sector of the cold war struggle.
「向こう10年間に、経済的に競争力のある原子力発電をすることは期待できない」
しかし、ソヴィエトは原子開発を力急ピッチで進めており、アメリカが冷戦に置いて、リーダーシップを奪われる可能性がある。電力コストの高い日本は、最も有力なターゲットとして、ここに挙げられている。
【画面】:読売映画社ニュース
「ホプキンス氏一行来日」(ニュース映画の字幕)
「アメリカから読売新聞社が招いた原子力平和利用の民間施設、フプキンス、ローレンス、ハウスタットの三氏が、5月9日来日し、読売新聞社社主、正力松太郎氏らと堅い握手を交わし、花束を受けました」
使節団には、ノーベル賞を受賞した物理学者ローレンツ[◆註:17]ら、著名な科学者が随行し、話題を集めた。
[◆註:17]「ローレンツ変換 Lorentz transformation」で有名な理論物理学者。二つの慣性系の間の座標(時間座標と空間座標)を結びつける線形変換で、電磁気学と古典力学間の矛盾を回避するために、アイルランドのジョセフ・ラーモア(1897年)と共に提案された理論。アルベルト・アインシュタインが特殊相対性理論(1905年)を構築したときには、慣性系間に許される変換公式として理論の基礎を形成。
【テロップ】:鳩山首相
【テロップ】:ジョン・ホプキンス
【テロップ】:正力松太郎
一行は鳩山総理大臣や、政財界の主要人物と精力的に会談を重ね、濃縮ウラン提供の前提となる日米原子力協定の早期締結を促した。
【テロップ】:原子力平和利用大講演会(5月13日 日比谷公会堂)
一方、国民へのPRの為に、「原子力平和利用大講演会」が企画された。講演会は人気を集め、会場となった日比谷公会堂の周りには長蛇の列が出来た。会場に入りきれない街頭テレビが設置され、講演の様子や広報映画が写し出された。
【テロップ】:アメリカの宣伝映画
「核分裂によって発生した熱が発電に使われます。アメリカでは、大型の原発を建設中で、完成すればすぐに、すべての都市に電力を供給できるようになるでしょう。船や飛行機に原子力を使えば輸送革命が起きるでしょう。原子力に対して、知性に基づく確固たる態度で臨むことは原子力時代における子どもたちの未来に関わる問題なのです[◆註:18]。
[◆註:18]このアメリカの宣伝啓発映画の「原子力時代における子どもたちの未来に関わる問題なのです」とは、よくぞ言ったものだ!当時の未来(=現在の2011年の福島も含む日本中の子供たちの未来を放射線被曝の暗黒に突き落とすという深刻な問題を引き起こしたのだ!日本国民の放射能の怖さの無知につけ込んだ卑劣な宣伝工作戦略にみごとに引っかけられたのが解る!
【テロップ】:柴田秀利の手記より
「読売は二頁を裂いて、この講演内容を掲載し、テレビは娯楽番組を外して、その全容を生中継し、国民大衆の啓蒙に資することができた。こうして原爆にも怯え、憎み、反対の狼煙ばかりを上げ続けてきた日本に、始めて『毒は毒をもって制する』、平和利用への目を開かせるかけ声が、全国に木霊した[◆註:19]のだった。舞台裏に身を潜めながら、私は喜びと感動にうち震えていた」
[◆註:19]これに呼応して全国都道府県でも「原子力平和利用展」が一斉に開催され、全国的にも一大キャンペーンが展開された。
【画面】:「原子力利用準備調査会」立て看板
政府側の動きも活発化していた。濃縮ウラン受け入れを検討してきた原子力利用準備調査会は、5月19日、会合を開き、受け入れを決議したのである。民間使節の動きと、政府側の動きが、ここに一致した。
【画面】:原子力年報 昭和31年度
【テロップ】:経済企画庁初代原子力室長 島村武久さん
政府の原子力利用準備調査会の初代事務局長となった島村武久さん。
島村武久:「民間の使節なんだけれども、政府はそれを大いに応援したわけです。それは、日本に大いに原子力をやらせようというよりは、むしろ、そういう政治情勢をアメリカが見てですね、日本が変な事にならないようにという、アメリカ側の考えもあったわけですね‥‥」
【画面】:ニュース映画 タイトル
「日米原子力協定成る ワシントン NHK」
1955年6月21日、日米原子力協定がワシントンで仮調印された。第五福竜丸事件から1年3ケ月後の事である。この条約により、日本に濃縮ウランが始めて供給されることになった。半年後、正力松太郎は原子力担当大臣として、第三次鳩山内閣に入閣した。その時、正力は、アイゼンハワー米大統領に向けて、一通の書面をしたためている。
【画面】:
delegation from your country heade by Mr.Hopkins and Drs. Lawrence and Hafstad,marked a turning point in the controversial issu of atomic ebergy.This movement was the direct stimulus for the counclusion by our goverment of an atomic ebergy agreement,‥‥
正力松太郎:「原子力平和利用使節団の来日が、日本での原子力に対する世論を変えるターニングポイントになる、政府をも動かす結果になりました。この事業こそは、現在の冷戦に於ける、我々の崇高な使命であると信じます。正力松太郎」
【テロップ】:茨城県東海村
「原子炉完成の日を迎えて、500人が参列して、原子力センターの出発を祝います。正力国務大臣が歴史的なスイッチを入れます(参列者拍手)」
【テロップ】:初代原子力委員長 正力松太郎
1957(昭和32)年8月20日、アメリカから輸入された日本最初の研究用原子炉JRR-1が、茨城県東海村原子力研究所で臨海に達した。我が国初の”原子の火”が点火した。日本の原子力開発がスタートした瞬間であった。
しかし、日本で原子力による電力の供給が始まるのは、アメリカが予想した通り、ほぼ10年後の1966(昭和41)年のことであった。[◆註:20]
[◆註:20]1963年に、日本初の原子力発電実施。1966年に日本初の原子力発電所、東海発電所が完成。
【テロップ】:ダニエル・ワトソン
ダニエル:「日本は原子力を持たなければならなかった。原子力を理解し、最大限に利用する必要があったのです。プルトニウムの悪用さえしなければ。それは、我々が最初から望んだことでした。何の悔いもありません」
【テロップ】:原子力協定の締結国 ソビエト側 アメリカ側(1955年~1958年)
アメリカは1958年までに39ケ国と原子力協定を結び、ソヴィエトに対抗していった。協定により、核物質の軍事転用は禁止された。それは、各国が米ソの核兵器ブロックの中に組み込まれていくことを意味していた。
【テロップ】:
JOINT PROGRESS REPORT(STATE DEPARTMENT AND AEC) ON IMPLEMENTATION OF NSC 5507/2 – “PEACE USES OF ATOMIC ENERGY”
1957年、アメリカ国家安全保障会議に提出された報告書は、原子力平和利用計画を次のように評価している。
アメリカ国家安全保障会議提出の報告書:
During the last three years of intense propaganda against nuclear weapons,and especially against tasting,the U.S.position has been more acceptable throughout the Free World because of the parallel efforts to spread the benefits of atomic energy.
Although it cannot be measured,this accomplishment of the Atomic-for-Peace program is substantial.
「過去三年、核実験に反対する激しいプロパガンダが行われたが、アメリカの立場は、自由主義諸国の支持を得ることが出来た。原子力平和利用が果たした役割は、計り知れないものがある」[◆註:21]
[◆註:21]日本の原発=原子力平和利用が、アメリカを盟主とする西側自由主義諸国の軍事同盟結束の外交戦略であることを如実に示している。
1953年、”Atoms-for-Peace「平和のための核」”を旗印として、アメリカ合衆国大統領のアイゼンハワーは、核物質の国際管理と民間転用を、国際連合総会演説で訴えた。
【テロップ】:IAEA憲章調印式
このアイゼンハワー米大統領の国際連合総会演説から4年後の1957年に、国際原子力機関IAEAが発足した[◆註:22]。
[◆註:22]
アメリカの同盟・友好国への100キログラムの濃縮ウラン供与の真の目的はソビエト連邦やイギリスに先行されたアメリカが狙った核体制の主導権奪還であった。タテマエ上では核削減や廃絶を主張するアメリカが水爆実験を行ったことが暴露され、国際的な反核運動、対米非難の高まりの中で、アメリカに取って戦略的に重要であった日本での反核運動は、日本の共産化を危惧するアメリカにとって、ソビエトの反米プロパガンダを回避したいとの戦略があったことは明らか。IAEAとその「原子力の平和利用=原発」は、その軍事的性格の「隠れ蓑」、「いちじくの葉」である。
しかし、IAEAが直面したのは、むしろ、平和利用を装った核兵器開発の疑惑であった。IAEAは大国の核保有を認めたまま、核査察でも課題を抱え続けている。第五福竜丸事件から40年、原発は、今日本の電力の3割をまかなっている[◆註:23]。
[◆註:23]火力と水力と原発の三つが実際に発電している各発電量の合計に対する原発の発電量が占める割合が30%である、という意味。火力と水力と原発の三つがフル稼働した時のそれらの発電可能電力供給能力総量に対する原発の実際の発電量が占める割合となると、10%にも満たないことに留意。
日本は更に、今年[◆註:24]、プルトニウム(Pu)を利用する高速増殖炉の実験に乗り出そうとしている。[◆註:24]この「今年」は、NHKTV番組が制作された1994年のこと。 一方、アメリカでは1979年のスリーマイル島(SMI)原発事故以来、新たな原発の発注は、今も途絶えたままである。資料提供米国立公文書館アイゼンハワーライブラリーコロンビア大学アメリカ大使館ロシア国立中央映像資料センター国立国会図書館第五福竜丸展示館読売新聞社毎日新聞社共同通信社中央公論社読売映画社日本テレビ放送網柴田泰子石井修川上幸一西山千中村秀治炭谷外治郎ヴァーノン・ウェルシュアン・ヨーク-
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