「1999年の10月、僕はモロッコ占領治安部隊に逮捕された。そして、18日間、拷問と
尋問の毎日が続いた」と、サラーは痛々しい思い出を語ります。 サラーは、怪我を癒や
すためモロッコ占領地・西サハラの実家に帰っていました。 その時、職を求めるデモに
出くわし、治安部隊が撮っていたビデオに写っていたため、逮捕されてしまいました。
④サラー、18日間の拷問地獄
サラー17才モロッコ占領警察に捕まる(1999年) :
1999年は、モロッコにとってもアフリカ大陸にとっても、そしてサラーにとっても、大変な世紀末だった。
7月23日ラバトで、ハッサン二世(1929年7月29日ラバト生まれ)が亡くなり、同日、長男のサイディ・ムハンマド皇太子が国王に即位した。逝去直後に行われた世界陸上選手権大会1500で、スタートから独走を続けたモロッコのスーパースター・ヒシャムは、故ハッサン二世に敬礼を送りながらテープを切った。
即位してから1991年に<国連西サハラ人民投票>和平案を受け入れるまでのハッサン二世は、反体制派の粛清を始めとして強固な独裁政治を布いた。国連人民投票を受諾した1991年には数百人の政治犯を釈放したり、モロッコ帰属か西サハラ独立かを決める二者択一の人民投票に向けて西サハラにモロッコ人入植者を大量に送り込んだりした。が、1998年から始まった西サハラ人民認定作業では、新モロッコ人入植者や新モロッコ占領兵士たちが認定されないと判断し、ハッサン二世は1998年12月にジェームズ・べ^カー国連事務総長個人特使とジョン・ボルトンが計画した、<国連西サハラ人民投票>を拒否した。
9月9日、リビアのシルトに集まった41人のアフリカ首脳は、カダフィー・リビア指導者の提案を呑んで、OAU(アフリカ統一機構)をAU(アフリカ連合)に再編すると決めた。2002年7月、AU(アフリカ連合)はエチオピアのアジスアベバに本部を置き正式に発足した。現在、西サハラも含め、アフリカ全土55か国が参加している。
1999年の秋口、足を痛めたサラーは休暇をとって、モロッコ占領地・西サハラの実家で養生をしていた。10月のある早朝、表戸を乱暴に叩く音でサラーの家族は目を覚ました。
「開けろ~!」「出てこ~い!」と、叫ぶ声がこだまのようにサラー家の周りでも起こった。
サラーの母が閂を外すやいなや、ヘルメットを被りこん棒を持った数人のモロッコ治安部隊が乱入してきた。そして、トレーニング姿のサラーを引きずっていこうとした。サラーの母はその兵の手を掴んだ。横にいた一人の兵がこん棒で母の手を叩き、もう一人が母を蹴とばした。「母さん、大丈夫だよ!なんかの間違いだ。すぐ戻ってくるから、、」と、サラーはうずくまる母に声をかけ、治安部隊に引きずられ護送車に投げ込まれた。
モロッコ占領地・西サハラでは日常茶飯の逮捕劇だった。
サラー18日間、モロッコ占領警察で拷問地獄 :
「毎朝目が覚めると、取調室という拷問部屋に連れていかれる。取り調べる前に、モロッコの拷問官は体のいたるところを殴った。こうして抵抗する気力を失くしておいて、モロッコ訛りのアラビア語で尋問をした」と、サラーはモロッコ占領警察での痛々しい拷問を語る。モロッコの拷問官は殴るのに疲れると、血だらけのサラーを、同じデモで逮捕した西サハラ人を収容する部屋に、ゴミのように投げ込んだ。狭くて窓もなく汗と血の匂いが沁み込んだ狭い部屋で、会話を禁じられている仲間の西サハラ人たちは、ぼこぼこになった顔に笑みを浮かべ腫れあがった目で、「ご苦労さん」とサラーを労った。
「最初に、僕の拷問官はデモのビデオを見せた。彼らは僕がモロッコ・ナショナル・ランニング・チームの赤い運動着を着ていたので、目を付けてデモから6日後に逮捕したそうだ。そして、何故、この服を着ているのかと、しつこく尋ねた。僕が、モロッコ・ナショナル・チームの一員だと説明しても、彼らは信用しなかった」と、サラーは、思い出したくない記憶を辿る。拷問官は、サラーがナショナル・チームの運動着を盗んだのだと思い、盗みの自白を迫った。「拷問官たちは、僕を18日間、殴り続け自白を強要した。僕がポリサリオ戦線の一員であることを白状し、ポリサリオ戦線の知人を挙げろと迫った。僕は拷問官たちに、怪我を癒すためラユーンの実家に帰っていたら、デモに出くわしたのだと、繰り返した。やっと、僕の供述が警察の上層部に届き、モロッコ・ランニング・チームのディイレクターがモロッコ占領警察に僕の釈放を求めてきた。そして、モロッコ人たちは僕に、ラユーンに残って裁判を受け監獄に入るか、ラバトに戻って新国王のために走るかを選択しろと、迫った。さらに、ラバトに戻れば今回のデモ参加はチャラにしてやるが、今後一切ラユーンに帰郷することは禁じると、モロッコ人たちは釘を刺した。僕も家族も、ラバト以外の選択肢はないと分かっていた」と、サラーは苦渋の決意を語る。
第27回シドニーオリンピック:
サラーがモロッコ占領警察で拷問された一年後の2000年9月15日から10月1日まで、オーストラリアのシドニーで第27回オリンピックが開催された。
21世紀に入って最初のオリンピックは、話題が一杯の開会式を繰り広げた。第1回南北首脳会談が実施された直後の韓国と北朝鮮は、統一旗を掲げて合同入場行進を行った。インドネシアから解放されたばかりの東ティモールの選手たちは、オリンピックの旗を掲げて最後(開催国の前)に入場し、喝采を浴びた。東テイモールは西サハラと同様に<国連人民投票>で将来を決めることになっていた、そして、その人民投票が1999年8月30日に実施され、東ティモール人民は自ら独立を選んでいたのだ。さて、日本選手団は、、<虹色のマント>を翻して意気揚々と登場した。 虹色は、同性愛者をはじめとする<LGBT(性的少数者)の象徴>だ。「日本人選手は全員がLGBT当事者ではないか?」と、地元メデイアは書き立て、世界の同性愛者は大喜びした。
この大会で虹色コートの日本選手団は、たくさんのメダルを獲得した。
柔道では田村亮子が悲願の金メダルを獲得し、2大会連続金メダルの野村忠宏をはじめ、井上康生や瀧本誠らが金メダルを獲得し、篠原信一や楢崎京子が銀メダルを、日下部碁栄や山下まゆみが銅メダルを獲得した。レスリングでは永田克彦が銅メダルを獲得した。マラソンでは、高橋尚子が日本の女子陸上競技として初の金メダルを獲得(オリンピック新記録)した。女子マラソン中継の平均視聴率が40%を超えるなど日本中が盛り上がり、高橋選手に国民栄誉賞が授与された。 競泳では中村真衣(女子100m背泳ぎ)と田島寧子(女子400m個人メドレー)が銀メダルを、中尾美樹(女子200m背泳ぎ)と中村真衣・田中雅美・大西順子・源純夏(女子400mメドレーリレー)が銅メダルを獲得した。
シンクロナイズドスイミングでは、立花美哉・武田美保(シンクロナイズドスイミングデュエット)と立花美哉・武田美保・藤井来夏・神保れい・米田祐子・磯田陽子・江上綾乃・米田容子・巽樹理(シンクロナイズドスイミングチーム)が銀メダルを獲得した。そして、ソフトボール女子で、石川多映子・田本博子・斎藤春香・増淵まり子・藤井由宮子・山田美葉・伊藤良恵・松本直美・宇津木麗華・小林良美・小関しおり・高山樹里・内藤恵美・安藤美佐子・山路典子のチームが銀メダルを獲得した。
一方、モロッコ陸上選手団は、ヒシャム・エルゲルージが1500メートルで銀メダルを、ブラヒム・ラフラフィが5000メートルで銅メダルを、アリ・エッジンが 3000メートル障害で銅 メダルを、ナズハ・ビドウアンが 女子400ハードルで銅メダルと、金メダルこそ取れなかったが、そこそこ活躍した。
「シドニ―オリンピックの頃には、モロッコ陸上界には偉大なランナーがひしめいていて、年少の僕は選ばれなかった」と、サラーは語る。が、シドニーオリンピックの前年に起きた逮捕の前歴が、選考を阻んだであろうことは容易に想像できる。
サラーは、シドニー・オリンピックに参加できなかった。が、同じ2000年にモロッコ・ケ二トラ・クロスカントリー・ジュニア(19才以下)3000メートルに、そして、モロッコ・メクネス・ジュニア(19以下)3000メートル障害に、夫々優勝している。
1999年に東ティモールで占領国インドネシア(当時)が受入れ施行した<国連人民投票>を、どうしてモロッコは一旦受け入れた<国連西サハラ人民投票>の施行を阻むのでしょうね? それは、投票をすれば、人民は東ティモールのように独立を選ぶと危惧したからです。 殊に、1990年代半ばになって、西サハラ砂漠に石油。天延ガスなどの鉱物資源が確認されると、モロッコ国王は手段を問わず西サハラを確保することにしたようです。
今話題のジョン・ボルトン前大統領補佐官(国家安全保障問題担当)は当時の国連特使ジェームス・ベーカーを助けて、1998年に西サハラ人民選挙人認定作業を、2001年に第1次ベイカー計画を、2003年に第2次ベイカー計画を提案します。しかし、国連安保理も推薦した第2次ベイカー計画ですら、モロッコは拒否します。 そして、世界はイラク戦争に呑み込まれていき、ベーカーは2004年6月に国連特使を退きました。 しかし、ボルトンとべーカーの計画案はMINURSOミヌルソ(国連西サハラ人民投票監視団)の金庫の中に、今も、保管されています。
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*難民アスリート・サラーの最新ドキュメンタリーがYoutubeにアップしました。
https://youtu.be/jz7lFr2c_Jk スペイン語ですが、西サハラ難民キャンプが見られます。
*占領地からの脱出―「アリ 西サハラの難民と被占領民の物語」只今発売中です。
著者:平田伊都子、写真:川名生十、画像提供:李憲彦、川上リュウ、SPS、
造本:A5判横組みソフトカバー、4頁のカラー口絵、本文144頁
発行人:松田健二、
発行所:株式会社 社会評論社、東京都文京区本郷2―3―10、TEL:03-3814-3861
2020年2月3日 初版第一刷発行 定価 税抜き2,000円
*1月22日、「ニューズ・オプエド」で#1323<アフリカ最後の植民地>を放映しました。
YouTube オプエド平田伊都子 URL https://www.youtube.com/watch?v=citQy4EpU-I
Youtube2018年7月アップの「人民投票」(Referendum)をご案内。
「人民投票」日本語版 URL :https://youtu.be/Skx5CP3lMLc
「Referendum」英語版 URL: https://youtu.be/v0awSc25BUU
Youtubeに2018年4月アップした「ラストコロニー西サハラ」もよろしくお願いします。
「ラストコロニー西サハラ 日本語版URL:https://youtu.be/yeZvmTh0kGo
「Last Colony in Africa] 英語版URL: https://youtu.be/au5p6mxvheo
WSJPO 西サハラ政府・日本代表事務所 所長:川名敏之 2020年6月12日
SJJA(サハラ・ジャパン・ジャーナリスト・アソシエーション)代表:平田伊都子
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔opinion9860:200619〕