太宰治と鰭崎(ひれさき)潤
- 2020年 4月 7日
- 評論・紹介・意見
- 太宰治由井格鰭崎潤
■太宰治(津島修治)
1909年(明治42年)6月19日 青森県北津軽郡金木町に生まれる。父・津島源右衛門、母・タ子(タネ)の第10子(六男)、金木尋常小学校を経て、金木村をはじめ近郷の千カ村の組合の明治高等小学校に入学(1922年4月)、1923年4月1日、県立青森中学校入学、遠縁に当たる青森市寺町の「山太呉服店」豊田太右衛門方に寄宿、通学、五月ごろ「花子の一生」という小説を書きあげる(原稿用紙30数枚)。
井伏鱒二の「幽閉」(「世紀」創刊号、大正7年7月発行)を知る。以後、校友会誌等に次々と創作発表。
1927年(大正2年)4月11日、弘前高等学校に入学。それと入れ替わるように、後の「武装共産党」の委員長・田中清玄は同校文科乙類を卒業し東大へ(後の田中清玄の妻は、野沢中学校、東大で活躍した共産党員、小宮山新一の妹。新一は若月俊一を佐久に迎え入れた人物)。
津島は第一高等学校の再受験を考えるが、改造社版「現代日本文学全集」の刊行記念の企画で、いろんな文学者の講演会に参加、熱心に聞く。7月24日の芥川龍之介の自殺に強いショックを受ける。8月初旬、下宿近くの芸子上がり義太夫の女師匠の元に通い始める。
「花柳界」に出入りし始める。1928年になると、文学を通じて左翼文芸と付き合い始める。この時代を象徴するかのように、同人誌は「蜃気楼」であり、「細胞文芸」であった。
■鰭崎潤
旧制長野県立野沢中学校教諭(1942年(昭和17年)3月~1945年(昭和20年)12月、野沢北高岳南会名簿による)。太宰治年譜によると、「昭和17年10月付で長野県立野沢中学校校長 小野谷常長は長野県知事宛に、鰭崎潤 採用希望の書類を提出 『発令希望年月日ラン』には『昭和17年4月25日』」となっている(太宰治の年譜、大修館書店 昭和17年 職業作家としての時代より)。更に、4月25日 鰭崎潤、長野県南佐久郡野沢町字薊沢448番地の2 野沢中学校に受け持ち科目「図工、作業」職名「教諭心得として着任」とある。野沢町三塚 篠原嘉一方に身を寄せている。
※太宰、鰭崎の共通の友人三田循司は、「4月10日の幹部候補生試験に「落第」して「落ち幹」」と記している。
昭和18年3月頃、鰭崎は結婚したと思われる。鰭崎の帝国美術学校西洋画科以来の友人、根市三郎の日記(良記歴)には、3月28日「鰭崎潤納婦」とあり、更に3月29日「午後三鷹逢鰭崎潤、次逢、与亀井勝一郎、太宰治、久富邦夫、夕於光亭置酒。太宰、鰭崎、久富、久呍十四、力驚」鰭崎の結婚祝いとしている。
■文学青年太宰と「左翼」との関わりはじめ
1930年1月16日、17日、太宰の周りの青年共産同盟(共青)の青年たち、弘前高校分科三年小宮義治、同上田重彦、井尻喜之祐、分科二年信楽幸男、同菅原正彦、増渕俊一、蛸八郎右衛門、山本耕次、理科三年広瀬秀雄など構内さあよく分子9名と労働者4名の計13名が治安維持法で検挙、20日には6名が釈放されたが、新たに6名が召喚。
1月12日~16日 和歌山県内で日本共産党「プレナム」(拡大中央委員会会議、議長田中清玄)が党の武装方針を決定=非常時武装共産党へ。16日書記長田中清玄に。先輩工藤永蔵は日本青年同盟の中央委員兼技術部長に任命されている。
4月、東京帝国大学に入学した太宰(津島修治)は、駆動に勧誘されて共産党支持者の組織に参加(2月13日、田中清玄の母愛子、割腹自殺)。
※蛸八郎右衛門は、1960~67年、由井が船橋市在住時、船橋市市会議員、千葉県会議員(社会党)で、太宰に「指導された時代」の話をよく聞かされた。子供の頃は名前に苦しんだが、変な名前のおかげで選挙に強かったとも。
■太宰と芸術家との関わり、鰭崎とのつながりを求めて
鰭崎が小舘善四郎に誘われて船橋市の太宰宅を訪ねたのは1930年8月下旬で、当時の年齢は25歳(太宰より2歳年下)。鰭崎は無教会派のクリスチャン。1927年帝国美術学校西洋画科入学、太宰と親しかった根市良三は、1914年生まれ、太宰とはごく近い親戚。青森中学では警察当局に津島逸郎と共に監視されるが「学校当局の穏便なる取り計らいに依り」卒業。その後、帝国美術学校西洋画科に入学、鰭崎と同級生となる。なお、逸郎は岩手医学専門学校に進学するが左翼運動で退学。その後、東京医専に入学した。太宰は鰭崎との付き合いの中で、無教会派聖書研究誌「聖書知識」を薦められ、1940年から購読者となった。太宰と鰭崎の深い付き合いのきっかけはここにある。
1941年7月11日の上野精養軒での『晩年』出版記念会に、井伏鱒二、佐藤春夫、亀井勝一郎等37名の友人・知人が参加しているが、鰭崎と小舘もそこに含まれている。41年10月、帝国美術学校在学中の小舘が都下小金井町の林の中で手首の静脈を切って、鰭崎宅に駆け込んだ時には、鰭崎は阿佐ヶ谷篠原病院に入院させ、太宰と小舘の妹の玲子に連絡し合わせている。
1942年4月、太宰は鰭崎に葉書を出し、相談したいことがあると呼びだしている。鰭崎は友人久富邦夫を誘って西荻の碧雲荘を訪れている。太宰は妻初代の事件について話し、「いやになったから別れたい」と相談したという。
1939年になると、鰭崎は甲府の地を離れ、三鷹駅近くに移住した太宰宅を訪れ、愛蔵の画集を次から次へと披露し、太宰の西洋絵画に対する知見に大きく貢献した。なお、この交流は、鰭崎の野沢中学着任まで続いた。鰭崎は野沢中学を45年12月に退職。友人根市良三の46年2月の日記「身記暦」の3月8日の項には「鰭崎涸書牘自長崎長与村至」とある。
あとがき
戦中野沢中学で学んだ兄、港、誓の二人から、太宰と鰭崎のことを調べろと言われ、その約束をようやく果たすことが出来た。第二次世界大戦末期、当時の学校長に校庭に呼び出され、予科練行きを暴力で強要された状況を心配した生き証人・・・。
市川 潔さんの手紙
鰭崎(ひれさき)潤先生は、昭和20年、野沢中にいました。私が中三、学徒動員で軍事工場の時に、先生は中込に家を借りて、奥さんと二人、私ら中込のやからがチョクチョク先生のお宅で、時にはコメを持参して煮てもらいました。
その頃非常に高価な天体望遠鏡がありました。
終戦後、東京、中央線、小金井駅の近くの先生の家にお邪魔しました。
茫々とした雑草の中に、間口十間、奥行き二十間の長方形の大きな家で、廊下は一間、戸は全てガラス戸。アトリエは天井が高く、入り口は欅の一枚戸観音開き。小金井は(先生の)田舎で大地主であったようです。
先生は野沢中から長崎県の大村へ移りました。
絵は中学の同級生の家に何枚かおいてあります。野沢中に何故来たかは判りませんし、長崎に行ったかも知りませんが、先生も奥様もオットリした育ちで、粗末な食べ物でも感謝し、野菜も喜んで、汁を作ってくれたり、田舎の味噌むすびも、うまいと喜んでくれたことぐらいしか、記憶の中にありません。
鰭崎先生のアトリエで、津島修治氏が絵を描いた、すごい発見、港先輩、誓の発見に敬意。
(手紙の主 市川 潔さん 第45回、新制第1回卒)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔opinion9621:200407〕
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