成田を出たのが8月13日22時。 格安エメレーツ航空機のエコノミークラスは、お盆休みと重なり息苦しく満席でした。 飛行時間10時間40分で、乗り継ぎのハブ空港ドバイに着陸し5時間待たされ、さらに7時間機内席に張り付けられ玉巻アルジェリアの首都アルジェに到着しました。 延べ約23時間もの無益で辛い飛行機の旅でした。 そして同日8月14日22時30分、西サハラ難民キャンプのあるティンドゥーフに向け飛び立ち、翌15日午前2時、現地空港に到着し、空港から50キロメートル離れた難民キャンプに、やっと午前4時に着きました。 それなのにその日の23時には、難民キャンプにさよならをしたのです。 帰りの便も乗り継ぎが悪くドバイでは23時間待たされ、成田に着いたのが8月18日17時15分でした。 6日もかけて難民キャンプの滞在は僅か19時間、仮眠と休憩を差し引くと、僅か10時間の取材、、
「そんな短時間で何が分かるんだ?」と、野次が飛んできました。 ごもっともさん、
(1) たった19時間の難民キャンプ滞在:
日が昇り窓を開けると、40度の熱気が襲ってきた。外国人宿泊所には、いつもは4,50人ぐらいの外国人援助団体や取材班が寝泊りしているのだが、酷暑の8月は人影もなく、日本人二人だけだった。8時半、儀典長シェイクさんが自らスケジュールをたててくれ、まずナンバー2のバシール国務大臣インタヴューから始まった。西サハラ独立運動の創設者・故エルワリの実弟で、外交闘士のバシールは話しが止まらない。
カットして、大統領官邸の裏口に向かった。便所につながる廊下の隅で、いたいた!ブラヒム。ガリ大統領が書き物をしていた。そこが一番涼しいそうだ。なんたって、みんな知り合いだから、メチャ喜しいしメチャ楽しい。大統領インタヴューを撮影するTVデイレクター・ラーバイドも友人でお互いに手を振りながら撮りつ撮られつ、、しかし、大統領の日本に対する言葉は厳しかった。「日本とモロッコは皇室王室で結ばれているのは知っていたが、日本の民主主義や人権主義はモロッコに劣っている。偏狭で非近代的な国際意識にはガッカリさせられた。と、日本が西サハラを国家承認していないという事を盾に、相変わらずTICAD (アフリカ国際開発会議)への参加を拒んでいることを非難した。そして、「日本はもっとモロッコの現状とモロッコ国民の貧しさを知るべきだ。モロッコ北部・リーフ地方の民主化運動を知ってるか?」大統領がアルジェリア大使だったころ、ビザや撮影許可書や空港手続きなどで色々とお世話になった。
西サハラ難民キャンプ唯一の病院や、武器博物館を回り、<西サハラ政治囚支援組織>
を訪ねた。モロッコ占領地・西サハラでは平和デモも禁止、言論表現の自由などない。7月 日にはモロッコ裁判所が出も参加者 人に終身刑、 人に 年から 年の刑を宣告した。西サハラ政治囚651人が行方不明のままだ。<西サハラ政治囚支援組織>は釈放を求める運動や残された家族の援助を行っている。
午後の太陽は容赦なく46度、47度、48度、、と、何もかも焼き尽くしていく。難民は泥小屋で眠って日没後の涼風を待つしかない。 難民の苦難史に耳を傾け、キャンプを後にした。
(2)国連WFP(世界食糧計画)アルジェリア支部訪問:
難民キャンプのあるアルジェリア北西部ティンドゥーフ基地から首都アルジェに戻り、ドバイへのフライトを待つ間を利用して、アルジェにある国連WFP(世界食糧計画)の事務所を訪れた。古い洋館の飾り気のない部屋で、カナダ人のロマイン国連WFPアルジェリア支部長は、自分でアラビア・コーヒーを立ててくれた。「8月9日に米国から、大口献金があったそうだが?」と、水を向けたら、「アメリカは援助し続けてくれている。 でも、日本の名前がない」と、日本の献金を促した。「援助食料品をWFP とアルジェリア赤新月社と西サハラ赤新月社が猫ババしているとの噂だが?」と聞くと、「とんでもない。我々は援助食料品をしっかり記録し、管理している。オラン港に荷揚げされた食料品はアルジェリア赤新月社が一時預かりし、陸送でテインドゥフの難民キャンプに届けられる。分配は西サハラ難民自身の手で行われる」と、食料配給システムは非常に透明であることを強調した。搬送ルートは、アルジェ港より難民キャンプにいささか近いオラン港に荷揚げされる。我々SJJAが兵庫大震災援助薬品の一部を運んだ時も、オ蘭工だった。国連WFPの援助は食料だけに限られており、その時の予算と市場価格で品目が限定されるそうだ。「柿沢未途衆議院議員が難民キャンプを訪れた時、日本には米が余っていることをヤヒヤ西サハラ赤新月社総裁に話していた」と、言ったら、「ぜひ、日本の米を送って欲しい。ヤヒヤ総裁は体調を崩してオラン病院に入院中だ」と、声を潜めた。
アルジェには、UNHCR(国連難民高等弁務官)やUNICEF(国連子供基金)などの国連機関がある。かっては一か所にあったのだが、爆破事件以降、散在しているそうだ。
国連WFP で、日本米の援助で盛り上がっていた時、隣室の助手が、「元ドイツ連邦大統領が正式に国連事務長西サハラ個人特使に正式任命された」との朗報を運んできた。薄暗い部屋がパッと華やいだ。ホルスト元ドイツ大統領が国連事務長西サハラ個人特使に指名されたのは4月21日。約4か月間もモロッコの妨害で延び延びになっていたのだ。
(3)ドバイを震撼させたマドリッド・モロッコ人テロ:
8月17日夕刻、ドバイの核安トランジットホテルで日本へのフライトを待っていた時、
スペインのバルセロナやカンプリスでのミニバン・テロ・ニュースが飛び込んできた。13人(後に14人)が轢き殺され、120人以上が負傷したという。咄嗟にモロッコ人移民二世がやらかした、2015年のパリ・テロと2016年のブリュッセル・テロを連想した。彼らはモロッコ北部・リーフ地方の出身で、敬虔なイスラム教徒とは程遠い、遊び好きな麻薬も酒もやる西洋かぶれの若者だった。
バルセロナやカンプリスのテロ事件に関してカタルーニャ自治州の警察やメデイアが、
「犯行グループは、バルセロナから北に100キロ離れたリポイに住むモロッコの若者12人で、地元の40才前後のイスラム教指導者から過激な思想を吹き込まれた」と、推測している。が、モロッコ北部の山岳地方に住む親兄弟の話によると、若者たちは酒や煙草を楽しみ女の子を追いかけバイクを乗りまわす,ごく普通のモロッコ・あんちゃんだそうだ。欧州の治安当局は、テロの原因はイスラム過激思想だとか、モロッコがイスラム過激派の新たな「戦闘員供給国」とか、話を造り上げ辻褄を合わせ、早期決着をつけようとしているように見える。
しかし、優秀でイケメンで身体能力のあるモロッコの若者をテロに走らせるのは、
貧困と差別と失業、そしてその結果が生み出す移民風習なのでは?モロッコ国王ご一族だけがキンキラキンの豪華生活に浸っているのに、彼らが生まれたモロッコ北部の山岳地帯では、フランス植民地時代からの差別と貧困と失業が続いている。1921年に勃発した<リーフ共和国宣言>、別名<リーフの反乱精神>が<職よこせデモ>と形を変えて2017年に再登場した。リーフ山地に愛着を持つ若者はデモに参加し、愛着を持たない若者は新天地を求めてヨーロッパに流れていく。国王陛下が本気で貧困と差別と失業をなくさない限り、モロッコの若者はいますます荒れていくのでは
短時間滞在でも砂漠の熱さを十二分に感じとれる?? いや~ 嘘でしょ、、やっぱり10時間取材には10時間の限界があります。 ただし今回は朝日新聞が取材者で、当方は案内人にすぎず、滞在期間を延ばすことができませんでした。
西サハラ難民キャンプに入ってみたい方、喜んでお手伝いします。 但し、時期と日程をくれぐれもご配慮ください。
モロッコ占領地・西サハラから、危険を顧みず夏期大学に参加した西サハラ住民、アルジェリア・ブーメルデスにて
西サハラ独立運動創始者故エルワリの実弟でNO2のバシール・ムスタファ―国務大臣
WSJPO 西サハラ政府・日本代表事務所 所長:川名敏之 2017年8月21日
SJJA(サハラ・ジャパン・ジャーナリスト・アソシエーション)代表:平田伊都子
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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