Terrorists or “Freedom Fighters”? Recruited by the CIA CIAが育てたテロリスト、あるいは「自由戦士」?

これはカナダ・ウィニペグ大学の地理学教授(退職)ジョン・ライアン博士が、今月7日に投稿した、今日のダーイシュ(ISIS、 イスラム国)にいたるテロリストの来歴と変転を跡づけたものです。拙訳ですが、紹介させていただきます。(2015年2月26日記)

 

なお、原文に小見出しはないが長文のため《 》で挿入した。アル=カーイダ、ビン・ラーディン、などの長音は読み易さを考慮して省略し、またUSA(アメ リカ合州国)やUSSR(ソビエト社会主義共和国連邦)は適宜の表記とした。

 

Terrorists or Freedom Fighters? Recruited by the CIA

CIAが育てたテロリスト、あるいは「自由戦士」?

 

ジョン・ライアン教授(松元保昭訳)

2015年2月7日

グローバル・リサーチ誌

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http://www.globalresearch.ca/terrorists-or-freedom-fighters-recruited-by-the-cia/5429766

 

私たちが最近フランスで目撃した野蛮な現象は、アフガニスタンにムジャヒディーンが姿を現した少なくとも1979年にさかのぼる ルーツをもっている。当時の彼らの怒りは、19784月に権力をにぎって登場した左翼のタラキ政権に向けられていた。この政府の政権樹立 は、米国およびソ連の双方に等しく驚かれたもので突然でまったく現地固有の出来事であった。

 

《歴史を振り返ると―アフガニスタン》

1978年4月、 アフガニスタン軍はその抑圧的な政策のためその国の政府を引きずり降ろし、左翼のヌール・ムハンマド・タラキ率いる新政権をつくった。タラキは、作家、詩人でありカブール大学のジャーナリズムの教授であった。このあと短い期間、アフガニスタンは広範な大衆の支持によって進歩的な世俗(非宗教的)政府をもった。私が以前の本で指摘したように、この政府は…女性にも平等な権利を与えて進歩的な改革を実行した。 それはこの国を20世紀に引きずり込むプロセスであった。英国の政治学者フレッ ド・ハリディが1979年5月に述べたように(原注1)、おそらく国家が成立して以来この2世紀における以上に昨年からの地方ではさらに大きな変化をみせた。」

【原注1:Fred Halliday, “Revolution in Afghanistan,” New Left Review, No. 112, pp. 3-44, 1978. 】

 

タラキ政権の最初の行動方針は、外交問題で非同盟中立を宣言すること、および世俗的(非宗教的)国家においてイスラームにたいする責任を果たすことだった。多くの改革が必要だったが、なかでも 女性は平等の権利を与えられ、女の子は男の子と同じクラスで学校に通うようになった。子どもの結婚と封建的な持参金払いは禁じられた。労働組合が公認され、約10000人の人々が投獄から解放された。短い期間に何百という学校や診療所が各地に建設された。

 

封建時代から長いあいだ土地所有制度はほとんど変化がなかった。四分の三以上の土地が農村人口のわずか3パーセントの地主に所有されていた。改革は1978年9月1日に、高利貸しが利息の45パーセントを負担し農業地主がもっている負債のすべてを撤廃することで始まった。重要な土地改革のプログラムが展開された。(地主を含む)すべての農業ファミリーが平等な土地の均等分を与えられることになっていた。(原注2)

【原注2: 私は、サバティカルの休暇を利用して農業調査プロジェクトに取り組むため1978年11月にはアフガニスタンにいた。これらの改革と政府の施策のすべては、農学部の学部長が、またカブール大学で長いセッション期間中に幾人かの教授が、かなりの範囲を説明してくれた。(上記に引用した)ハリディも土地の再配 分プログラムについて報告した。】

 

この進歩的な政府に何が起きたのか?手短に言えば、 CIAとムジャヒディーンによって蝕まれてしまったのだ。彼らの存在は、国土を破壊した一連の出来事の引き金となり、また皮肉にも米国での2001年9月11日の惨事を、またアフガニスタンの今日の混沌と悲劇を導くことになってしまった。

 

CIAが関与した前でさえ、予想されたように金持ちの地主とムッラー(イスラム指導者)は土地改革だけでなくすべての改革に反対した。25万人のムッラーの大部分が豊かな地主だった。彼らは、ひとりアッラーだけが土地を与えることができるし、またアッラーは女たちに権利を与えることや女の子が学校に行くことに反対するだろうと説教で人々に語ったものだ。しかし改革は大衆に人気があったので、これらの反動分子は難民としてパキスタンに向かった。パキスタンからの援助で彼らはアフガニスタンの地方を襲撃し始めた。そこで彼らは診療所や学校を焼き討ちし女の子を教える教師を見つけては殺した。住民に恐怖とパニックを植え付けるため、彼らはしばしば子どもたちの面前で教師たちの腸(はらわた)を抉り出して殺した。

 

他国の問題に干渉する権利はないとしても、アメリカ合州国は新政権をマルクス主義者と見なしてその政権転覆を決意した。最初は非公式に、しかしカーター大統領の許可のもと1979年7月3日の後には公式に、CIAはパキスタンとサウジアラビアと協力してムジャヒディーンある いは「自由戦士」と知られるムスリム過激派に軍事援助と訓練を提供し始めた。

 

さらに付け加えると、CIAは米国で研究生活をしたアフガニスタンのPh.D.ハフィズッラー・アミンを誘い入れ、強硬派のマルクス主義者として彼を振る舞わせた。そして彼はアフガニスタン政府の中で首尾よく(副議長にまで=訳者)出世した。1979年9月、彼はクーデターを実行しタラキを殺害した。このアミンの指揮のもとで何千人もの人々 が投獄され、また軍は弱体化され政府の評判を悪化させた。多くは外国人傭兵であるがよく武装された何千人ものムジャヒディーン侵略者をかわすということで、アミンは彼の政府によって強引に一部のソ連軍を招き入れた。(原注3)その後まもなく、アミンは殺害され、チェコスロバキアに亡命していたタラキ政権の以前のメ ンバー、バブラク・カールマルに大統領が交替した。まだ冷戦の対立と不確実な歴史が影を落としていたが、カールマルはムジャヒディーン勢力に対処するため何千人もの部隊を送るようUSSR(ソ連)に依頼した。あまり知られていなことだが、少なくとも1年間はCIAをとおしてアフガニスタン問題にUSA(アメリカ合州国)が活発に関与して いた。これに対応してソ連軍が登場したのだった。

【原注3:Washington Post, December 23, 1979, p.A8.:1979年 12月8日、ソビエト軍がアフガニスタ ンに到着し始めた。記事が述べているように:その軍隊はどうやら招かれていたのでソビエトがアフガニスタンに侵入したという[国務省による]非難はまったくな かった。】

 

私が何年か前に述べたように:

「アフガニスタンの大地におけるソ連軍の出現は、結果として国土の破壊をもたらす悲劇的なきっかけとなった。カーター大統領の国家安全保障担当補佐官ズビグネフ・ブレジンスキーは、ロシアの熊 に罠を仕掛けてソ連にベトナム戦争の失敗を舐めさせるためCIAに権限を与えるようカーターを説得していたと、彼はあとで自慢していた。(原注4)ブレジンスキーは、これをもっとも反動的なムスリムの狂信者の熱意を掻き立てるまたとない チャンスと考えた。つまり―アフガニスタンの大地を冒涜した無神論者の異教徒に対してジハード(聖戦=原注)を宣言させ―また彼らを国土から放逐するだけでなくソ連のムスリム多数派地域を 「解放する」ため彼らを追跡させ続けることであった。そしてつぎの10年間、アメ リカ合州国とサウジアラビアからの何十億ドルを浪費することで、また何千人もの非アフガニスタン・ムスリムを(ウサマ・ビン・ラディンを 含む)ジハードへリクルートすることで、この宗教的熱狂者たちの軍勢がやったことはアフガニスタンの人々とその大地を荒廃させることで あった。」

【原注4:“How Jimmy Carter and I Started the Mujahideen”: Interview of Zbigniew Brzezinski Le Nouvel Observateur (France), Jan 15-21, 1998, p. 76 http://www.counterpunch.org/brzezinski.html

 

アフガニスタンに軍隊を送ったことは、ソ連側の致命的な 大失敗となった。ソ連がアフガニスタン政府に対するただの武器供与だけだったなら、「門で野蛮人」を切り抜け生き残っていたかもしれない。なぜなら、アフガニスタンの人々は狂信的ではなかったし大部分は政府の進歩的な改革を支持していたのだから。

 

この戦争に必要なだけアフガニスタン人をおびき出すこと ができないので、CIAとサウジ、パキスタンは、アフガニスタン政府とソ連の軍隊との戦争を遂行するため40のイスラム諸国から約35000人のムスリム過激派を補充した。CIAは隠密裏にこれらの外国人戦士を訓練し支援した。したがって、アフガニスタンで台頭した原理主義は、 CIAが構成したものである。自由戦士と呼ばれたムジャヒディーンにもかかわらず、彼らは恐るべき残虐行為を犯した最初期のテロリスト だった。

 

米国メディアで報道されたように、ムジャヒディーンの好んだ戦法は、最初に犠牲者の鼻、耳、そして生殖器を切り落とし犠牲者(しばしばロシア人)を拷問することだった。次に一部の皮膚を切り落 とし、徐々に別の皮膚をスライスしゆっくりとひどい痛みを伴って死に至らしめるのだった。ロシアの囚人は動物のように檻に入れられ言語に絶する恐怖を生き延びたと、その記事は記録している。(原注5)別の刊行物は、「Far Eastern Economic Review」から一人のジャーナリストを引きあいに出し、ある(ソ連の)グループは肉屋で宙づりにされ皮膚をはがされ殺害されたと報告している。(原注6)

【原注5:Washington Post, January 13, 1985.】

【原注6:John Fullerton, The Soviet Occupation of Afghanistan, (London), 1984.】

 

これらの生々しい報告にもかかわらず、レーガン大統領は 自由戦士をムジャヒディーン(ジハード戦士=訳者)と呼び続けた。1985年、大統領 はワシントンに彼らのひとつのグループを招いてホワイトハウスでもてなした。そのあとで彼らをメディアに紹介したとき大統領はこう述べた。「これらのジェントルマンは、道徳的にアメリカ合州国建国の父祖たちに相当する」と。(原注7)

【原注7:Eqbal Ahmad, Terrorism: Theirs and Ours, (A Presentation at the University of Colorado, Boulder, October 12, 1993) http://www.sangam.org/ANALYSIS/Ahmad.htm; Cullen Murphy,  The Gold Standard: The quest for the Holy Grail of equivalence,” Atlantic Monthly, January 2002 http://www.theatlantic.com/doc/prem/200201/murphy

 

生きたまま皮をはがされたのがアメリカ兵だったと考えてみると、たしかにソビエト兵は同じくらいどの点から見ても人間的であった。レーガン大統領はこうした実例があってもなお自由戦士をムジャヒディーンと呼んだのか…あるいは大統領は、それをソ連がやったことなら彼らを正しくテロリストと呼んだのかもしれないが?じつに、これらの行為が描写される仕方は、誰の牛が突き刺されたかによるのである。

 

ソ連は彼らのベトナムに屈服して1989年2月、その軍隊は撤退した。しかしアメリカの継続的な軍事援助で戦争は激しく続き、アフガニスタンのマルクス主義政府が最終的に敗北する前の1992年4月までアメリカは占領 した。それから次の4年間、ムジャヒディーンはカブールの大部分を破壊した。彼らは自分たち相互で争い合い略奪とレイプの戦闘を指揮して約50000人の人々を殺害した。これはタリバーンが彼らを掃討し1996年9月にカブールを攻略するまで続いた。パキスタンで熱狂的なムスリムとして訓練されたタリバーンは、ムジャヒディーンから国を「解放した」が、その後残虐で反動的な政権を樹立した。一度権力を握ったタリバーンは、とくに女性に対してイスラーム主義の恐怖政治を持ち込んだ。彼らは、サウジアラビアで支配的な信条となっているワッハーブ主義に密接に関連するイスラームの極端な宗派主義的解釈を強要した。

 

米国の「共産主義者恐怖症」とソビエト社会主義共和国連邦を転覆するという方針は、世界中のもっとも反動的で狂信的な宗教的熱狂者たちをかき集め支援するようなものであった。アフガニスタンと その人民が破壊される只中で、共産主義とソ連と戦う代理戦争に彼らを利用した。しかしそれには終わりがなかった。ムジャヒディーンは、ムスリム世界のさまざまな地域に散らばって転移し彼ら自身の生き方をあらわにした。彼らは、米国の完全な理解と支援で、ボスニアとコソボで セルビア人に戦いを続けた。しかし、彼らがソビエト帝国主義と呼んだものを打倒したこれらの自由戦士たちは、皮肉なことに次にはとくに― イスラエルに対する支援とムスリム世界に対する攻撃で―アメリカ帝国主義であると気づいたことで、彼らのねらいを転換したのだった。

 

こうしてアメリカ自らが作り出したものが彼らに向きをかえさせて、レーガンの素晴らしき自由戦士の後継者たちは合州国を激しく非難し、そしてアメリカは2001年9月11日を経験することになった。しかし米国政府と大部分のアメリカ国民は、このことから何を学んだのか?世界の例外的かつ不可欠の国家という思い上がった自説に基づいてオバマ大統領が横柄にも世界を注目させ続けているように、アメリカ政府もその国民もこれまで別々の事実から結論を導くことはなかった。彼らの最近の歴史でそれらの自由戦士たちに9・11の原因を説明しうるものなど何かあるのか?簡単に言えば、もしアメリカ合州国がア フガニスタンの進歩的なタラキ政権に干渉しなかったなら、彼ら自由戦士たちはけっして生じなかったであろう。ムジャヒディーンの軍勢も、 ソ連の介入も、アフガニスタンを破壊した戦争も、ウサマ・ビン・ラディンも、それゆえ合州国における9・11の悲劇も存在しなかったで あろう。

 

《アメリカは繰り返す―アフガニスタン》

起こったことの潜在的な原因を熟慮し反省するのでなく、 またこのことから学ぶのでもなく米国は追加された一連の戦争を追ってすぐにも戦争に訴えたものだが、歴史は自ら繰り返すというヘーゲルの見方を正すなかでマルクスが加えた「最初は悲劇として二度目は喜劇(ファルス)として」という皮肉なコメントを思い出させる。

 

米国のウサマ・ビン・ラディンに対する要求に応じて、ア フガニスタンのタリバーン政府は国際法廷に彼を引き渡してもよいと申し出たが、9・11に彼が関係している証拠を見たいと要求した。(原注8)米国にはそのような証拠もなく、ビン・ラディン自身は9・11には何も関わってはいないと否定した。(原注9)FBIは、9・11にビン・ラディンが関わっていた確かな証拠は何ひとつないというビン・ラディンの否定を裏付けるその記録をもっていた。(原注10)現在に至るまでずっと、FBIはこれに対する立場を変えることはなかった。

【原注8: 「タリバーンは繰り返し話し合いを要求している。 CNN.com, October 2, 2001, コメント:「ア フガニスタンを支配しているタリバーンは、嫌疑をかけられたテロリスト指導者ウサマ・ビン・ラディンを引き渡す以前に証拠が必要だと何度も繰り返した。」http://archives.cnn.com/2001/WORLD/asiapcf/central/10/02/ret.afghan.taliban/; Noam Chomsky, “The War on Afghanistan,” Znet, December 30, 2001 http://www.globalpolicy.org/wtc/targets/1230chomsky.htm

【原注9: 「ビン・ラディンは攻撃の背後にはいなかったと語った。」CNN.com, September 17, 2001. http://archives.cnn.com/2001/US/09/16/inv.binladen.denial/

【原注10:Ed Haas, 「FBIは、ビン・ラディンを9・11に結びつける確かな証拠は何ひとつない、と語っている。」 Muckraker Report, June 6, 2006. http://www.teamliberty.net/id267.html

 

あとで明らかとなったように、9・11の陰謀はドイツの ハンブルグでアル=カイダ細胞によって企てられていたのだから、9・11攻撃はアフガニスタンとは無関係だった。19人のハイジャッカーのうち15人がサウジアラビア出身であったし、また9・11攻撃にアフガニスタンやビン・ラディンが関わっている証拠を米国は何ひとつ持っていないにもかかわらず、アメリカ合州国はアフガニスタンに対する戦争を開始した。もちろん国連の支持もなく、これは明らかに不正な戦争であった。

 

たとえ米国がタリバーン政権を退陣させたかったとしても、戦争は必要なかった。アフガニスタンのすべての反タリバーン・グループがめずらしく満場一致で、この国に爆撃や侵略をしないよう米国 政府に嘆願した。(原注11)そこで彼らは、タリバーン政権を交替させるために米国が為すべきすべては、サウジアラビア とパキスタンにタリバーンへの資金援助を止めさせるよう強要することで、やがて政権は自ら崩壊するだろうと指摘した。このようにアメリカ 合州国は、その国を破壊することもなく、何千人もの米国兵士だけでなくアフガニスタンの何十万人もの殺害もなく政権交代をすることができ たはずだ。2001年から2015年 へと続く戦争を抱え…アメリカの最も長い戦争となった。これが喜劇(ファルス)でなくて何であろう?

【原注11:Noam Chomsky, “The War on Afghanistan,” Znet, December 30, 2001 http://www.globalpolicy.org/wtc/targets/1230chomsky.htm; Barry Bearak, “Leaders of the Old Afghanistan Prepare for the New,” NYT, October 25, 2001; John Thornhill and Farhan Bokhari, “Traditional leaders call for peace jihad,” FT, October 25, 2001; “Afghan peace assembly call,” FT, October 26, 2001; John Burns, “Afghan Gathering in Pakistan Backs Future Role for King,” NYT, October 26, 2001; Indira Laskhmanan, “1,000 Afghan leaders discuss a new regime, BG, October 25, 26, 2001.】

 

そして道化芝居(ファルス)は続いた。かつての戦争気分で、米国は2003年にもうひとつの不法な戦争を開始した。この時の対イラク戦争 は、あからさまな嘘とごまかしに基づく第一級の戦争犯罪であった。この戦争はさらに悲劇的だった。100万 人以上のイラク人を殺害し、国を土台から破壊し、世俗的(非宗教的)な社会を破壊し、現在も続く宗教的な兄弟殺しに取って代えた。戦争の進行中、アフガニスタンのアル=カイダはイラクに移動しアメリカの侵略者と戦う若 いイラク人のモデルの役割を果たした。アメリカ軍はイラクを素早く征服したにもかかわらず、容赦ないゲリラ戦に直面させられ、ついには2011年の撤退につながった。これらの長年月に、アメリカは何千人もの若いイラクの男たちを投獄し、軽率にも彼らの大部分を熱烈なジハード主義者に変えたのだった。こうしたアブ・グレイブやブッカのような監獄は、打ち続く暴動に火を点ける効果をもった。しかし、いまこれらのジハード主義者は自由戦士とは呼ばれなくなった。かつてアフガニスタンでアメリカ兵が ソビエト兵の代理となったときのこの慕われた名称は失われてしまった。

 

《アメリカは繰り返す―シリア》

あたかもアフガニスタンやイラクにおける戦争がまだ十分 ではなかったかのように、2011年の春、米国は長期プランのもとで秘密裏にさらなる戦争の開始に着手した。このひとつが対シリア戦争であった。どういうわけか自発的に起こったような自由戦士の暴動だった。彼らの目標 は、米国を不快にさせていたシリアの世俗的(非宗教的)政府を転覆することだった。その開始からずっと米国が暴動の背後にいたことが疑われていたが、2007年の早い時期からウェスレイ・クラーク将軍がインタビューの 中で述べていた。彼は、2001年9・11の数週間後、アメリカの幹部司令官会議で、5年 以内に7か国を無力化(破壊)する計画について語っていた。イラクを手始めに、次 はシリア、レバノン、リビア、ソマリア、スーダン、仕上げはイランであると。また2007年 に、シーモア・ハーシュは非常によく引用された記事の中で、「シリアのバッシャール・アサド大統領の政府を弱体化するため、ワシントンの 承認でサウジ政府は資金と兵站援助を提供することになろう」と述べていた。

 

いわゆる自由シリア軍は、米国とNATOの創作であっ た。その目的はシリアの警察と軍を挑発することだった。一度でも戦車と装甲車両が展開されたなら、これはおそらく、リビアにしたことをシリアにもする目的でNATOの保護責任の権限にしたがい境界を越える軍事介入が正当化されただろう。しかし、国連でのロシアの拒否権でこれは計画されたようにはうまくいかなかった。

 

この妨害に決着をつけるため、CIAはサウジアラビアと カタールと共に、まさにアフガニスタンでやったことに取り掛かった。つまり、その世俗(非宗教的)政府を転覆するはっきりした目的のため に、外国人サラフィストのムスリム自由戦士の狼藉ものをシリアに導き入れたのだった。莫大な資金とアメリカの武器で、皮肉なことに最初の 傭兵は、イラクでアメリカ軍との戦闘最中にその存在を現わしたイラク・アル=カイダであった。ついで、シリアの多民族からなる世俗社会をスンニー派のイスラム国に変える計画で多数の他のアル=カイダ・グループ、とくにアル=ヌ スラが傭兵としてつぎつぎに現れた。

 

シリアで暴動が始まってからずっと、アサドは去るべき だ、シリア政権を転覆するために自由シリア軍の中の穏健派を援助するため介入したと米国は世界に語っていた。しかし驚くことはない。役に 立たない穏健な自由シリア軍は、まもなくシリアのいたる所で一連のテロ攻撃を開始し始めたサラフィストのムスリム・グループで満たされて しまった。シリア政府は、これらの攻撃をテロリストの仕業であると正しくも特定したのだが、これは(アサドの)プロパガンダであると主流 メディアからは打ち捨てられた。この国が、兵士、民間人、ジャーナリスト、援助ワーカー、公務員などへの自爆攻撃と首切り処刑にさらされ ていたという事実は単に無視された。

 

こうした報道にもかかわらず、自由シリア軍の一部であると自ら名乗った人々に援助を提供しているだけだとアメリカは強弁した。2012年6月にニューヨーク・タイムズで報道されたように、CIA高官が、シリアの反政府戦闘員が 国境を越えてシリア政府と戦う武器を受け取るという同盟諸国の決定を助けるためトルコ南部で秘密作戦の展開中であるとし、…自動小銃、対戦車携帯ランチャー・グレナード、弾薬、何種類かの対戦車兵器を含む武器が、シリアのムスリム同胞団など実態のよくわからないネットワーク中継を手段として大部分はトルコ国境を越えて流れ込んだ、そしてトルコ、サウジアラビア、カタールが支払った、と当局は語った。

 

付け加えれば、2011年8月にNATO爆撃に支援されたアル=カイダによってリビアのカダフィ政権が退けられたあと、CIAはシリア反乱軍にリビア兵器の移送を手配した。英国タイムズとシーモア・ハー シュに報道されたように、リビア船は4基の地対空ミサイル発射装置SAM7、対戦車携帯ランチャー・グレナード、その他の軍需物資を含む400トンの兵器をトルコ で荷揚げした。ついで2013年前半には、CIAが調整してクロアチア、英国、フ ランスからのいわゆる「クロアチア武器空輸大作戦」で軍用兵器類3000トンとい うさらに大規模な武器積載が含まれていた。これは“立派に”働いている傭兵に配備するためクロアチアのザグレブから75機の輸送機でトルコに空輸された。さらなる報道では、2013年3月24日のニューヨーク・タイムズは、これらの武器を支払ったのはサウジアラビアで、じつは160機の軍用貨物機だった、と述べた。

【ご参考:このあたりの米国とNATO諸国によるシリア反政府軍への武器空輸については、Patrick Henningsenが以下の記事で複数のメディアソースを紹介している。英 文ですが=訳者】http://21stcenturywire.com/2013/03/10/an-international-war-crime-us-and-british-backed-weapons-airlift-from-croatia-to-syria/

 

《ダーイシュ(ISIS、イスラム国)の登場》

自由シリア軍を形成した多様なグループを支援したアメリ カ合州国、NATO、サウジアラビア、カタールのすべての努力にもかかわらず、シリア政府軍は彼らを敗北させ総崩れにさせた。さらに言え ば、これらの穏健な部隊の多くは寝返って好戦的なジハード・グループに加わっていった。ついで、2014年 前半に明らかに未知の軍事集団が見たところどこからともなく降ってわいたように現場に登場し目を見張る軍事的優位を形成はじめた。それは いくつもの名前をもっていて、ひとつはイラクとシリアのイスラム国(ISIS)、ついで単にイスラム国(IS)、あるいはアラビア語の ダーイシュであったりした。それはほんの数日でイラク軍を遁走、崩壊させ第二の大都市モスルを含むイラクの四分の一を支配し、またバグ ダッドが攻撃される恐れさえもあって世界中の関心を引き付けた。まもなく起きた2人 のアメリカ人ジャーナリストの打ち首は、再度イラクに兵力を投入しイラクとシリアの双方でISIS勢力に対する爆撃の軍事行動を開始させるよう米国をおびき寄せたのだった。

 

イラクに対するその攻撃の前、すでにISISはシリアに 強固な基地を確保しており、モスルでイラク軍から奪取した戦車や車両ミサイルも持って、ISISは現在ほぼシリアの三分の一を支配している。したがって目下のところ、約600万人の住民を擁してほぼ英国の大きさの地域 をカバーしている。ISISはシリアとイラクの国境を認めておらず、イスラームの好戦的なヴィジョンでその支配地域をカリフ制国家の辺境であると見なしている。これは、サウジ・キャッシュの砂漠の嵐作戦の直接的な結果である。その現金は、正統なイスラーム世界とは何の関係 もない反動的な中世風の有毒な宗教に帰結するグローバルなワッハーブ主義に改宗を迫り教化させることに注がれた。

 

初期段階では、ダーイシュ(ISIS、イスラム国)はアル=カイダの付属物以外の何物でもなかった。アル=カイダそれ自身が強力な米同盟諸国、サウジアラビア、カタールによって直接に武装され資金供給され支援され、さらに完全なトルコの支持を受けていた。これらすべての背後に、シリアの世俗的(非宗教的)な政府を弱体化させ破壊したいというアメリカ合州国とNATOの願望があった。パトリック・コックバーンが最近の鋭い論考で述べたように:

「イラクとシリアにおけるISISと他のスンニー派ジハード運動の育ての親は、サウジアラビア、湾岸君主国、そしてトルコである。彼(コックバーン)は、こうしたことは自然発生的に起こるも のではないと語るM16(英国諜報機関=訳 者)の元トップを引き合いに出している。コックバーンはさらに進んで、そのありそうもないイラク全体のスンニー派共同体は、サウジアラビ アの支援などなしにISISを結束して支援していただろう、と述べている。…トルコの役割は異なっていたが、ISISや他のジハード・グ ループの援助においてはサウジアラビアに劣らず重要である。そのもっとも重要な働きは、シリアに接するその510マイルの国境を開けておくことだった。これがISIS、アル=ヌスラと他の反政府グループに人と武器を運び込む安全な後方基地を与えた。…トルコの軍 事諜報機関は2011年に自身を再編成したときISIS援助に深く関与していたの かもしれない。」

 

世界の全領域で支配的な立場を確保しようとするその方針 に従って、米国は、たとえばアフガニスタンのムジャヒディーンやアル=カイダという創作物のように、それが彼らの利害であったならテロリスト・グループへの支援をためらうことはなかった。彼らがソ連と戦ったとき彼らは 自由戦士だったが、つぎに9・11の反動がきて…彼らはすぐにテロリストとなりアメリカ合州国の「対テロ戦争」に帰着した。イラクに対する不法な侵略戦争と軍事占領は、アル=カイダの新たな変種のレジスタンスをつくり 出す結果となり、彼らはもちろんテロリストと見られた。つぎにシリアのアサド政権に対する攻撃が起きて、米国、NATO、サウジ、カタール、そしてトルコの軍事行動が開始された。初めのうちは現地の自由戦士、つまり自由シリア軍を装っていたが、彼らがほとんど前進できな かったとき、さらなる自由戦士がアル=カイダの形で現れ、そのすべてのヴァリエーションにおいて結果的にはISISに至っている。これらのかつてのテロリストたちは、現在シリアのアサド政権を追い出す軍事行動の同盟者 となっている。シリアが正しくも彼らを外国人テロリストと見ていたにもかかわらず、その主張はほとんど無視された…2人のアメリカ人ジャーナリストが首切り処刑されるまでは。

 

アメリカ人ジャーナリストが打ち首にされたほぼ同時期 に、シリアでは残忍な戦いが続いていた。シリアの兵士はどこであれ捕えられ多くは打ち首にされ即座に処刑された。このすべてが入念に撮影 されている。数多くのウェブサイトがこれを見せているが、とくにそのひとつには「シリア人の戦い:シリア戦争犯罪の証拠」というタイトル が付けられていた。2014年8月 のタブカ空軍基地の近くでは、220人のシリア兵の大量処刑を含むぞっとするよう な数多くの処刑シーンが見られる。ちょっと考えてみてほしい、もし220人のアメリカ兵が打ち首になって処刑されていたら、どんな抗議が押し寄せただろう。その代わりに主流メディアはもっぱら2人のアメリカ人ジャーナリストの打ち首に集中した。それはじっさい憤激していたのだが、 何百人もの首を切られたシリア兵への憤激はどこへ行ったのだろう?基本的には、ISISがシリアでやっていることについては何も言われなかったのである。

 

アメリカの2人 の民間人に対してISISがやったことについてアメリカで激しい憤りがあったが、そこには、この宗教的過激主義の原因に関して、またこれがまさに米国がアフガニスタン、イラク、リビア、そしてシリアに対してやったことからくる反動の別のケースだったという可能性に関して は、ほとんど何の自己分析もなかった。

 

それは当然のことで、米国のレスポンスはISISの戦闘 能力を削減するために一連の空爆を宣言することだった。しかし、そこには地上軍もなく、したがって実際にはISISの軍事的敗北はおそらく故意に決着がつけられないままにおかれた。現実には、ISISの即席の軍事力に手を焼いたまま、西洋とその地域同盟国のサウジ、カタール、そしてトルコに託された。彼らの公式の方針はアサドを退陣させることであるが、ISISは現在、シリア内の事実上の軍事力だけである。もしシリア政府が退陣するなら、完全に孤立するのはISISであろう。果たして、2003年 のイラク侵略と2011年のシリア襲撃はイラク北部とシリアに広がる強力なジハード国家を作ることで終わろうとしていたのだろうか?こうした狂信的なワッハーブ体制によって、シリアの多文化・多宗教社会に何が起こるの だろう?

 

この荒涼とした現実に直面してパトリック・コックバーン が要約したように:

「…米国とその同盟国は、幻想の中に落ち込むことで ISISの上昇に答えた。欧米の外交官たちは非公式にこのグループが実際にはいくつかの包囲された孤立地域の見せかけには存在しないことを認めているのだが、彼ら米国とその同盟国はアサドとISISの双方と戦うために穏健なシリア反乱軍の第三勢力を育てていると装っている のだ。」

 

そのうえ、こうした(穏健な)部隊が訓練され装備される やいなや彼らの大多数は、たとえばこの1月にはそのうち3000人がアル=ヌスラや ISISに参加し始めた。では、この明白な思い違いの中に筋道はあるのか?果たして、本当に米国とその同盟国はISISにシリア軍を挫折 させ敗北させるつもりなのか?そしてこの狂信的なスンニー派ワッハーブ体制がいったんシリアを支配したなら、次のステージは破壊されるべきもう一つのムスリム国家シーア派イランを攻撃することになっているのか?こうした冒険の地上部隊が、ISISの連中なのかもしれない。

 

このマキャベリ的な可能性に対処するために、イスラームの好戦的なヴィジョンをもつ狂信的なカリフ国の永続的な設立はおそらくそれほど良い考えではないという理解が最近あって、ことによるといくつかのレベルでその形跡が見えていた。最近まで、可能性の範囲を超える問題であると思われていたことは、米国が実際にシリアのアサド大 統領に対応する用意があると思われる新たな証拠が現れていることだ。ニューヨーク・タイムズ(2015年1月15日、19日)で報道されたように、国連のシリア危機特使は、戦場地域の中でも近くでも何らかの 方法で地上戦を凍結させ戦争を終結するようシリア政府とISISの説得を試みている。アサド大統領はその案を受け入れたが、ISISから は何の返答もなかった。また、ロシアのイニシアチブによって、シリア危機を解決する会議を準備するためモスクワで会合が行われている。良いニュースは双方の働き掛けで米国が協力的になったということである。

 

もうひとつの励みとなる兆候は、アサド大統領による大変長い広範囲にわたるインタビューがフォーリン・アフェアーズ(2015年1月27日)に公表されたことだ。 これは米国政府の要人とアメリカの一般国民双方にとって重要なことだ。アサドは、カタール、サウジアラビアあるいは西洋の米国を含むどんな国でも、外部から雇われた操り人形でなければ誰とでも会う用意はできていると述べた。それはシリアでやるべきだ。また彼は、会議から発生するいかなる決議もそれが運用される前に国民投票によって民衆に再考する機会をあたえなければならない、とも述べた。こうした手順より 民主的なことがあろうか?このような行動を通して、シリアはその世俗的な状態を維持することができ、また真の民主的な国家へと発展することができるのであろう。

 

それゆえ、シリアで続く戦争の凶暴さにもかかわらず、これらの成り行きは、22万人を超える死者、100万 人の負傷者、そして100万人以上が追放されたこの外国の影響で生じた大災害を収束させうるかすかな希望の光を差し出している。しかし、それがもしISISがその対シリア攻撃の収束を拒否することが分かった場合、米国 がするべき理性的なことはシリア政府を転覆させる軍事行動を止めこと、ついでISIS勢力を敗北させるためにシリアと協力することであろう。米国とシリアの協調した空爆によって、この地域に送り込んだサウジアラビアのワッハーブ派を打倒するためならシリア軍は必要な地上軍を提供するだろう。だがこれは単に可能性の域を越えていることなのか?

 

手短な要約が適切だ。第一に、米国とその同盟国は ISISおよびその共犯者アル=カイダ、同様に多様な波及グループを創り出したことにどの範囲で責任があるのか?一番初めは、アフガニスタンでソ連と戦うためにムジャヒディーンとアル=カイダを創り出したのはアメリカ合州国だったことを私たちは思い出すべきだ。あとで9・ 11の反動が来たが、それはレジスタンスとしてのアル=カイダを創り出した米国の イラク侵略であった。シリアの暴動を誘発したのはアメリカ合州国だった。彼らの自由シリア軍が敗北に直面したとき、米国の同盟国サウジと カタールの莫大な資金援助と指揮およびトルコの戦術的援助をともなって救出にイラク・アル=カ イダが駆け付けた。ISISに転移したのがこのアル=カイダである。また、米国は、とくにイエメンやパキスタンでその無人機の軍事作戦をとおして余分な敵をも発生させた。

 

《結語―不正に便乗し続ける欧米メディアの共犯》

だが、ここでの話はこれがすべてではない。その分枝に よって、編集者と突出した風刺画家など12人の人々を死なせたシャルリー・エブド 誌に対するパリの最近の攻撃がなされた。見たところ預言者ムハンマドにかんする週刊誌の侮蔑的な諷刺画に憤激したアル=カイダに関係する男たちによってなされたようだ。その襲撃は、「私はシャルリー」の叫び 声を呼び寄せて報道の自由を支持する街頭デモをくりひろげ、フランスと世界中で数百万人の大規模な抗議を引き起こした。

 

歴史的なコンテキストにこの問題をおくと教訓となる。ナチス・ドイツでは、デァ・シュテュルメルという反ユダヤ新聞が病的なまでにユダヤ人のカリカチュアを強調していた。ニュールンベルグ裁判 で告発されたその編集者ユリウス・シュトライヒャーは、ユダヤ人にかんする彼の話題と諷刺画の理由で絞首刑にされた。セルビアに対するその爆撃作戦の期間中1999年には、NATOがベオグラードのラジオ/TV局を故意に爆撃して16人の ジャーナリストを殺害した。米国は、2001年にカブールのアル=ジャジーラ本部を爆撃した。また2003年 には、アル=ジャジーラがバグダッドで爆撃されジャーナリストが殺された。ガザ攻 撃でイスラエルは故意に多数のジャーナリストを殺害した。

 

上記の例では、確かに報道の自由の問題はほとんど話題に ならなかったし、大規模な街頭抗議運動も一切なかった。シャルリー・エブドの場合、上記の例は言論の自由のモデルではなかった。実際には、シャルリー・エブドのムスリムにかんする政治的ポルノグラフィーはデァ・シュテュルメルでユダヤ人が描かれたやり方とほとんど違わないのに。

 

米国とその多様な同盟国は、アフガニスタン、イラク、リ ビア、ガザ、イエメン、シリアと多くのムスリム諸国で死と破壊の戦争に乗り出した。これに対する援助のために、サウジアラビアはその狂信的なワッハーブ主義を蔓延らせようとして1000億ドル以上を費やしてきたよう だ。ワッハーブ主義は比較的小さな宗派でムスリム世界全体では軽蔑されているが、それでもムスリムのイメージを傷つけてきた。こうしたことで、世界のイスラム教徒を堕落させ、品位を下げ、恥をかかせ、あざけり、辱めることが、どういうわけか西洋の一部の人々に許容されるようになった。表現の自由の見せかけのもとでムハンマドを嘲るほうを選んだのは、この精神においてであった。注目すべきは、かつてシャルリー・エブドはあるジャーナリストが書いたひとつの描画がシオニスト・ロビーに批判されたという理由で彼を解雇したことがある。しかし、 ムスリムに対して同じことが現われたとき、それらについては解禁されていた。アメリカ合州国最高裁判所判事オリバー・ウェンデル・ホーム ズによって出された判決では、言論の自由は「嘘なのに満員の劇場で火事だと叫ぶ」権利は人に与えられていないとある。また、暴力を呼ぶような「挑発的な言辞を公表することは禁止するという条項が合州国憲法にある」。こうしたすべてが、シャルリー・エブドの編集者と発行者に よって無視された。処罰が死刑ではないとしても、起こったことに対して彼らは相応の責任を負っている。残念なことに、シャルリー・エブドのカリカチュアに対する欧米の無批判的な擁 護は、諷刺画がムスリムに直接向けられまたムスリムを嘲笑したからだった。今日、絶望的に軽蔑された人々はイスラム教徒であることは疑いようがない。

 

ISISが2人 のアメリカ人ジャーナリストを打ち首にしたとき、憤激と非難が西洋を貫いた。しかし同じISISが 何百人ものシリア兵を打ち首にし、これらの戦争犯罪を入念にフィルムに収めたとき、これはほとんどどこにも報道されなかった。付け加える と、シリア悲劇のかなり初期の段階から、アル=カイダ・グループは兵士だけでな く、警官、政府職員、公務員、ジャーナリスト、キリスト教会の人々、援助ワーカー、女たちや子どもたちを殺害し拷問していた。同じく市場 での自爆も。これらすべてが主流メディアでは覆い隠されていた。そしてシリア政府が正しくこれをテロリズムと公然と非難したとき、これは 無視されるかアサドのプロパガンダだと非難された。

 

では、欧米のメディアではこれらの残虐行為がなぜ報道されなかったのか?もしこれが報道されたなら、アサドは去るべきだというワシントンが宣言したアジェンダに敵対することになっただろう。こうして主流メディアは公式の方針に従った。ここに新しいものは何もない。欧米が開始した戦争、ベトナム、アフガニスタン、イラク、リビ ア、シリアに対する暴動と政権転覆戦争、さらにイラン、グアテマラ、インドネシア、チリに対する彼らのクーデター、そしてもっとも最近で はウクライナで、メディアはことごとくこれらを支持したことを歴史は示している。

 

テロリストの行為が私たちの敵に対して実行されるなら、 しばしば自由戦士の行動と見られる。しかし同じタイプの行為が私たちに向けられたとき、それらの行為はテロリズムと非難される。だからすべては誰の牛が突き刺されたか次第なのである。(結果の正しさはどちら側に立っているか次第だという警句だが、ことは主観性の問題ではなく、著者が世界を覆う不公正を指摘していることは言うまでもない。=訳者)

 

(以上、翻訳終わり)

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion5205:150302〕