SJJA&WSJPO【西サハラ最新情報】233 パレスチナ、カタルーニャ、ニューカレドニア

 11月2日は何の日?  ズバリ!100年前の1917年11月2日、当時のイギリス外相バルフォアがイギリスのユダヤ系貴族院議員第2代ロスチャイルド男爵ライオネル・ウォルター・ロスチャイルドに対して送った書簡の中で、「イギリス政府は、パレスチナでユダヤ人が国民的郷土を建設することに共感し支援する」と、宣言したのです。 しかし、この<バルフォア宣言>は、1915年10月にイギリスの駐エジプト高等弁官マクマホンがメッカ太守フサインにアラブ人の独立国を約束した<マクマホン宣言>に矛盾しています。 つまり、イギリスはユダヤ人とアラブ人に相反する外交約束をした訳で、この二枚舌外交に、1916年5月の英仏露が結んだ<サイクス・ピコ秘密協定>を加えたイギリスの3枚舌外交は、100年後に至るまで故郷を追われたパレスチナの人々を苦しめています。パレスチナ民族独立運動は未解決のままです。 そして2017年11月2日、新たな独立運動が胎動し始めました。

アーサー・バルフォア伯爵

(1) ニューカレドニア住民投票:
 11月2日、フランス植民地ニューカレドニアで自主的な住民投票を来年行うことを、ニューカレドニアの指導者とフランス政府との間で合意した。この日パリで行われた9時間以上に及ぶ協議で、ニューカレドニア代表団は、「2018年11月末までに住民投票を施行」という文言を、フランス政府から勝ち取った。ニューカレドニアはオーストラリアの東にあり、人口が275,000人の自然が美しい観光島だ。1980年代からカナック族とフランス軍の衝突が続き、1998年にヌムビア協定でフランスの植民地と指定された。その時に2018年までの住民投票が約束された。独立闘争を指導してきたカナック族は全人口の45%を占め、もし住民投票でニューカレドニアの独立が決まれば、1977年のジブチや1980年のバヌアツに続いて、フランス領土脱植民地化NO3になる。フランス首相エドゥアール・フィリップは11月末にニューカレドニアを訪れ、国連監視団と共に選挙場所や選挙体制を決める。
 国連ニューカレドニア住民投票も国連西サハラ住民投票と同じだ。ニューカレドニア住民投票を受け入れたフランスが、西サハラ住民投票をモロッコに加担して妨害するのは、筋が通らない。

(2) カタルーニャ住民投票後の行方:
 11月2日、カタルーニャ独立宣言をしたカタルーニャ州政府閣僚9人は、「あなたたちを一人ぽっちにはさせない!」と叫ぶ住民の声に送られてスペインの首都マドリッドに向かった。一行の出頭を待ち受けていたスペイン中央政府管轄下の高等裁判所はすぐさま、一人を除いて拘置所に収監した。檻に入れられた8人の中には、カタルーニャ副首相オリオル・フンケラス、外務長官・パウル・ロメヴァなどが含まれている。ベルギーの首都ブリュッセルへ脱走したカタルーニャ首相プチデモンと同行した4人の閣僚に対して、高等裁判所の検事は<EUヨーロッパ連合手配>の判決を下し、ベルギー政府に5人の引き渡しを求めた。あまりに強権的で非民主的で有無を言わさぬスペイン中央政府のやり方に、ブリュッセルのプチデモンとカタルーニャ住民は反発し、8人の即時釈放と5人の逮捕命令却下を求める抗議活動をカタルーニャのみならず、国際社会に呼びかけた。カタルーニャ独立宣言は10月1日の住民投票による民主的な結果だと、プチデモン首相は主張する。閣僚の一人は、「1931年に発足したカタルーニャ自治政府は、1939年、独裁者フランコの手で完全に潰された。カタルーニャ独立は、カタルーニャ住民の執念と悲願だ」と、強調した。

(3)モロッコ王国の示威マーチ:
 1975年11月2日、カタルーニャ自治政府とカタルーニャ憲章を潰し自治政府の首相たちを銃殺したスペインの長期独裁者フランコ将軍は、臨終の床についていた。スペイン内部は王制派、軍部、民主主義者、社会主義者そして地方自治政府がいりみだり、一発触発、内戦の危機にあった。当時のスペイン植民地・西サハラには石油などの地下資源が確認されておらず、さらに西サハラ・ゲリラにスペイン軍は悩まされていた。スペインは、この旨味のない西サハラ植民地を手放そうと考えていたのだ。人の不幸を好機と見たモロッコ先代国王ハッサンⅡ世は、当時のスペイン植民地・西サハラの強奪を狙う。先ずICJ国際司法裁判所に「西サハラはモロッコ領土だ」と申し出たが否決された。そこでモロッコ国王は実力行使に打って出る。11月6日、「西サハラはモロッコ王のもの」と、10万の雇われデモ隊に叫ばせながら、赤いモロッコ国旗を振らせてスペイン国境をほんの1,2キロ、越えさせた。これが、モロッコ王国が自負する30万人の官製デモ<緑の行進>だ。機を見ることに長けているのは、白人のほうがアラブ人より上で、スペインは西サハラの北をモロッコに南をモーリアニアに分譲し、自身はリン鉱石の鉱山権35%と沖合漁業権を手にし、西サハラ植民地から勝手に撤退する。1975年11月14日に3か国が結んだ<マドリード合意>は、西サハラ住民にも国連にも国際社会にも内緒だったので、<三国秘密協定>と仇名され、国際法上、認められていない。フランコ将軍は11月20日死去し、カタルーニャ自治州が発足したが、独自の言葉と文化を持つカタルーニャ人は不満で、2010年代から独立運動が再燃した、、
 カタルーニャ独立運動のほうは自主的な住民投票による地域の独立で、西サハラ独立運動のほうは国連住民投票による植民地からの独立で、形態は異なる。しかし、民族独立という高邁な精神に礎を置くことでは、全く変わりない。

 2017年11月2日、諸悪の根源<バルフォア宣言100周年>記念パーテイーを、ユダヤ人のイスラエル首相ネタニヤフと英国首相メイが、ロンドンで一緒に祝いました。 ユダヤ人のネタニヤフ首相は、「私は、まだまだ、バルフォア宣言に対する英国の行動は不十分だと、思っている」と、嘯きました。 このユダヤ人イスラエル首相は、これ以上どんな譲歩をパレスチナ人に強ようとしているのでしょうか??

WSJPO 西サハラ政府・日本代表事務所 所長:川名敏之     2017年11月6日
SJJA(サハラ・ジャパン・ジャーナリスト・アソシエーション)代表:平田伊都子

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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