2020年5月14日、アマイダン・サラーから「僕のドキュメンタリーが出来た!」と、メールが入りました。 27分4秒の映像はスペイン語で、「スペイン語では日本人に見てもらえないよ」と返信したら、翌日の5月15日、「英語とアラビア語のスーパーが入ったのを、ユーチューブに立ち上げた」と、返ってきました。 見ました! スペイン語やアラビア語や、英語に強くなくても、サラーの綺麗な走り姿と、モロッコ占領地でぶっ叩かれる西サハラ被占領住民の痛々しい姿は、胸を締め付けます。 演出、シナリオ、制作は、スペインのガルシア兄弟が担当し、西サハラ難民キャンプにあるSADR(西サハラ民主共和国)テレビとかスポーツセンターが援助しています。
2013年には、エジプト系パレスチナ人のサイード・タジ・ファルーキが。「ランナー」と題するサラーのドキュメンタリー映画を作り、2017年にユーチューブで公開しました。 その他、様々なサラーの走る映像を見ながら、<サラーの走る半生>は、まさに、西サハラ難民の<象徴>西サハラ独立運動の<象徴>だと痛感しました。 そして、<象徴>と呼ばれる事を嫌うシャイなサラーに怒こられるかもしれないけれど、サラーと西サハラの人々を併走させて、語っていこうと、思いました。
10回ぐらいの連載にします。 サラーに何か聞きたいことがありましたら、ご連絡ください。 一緒に、<サラー物語>を完成していきましょう
アマイダン・サラー 西サハラアスリートのドキュメンタリー映画タイトル
① 1982年サラー誕生
サラーが生まれた1982年 :
1982年4月13日、サラーはモロッコ占領地・西サハラの首都・ラユーンで生まれた。
西サハラの悲劇は、サラーが生まれる7年前の1975年、11月14日に結ばれた<スペイン・モロッコ・モーリタニアの三国秘密協定>別名<マドリッド秘密協定>に始まった。当時の西サハラ植民地支配国スペインは、国連にも西サハラ住民にも通告せず、勝手に北をモロッコに南をモーリタニアに分譲してしまった。かくして両正規軍の挟み撃ちに会った西サハラ住民は、北のアルジェリアに逃げ込み、以来今日まで44年にわたる難民生活を送る事になる。一方、逃げ遅れた西サハラ住民はモロッコの占領下で虐げられた被占領の生活を強いられることになる。サラーの一家は、「逃げ遅れ組だ」と、サラー自らが語っている。
ユダヤ系イエメン人外交官、フセイン・バハミド・アルハドラミ博士が、2020年5月29日に<ヌールッデイーン>(モーリタニア・ウェブ・ニュース)で、<三国秘密協定>の内容を明かした。フセイン博士は、「国連決議とICJ(国際司法裁判所)が、モロッコの西サハラ領有権を認めていない」と、断言した。 さらにフセイン博士は、「スペインは、①鉱物資源の36%、➁恒久的な漁業権、➂北モロッコにあるセウタとメリジャのスペイン飛び地領土、この3点と引き換えに西サハラを分譲した。この闇取引は、パレスチナの<バルフォア宣言>によく似ている」と、結論づけた。
ちなみに<バルフォア宣言>とは、イギリスのバルフォア外相がそれまでの書簡や協定を無視して、ユダヤ人にパレスチナ国家建設を認めた<1917年11月の宣言>を指す。フセイン博士は、<バルフォア宣言>がパレスチナ悲劇の元凶であったように、<三国秘密協定>が西サハラ悲劇の元凶だとしている。「イスラエルに亡命したモロッコ系ユダヤ人とフランスの後押しで、モロッコの占領が今に至るまで続いているのだ」と、モロッコとイスラエルの長い付き合いを強調した。1979年にモーリタニア軍は撤退し、ポりサリオ戦線と和平を結んでSADR(西サハラ民主共和国)を承認した後は、モロッコ軍が西サハラ侵略を続けている
サラーが生まれた1982年頃のモロッコ占領地・西サハラには、西サハラ住民と多数のモロッコ兵がいて、モロッコ人入植者の数は少なかった。山岳民族のモロッコ兵はアトラス山脈から、占領した首都ラユーンや古都スマラなどのオアシスを中継点にして、西サハラ砂漠のド真ん中に送り込まれた。対戦相手は、サハラ砂漠を知り尽くした<砂漠のゲリラ。ポリサリオ戦線難民軍。モロッコ軍は戦車150台、装甲車652台、兵員輸送車770台総兵力141,000人。年間軍事費1,510,000,000$(約1638憶円)をフランスとアメリカが援助をしていた(参照:1982年ストックホルム国際平和研究所)。対するポりサリオ戦線難民軍は?当てにしていたリビアのカダフィは、リップサービスだけで実質的な軍事援助はしてくれない。難民キャンプの大家であるアルジェリアの武器援助も、米仏に比べれば微々たるものだった。数千人にも満たない難民軍は、ゲリラ戦法でモロッコ軍を急襲してモロッコの武器を略奪し、その盗品で戦っていた。盗品武器は今も難民キャンプにある武器博物館に保管されていて、何時でも使えるように磨かれている。一方、山岳民族のモロッコ兵は砂漠を知らないだけではなく、何のために戦うのかという大義名分がないので、戦闘意欲に欠ける。そこでモロッコは高額で購入した戦闘機を飛ばした。しかし、広大な人影のない砂漠にナパーム弾やクラスター弾を落としても効果はなく、砂漠戦争で消耗していったのはモロッコの方だった。
パレスチナVSイスラエル=西サハラVSモロッコ :
サラーがまれる2年前の1980年8月、モロッコはしぶといポリサリオ戦線の攻撃を食い止めるため、イスラエル軍の技術者と専門家に提案され、彼らの指導の下に<砂の壁>と呼ばれる<地雷防御壁>の建設に取りかかった、
サラーが生まれた1982年の6月には、<砂の壁>第一期工事が完成した。
完成した500キロメートルの第一期<砂の壁>は、占領首都ラユーンと古都スマラ・オアシスとリン鉱石鉱山があるブクラを防衛できると、モロッコは安堵した。<砂の壁><地雷防御壁>は、瓦礫を2~3メートルの高さに積み上げて作った壁だ。壁の東、西サハラ難民政府・ポリサリオ戦線解放区側に約50メートルの巾で、モロッコは地雷を埋めた。西サハラ難民キャンプの武器博物館には、信管を抜いたアメリカ製やフランス製や旧白人南アフリカ製に交じって、イスラエル製の地雷がたくさんあった。
同じ頃、イスラエル軍はレバノン侵攻を開始し、8月21日から30日にかけ首都ベイルートに拠点を置いていたパレスチナ解放機構PLOを追放した。アラファトPLO議長以下、NO2のアブ・ジハード夫妻を含むパレスチナゲリラは、アルジェリアへ550人、イラクへ135人、ヨルダンへ665人スーダンへ500人、シリアへ6,330人、イエメンへ2,000人、チュニジア1,076人と、散っていった。が、9月16日から18日にかけて、庇護者を失ったベイルートにあるサブラとシャティーラの両パレスチナ難民キャンプでは、イスラエル軍はキャンプを閉鎖し、レバノン右派キリスト教民兵が何千人というパレスチナ難民を大虐殺した。しかし、パレスチナ人民の抵抗の熾火は燃え続けた。
1987年12月6日、パレスチナのイスラエル占領地ガザにあるジャバリア難民キャンプでイスラエルのローリー車がパレスチナの乗用車2台をなぎ倒し、4人を殺し4人に重傷を負わせた。それをきっかけに、子供たちも参加するインティファーダ(人民蜂起)が一気に再燃した。チュニジアの首都チュニスにあるPLO本部から、アブ・ジハードは祖国パレスチナのインティファーダを指導する役目を担った。翌年の1988年4月15日午前一時、チュニス近郊のリゾート地に、イスラエルのフロッグマン部隊が上陸した。部隊はアブ・ジハード邸の電話回線を壊し一階の護衛を消音ピストルで射殺する。その間、4人の突撃隊が、二階で祖国パレスチナから送られてきたインテイファーダのビデオを見ていたアブ・ジハードに75発の銃弾を浴びせた。応戦しようと拳銃を掴んだアブ・ジハードの右手はボロボロに千切れていた。
イスラエルは指導者を抹殺したからインティファーダは治まると、高を括っていた。が、
インティファーダの火は治まるどころか、現在に至るまで燃え続けている、、
インティファーダの子供たち :
「大人は太り過ぎて走れない。僕らは軽くて敏捷だし、逃げ足が速い」と、パレスチナの子供3人は、インティファーダのニュースを見ながら自慢した。サーミフ(男の子13才)とサハル(女の子9才)ラナー(女の子14才)の3人の子供たちは、<パレスチナ子供絵画展>のために来日し、筆者は一か月間彼らと教会の空き家で合宿をした。確かに、機敏で乱暴なくらい活発で、、ただ一つ、水洗便所を知らない難民の少年が使用済みのトイレットペーパーをトイレの隅に置く癖が抜けなくて、おうじょうした臭い思い出がある。。
「その頃の子供たちは、二つの理由で走った。一つはポリスから逃げるため、もう一つは、ポリスに石を投げる先陣争いのためだった」と、サラーはモロッコ占領地・西サハラでの子供時代を語る。
「俺は、ガキの頃からメチャ速かった。一回だけ、追いつかれて取っ捕まったことがある。子供だからって、モロッコのポリスは容赦してくれなかった」と、サラーの弟アバチクが、カメラに向かって喋った。「俺は、馬鹿にされたり虐めにあったりしたら、黙っていられない。人がやられているのも嫌だ。敵がポリスだろうが囚人仲間だろうが、許せないことは許せない」と、腕をまくって生々しい拷問の後をカメラに見せた。「誰にやられたんだ?」と、インタビュアーが聞いた。「今、出獄したばかりだ。監獄の中で騒動があったんだ。ム所の仲間にやられた。喧嘩のやり方を覚えたのも檻のなかだ」ケロっと答えた。
惚れ惚れする、子気味の良い若者だ。(ドキュメンタリー<ランナー>より)
今のように、ソーシャルネットワークなど発達していない。北アフリカの子供たちが中東の子供たちに連帯して占領軍に石を投げたわけではない。 夫々が夫々の占領者に向かって、自発的に石を投げたのだ。
インティ―ファーダの年、1987年4月に第6期工事が終わり、<砂の壁>地雷防御壁が完成した。北から南へ西サハラを縦断する2,700キロメートル600万個の地雷防御壁は、
完全に西サハラの人々を分断してしまった。モロッコはもうポリサリオ難民軍に悩まされることはないと、安心した。
そして地雷の檻の中で、モロッコ占領当局は西サハラ住民に対して、残虐行為を繰り返す。しかも、パレスチナと違ってモロッコ占領地・西サハラには西サハラ住民を守る国際監視団がいない。モロッコはやりたい放題に暴れまくっている、、
「占領されることを厭う虐げられた人々は、抵抗する。当たり前のことだ」と、蔑まれる事をよしとしないサラーは、さりげなく喋ります。 血気盛んな弟は、西サハラの方言であるハッサニーヤでまくし立てます。 次回は、この対照的な魅力あふれた二人の兄弟に、
モロッコ占領地・西サハラの現実を語ってもらいます。
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*難民アスリート・サラーの最新ドキュメンタリーがYoutubeにアップしました。
https://youtu.be/jz7lFr2c_Jk スペイン語ですが、西サハラ難民キャンプが見られます。
*占領地からの脱出―「アリ 西サハラの難民と被占領民の物語」只今発売中です。
著者:平田伊都子、写真:川名生十、画像提供:李憲彦、川上リュウ、SPS、
造本:A5判横組みソフトカバー、4頁のカラー口絵、本文144頁
発行人:松田健二、
発行所:株式会社 社会評論社、東京都文京区本郷2―3―10、TEL:03-3814-3861
2020年2月3日 初版第一刷発行 定価 税抜き2,000円
*1月22日、「ニューズ・オプエド」で#1323<アフリカ最後の植民地>を放映しました。
YouTube オプエド平田伊都子 URL https://www.youtube.com/watch?v=citQy4EpU-I
Youtube2018年7月アップの「人民投票」(Referendum)をご案内。
「人民投票」日本語版 URL :https://youtu.be/Skx5CP3lMLc
「Referendum」英語版 URL: https://youtu.be/v0awSc25BUU
Youtubeに2018年4月アップした「ラストコロニー西サハラ」もよろしくお願いします。
「ラストコロニー西サハラ 日本語版URL:https://youtu.be/yeZvmTh0kGo
「Last Colony in Africa] 英語版URL: https://youtu.be/au5p6mxvheo
WSJPO 西サハラ政府・日本代表事務所 所長:川名敏之 2020年6月3日
SJJA(サハラ・ジャパン・ジャーナリスト・アソシエーション)代表:平田伊都子
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔opinion9811:200603〕