「外国人はよう喋るわ、男も女もアラブ人もアフリカ人もヨーロッパ人もアメリカ人も喋るは喋るは、、時場所構わず喋りまくります。今回の取材を通して、特に女性軍の喋くりには圧倒されました。
(1)2015年12月15日夜中の3時:
「何が人民大会よ、それより何とかしてよこの生活!大洪水で泥小屋は崩れっぱなしで、UNICEFのテントは小さくてボロボロでこれじゃ冬は越せないよ!!外からきたあんたたちだって、こんなに寒いと思わなかっただろう?」と、若い女が枕もとで叫んでいる。2日に渡る強行軍の後、アルジェリア空軍基地から一番近い難民キャンプにやっと当てがってもらったテントで仮眠を取ろうとしていた矢先だった。
若い女性二人の奇襲を受けたのだ。殆ど客人などない砂漠の難民キャンプ、お相手しなければと思ったり、、これはカメラを回さねば、、と焦ったりしているうちに、泥睡に飲み込まれてしまっていた。この難民キャンプは軍基地から50キロと一番近く、電気も水アルジェリア軍基地から貰っている。広大なサハラ砂漠に、5万~6万の西サハラ難民が50キロから100キロ離された5つの点在している。
(2)甘茶で始まる砂漠の夜明け:
朝8時、夜が白み始めたころ、甘茶を煮る香で目が覚めた。甘茶を入れる習慣は、砂漠の民に共通のものだ。トアレグ族、西サハラ族、という遊牧民族は勿論、ムサブ族というオアシス定住民たちも、まずは甘茶を立てて一日が始まる。「朝11時には170キロ南下したダハラに必着という命令だ」と、運転手が急かしに来た。筆者は3杯目の甘茶をぐい吞みすると運転手のため三角チーズのサンドウィッチを作って、ダハラ行きコンボイ車列集合所に急いだ。筆者とチリ・アゼンダ元大統領支持者とウルグアイ共産党党首と得体のしれないアルジェリア商人は一つのランドクルーザーにまとめられ、以降、寝食を共にすることになった。3人とも理論好きで、腹を突き出して論戦を挑むのは昔ながらの中南米革命家を彷彿とさせてくれたが、なんで3人が3人とも大いびきをかくんだよ!
招待客、全員が砂まみれでダハラ難民キャンプに送り込まれたわけではない。主催者側発表によるアルジェリアやモーリタニアの主賓ご一行は、ダハラ近郊にあるアルジェリア空軍基地へ背広姿で到着していた。
(3)トアレグ族難民が紹介してくれた西サハラ難民:
1992年、サハラ砂漠の遊牧民トアレグ民族を取材しようと調べていた時、「同
じ遊牧民の西サハラ民族が祖国を追われて難民生活をしているよ」とトアレグ族自身がお教えてくれた。そしてその難民が<国連西サハラ住民投票>をするため、アルジェリアにある難民キャンプから500キロメートル離れた祖国のオアシスまで大移動をする予定だという。え~こりゃ凄い!筆者のイメージは勝手に膨れ上がっていった。以来、毎年のように国連西サハラ住民投票大移動を夢に描いて 西サハラ難民キャンプに出かけた。
そのうち国連も国際社会も筆者も、アメリカのイラク戦争に振り回され、西サハラ難民のことなど、忘れてしまった。
1990年代後半になると、ムサブ族出身のテロリストが登場してくる。このころアルジェリアにはアフガニスタン義勇兵が帰還していて、イスラム過激派組織が彼らのリクルートを激化させ、以降10年、アルジェリアに内戦の血が流れていく。
2010年、西サハラ難民キャンプで3人のNGO職員を身代金目当てで誘拐し、2014年にイナメナス・プラントで10人という日本人犠牲者を血祭りにあげた、あの憎いテロリスト<片目の麻薬男爵・ムフタール・ベル・ムフタール>は、ガラダイヤというオアシスに定住するムサブ族で、トアレグ族や西サハラ族のような、砂漠の遊牧民ではない。
次に、トアレグ族の名がフランスのマスコミに出てきたのは、2010年、「フランス国防相はやっと仏核実験を認め、現地遊牧民とトアレグ族の仏核実験被害者補償に13億3千万円の予算を計上すると約束した」という記事でした。 トアレグ族が一万年以上も遊牧生活送ってきたレッガヌ地方で、フランスは1960年から4回にわたって大気圏核実験を行いました。 環境は破壊され放射能汚染されても、
汚染され、トアレグ族の被爆は認定されず、トア
レグ族の被爆者は、ず~とフランス政府と闘ってきました。
「フランスは我々トアレグ族に毒を盛り、アッラーの神がお恵みくださったサハラ砂漠を冒涜した」と、アリ・トアレグ族族長は唾を吐いた。
アルジェリアの南端インゲzッザムで会った、トアレグ族族長アリ
WSJPO 西サハラ政府・日本代表事務所 所長:川名敏之 2016年1月4日SJJA(サハラ・ジャパン・ジャーナリスト・アソシエーション)代表:平田伊都子
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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