ボランティア現地レポート—わが胸に刻め“海が忍ばせていた巨大エネルギーを悟った街
- 2011年 6月 4日
- 時代をみる
- 9条改憲阻止の会
連帯・共同ニュース 第123号 2011年6月2日
(石巻編) 泉 康子
<なぜ石巻に>
気仙沼から転じて第二のボランティア地に石巻を選んだのには、三つの理由(わけ)があった。
ひとつ。3・11以降、どこかに行こうと東京を駆け巡っているとき、説明会でピースボートの災害援助
コーディネーターが言った。「ライフラインがズタズタの石巻に入るべきだと判断しました。全ての生活物資は現地に迷惑をかけず自己負担で入るのがボランティア活動の原則です。一週間、自分のテントで寝起きし、自分が背負っていった食料、水で三食食べ、排泄物を事故処理し、その条件で活動できる人は明後日出発します」-私はたじろぎ落ち零れた。
二つ。仙台から石巻までの仙石線は不通だがバスが走りはじめており、仙台の宿(建物に亀裂が走り補修中で一般営業していないが寝起きだけなら受け入れ可能)が確保できた。
三つ目。1963年からの大学での反戦闘争の同志・辺見庸の故郷が石巻である―迷いなく私は石巻を目指した。
■ <津波は川からやってきた>
4月26日、仙台から1時間半で着くはずの石巻は、道路渋滞で三時間近くかかった。往復五時間、二日目からはこれがこたえ始めた。石巻ボランティアセンターは、JR石巻駅前から歩けば一時間かかる北部の離れ島のような広大な地にあった。最後まで自給自足を貫いているピースボートと自衛隊のテント群を通り過ぎ、その奥の専修大学石巻校舎にあった。桜が不似合いに満開だった。登録は、気仙沼とほぼ同じですぐ済んだ。ボランティア保険は、就労地が変わっても一年間有効なので気仙沼加入分がそのまま生きた。昼過ぎ、83才と82才のご夫婦の家からの要請に8名の男女で直行した。
海から4K離れているその地区は、旧北上川から1K程の地点。津波は川を遡りあふれ、一階は完全に水没した。二階に上がって波にさらわれるのを逃れたという。大まかなヘドロ出しは前日のボランティアが終わらせていた。今日のテーマは二階からの10センチほど水没した洋服ダンス降ろし。―
センターから持っていったロープをまわし、窓から屋根に降ろし、更に庭に吊り降ろすという作業。
ピアノ業者のやるような緊迫した仕事だった。庭の毛布の上に無事着地した時、みんなドッと汗をかいた。タンスも命も無事だったと奥さんと抱き合った。
翌日も駅から5分と言われている住宅街の一人住まいの81才の女性のお宅へ。一階のフローリングのヘドロをとり除き、ホースで水を流して拭きとりをくり返した。「水が攻めてきた時、怖かったでしょう」と女主人に声をかけた。すると彼女は堰を切ったように話し始めた。「ウチは海から5K近く離れているから、水がくるとは全然予想していなかったの。二階に逃げても水が追ってきてヒザまで水が上がってきた。これで私の人生終わりかと考えた。それから三日、水が引かず、飲まず食わずで悪いことばかり考え沈んでいた。そしたら五軒先の娘さんが泳いでアタマにリンゴと水のペットボトルくくりつけて来てくれたの。命の恩人よ。三日目の夕方、消防のボートに乗せられて、やっと避難所にたどりついたの。
信じられなかったけど、津波は川からやって来たのよ!」夕刻、海岸に近い水産加工場団地に行ったボランティアがバスで30名ほど戻ってきた。襲いかかった大津波は、工場を鉄筋だけ残して破壊し、大冷蔵庫を押し流して魚をみじんに撒き散らしていたという。水道が復旧していないので一月半放置された。そして今日鼻をえぐるような悪臭の中でヘドロかきをやり続けたという。彼等、彼女等は、刺激臭を身につけて降りてきた。ヘドロ臭の漂う街には水道、ガス、電気といったライフライン復旧に力を尽くす関西、関東、北陸、九州からの応援隊が働いていた。復旧が遅れると、感染症が爆発的に蔓延する候補地だと心配されていた。実情を掌握すべき市役所が浸水しとどこおっているのを見かねて石巻病院のスタッフが生活環境調査を開始したと聞いた。爆発の一歩手前で食い止めようとする緊張が街角にあった。
■ <太平洋の絶叫を聞き収めた街>
石巻への到着が昼近くになってしまった日、私はボランティアを休むことにした。石巻駅前でトイレを済ませ、仙台で作った握り飯とお茶を持って歩き始めた。文芸春秋5月号に載った辺見庸の「神話的破壊とことば」のコピーと、石巻市の地図を頼りに、駅前の商店街を抜け、坂道を登りはじめた。辺見少年が潮騒を聞きながら駅伝走者として走り、その校門の前で抜いて誇らしく先頭に立ったという門脇小学校を目指した。途中、石巻高校の生徒に教えてもらいながら細い道をたどった。はるかな外洋に続く街を見下ろす階段にとび出した時、足が停まった。息を飲んだ。そこは原爆の爆心地だった。はるかな外洋に続く広大で平らな眼下の街は累々とした瓦礫の大地に!海が絶叫してあの水平線から迫ってきた時、何も身を隠すものはなかったに違いないと思った。この眺めの中に、9日ぶりに生還した高校生と80才の祖母が閉じ込められていた屋根もあるはずだ。階段を降りて墓地まで行くと、四人の人があの日を語り合っていた。みな家をなくした人達。二人は姿を消した友人の手懸りを求めて、あとの一人は思い出の品を探して一日に一回、降りてきて探している人達。三人は隣に建つ門脇小学校の卒業生と杖をついた元先生だった。口々に語り合うその日は生々しく続いた。― 人々は逃げ惑って高台への階段を駆け上った。階段にたどりつけなかった人は、生きたまま、引き波に連れて行かれた。その眼が見え、悲鳴が聞こえたが、どうすることも出来なかった。階段を駆け上り高台に立った時、引き波は我が家を引きちぎり、車を呑み込んで砕けていった。方々で爆発音がして。何処から始まったと言えぬ火の手がいくつもあがった。その炎の舌は門脇小学校に入り込み三階までを全て燃やし尽くした。生徒は火攻めにあう直前に裏の日和山に逃げ難をのがれた。消防車も出動したが、逆にたちまち火にまかれた。―
今、門脇小学校の校庭には、波にやられつぶれた車が焼けただれ、何台も折り重なって赤茶色に錆び果てている。もの言わぬ瓦礫の山…。
■<孤立した私立病院の死闘>
はるか左手の海寄りに見える五階建ての白い建物が私立病院だと教えられた。「病院はたすかったんですか?」と私は問うた。「いやいやそれが大変なことになっていたんだよ」と語られたことを再現すると次のようになる。17Mに及ぶ津波の破壊力は、この近代建築にも中の先進医療機器にも容赦なく襲いかかり、引き波の時、窓に流木や車を突き刺して去っていった。患者150名、スタッフ250名は水没しかけた建物に取り残され、やがて食べ物もなくなっていく。水道、ガス、電話も無線も不通。じか発電機は水没し、気がつくと地盤が沈み病院は海に囲まれ孤立していた。その惨状を把むべき市役所も浸水し機能を果たしていなかった。地震で手術を中断した患者をかかえた市立病院は、3月13日早朝44才の外科部長を5K離れた石巻赤十字病院へ伝令役として送り出した。引かぬヘドロと瓦礫の混じった腰までの水を探りながら一足一足出発した。この足さぐり伝令の到着によって、浜松のドクターヘリが飛んだ。続いて自衛隊ヘリが動員され、病院がまるごと避難するという長い死闘が展開されたのである。
12日間海が燃え続けた気仙沼も無惨であった。しかし石巻の被災区は、それに比べ手の施しようもないほどワイドなのだ。太平洋に喰われた広大な市街地の上を、時折遺体を見つけヘリが飛ぶ。石巻で2669人が命を落としそれ以外に2770人の人がまだ見つかっていない。
■ <海が忍ばせていた巨大エネルギーを我が胸に刻め>
石巻の地震の震度は、記録によれば6弱で、東京(5強)のワンランク上程度であった。しかし決定的に異なるのは、背丈17Mに及ぶ大津波の襲来である。この海が忍ばせていた巨大なエネルギーの前に、私達人間が築いてきた、電気、ガス、水道、通信といった知恵はなんと脆かったことか。一歩一歩歩いてたどり着き救援を求めるという原始から具えていた力を甦らす以外なかったのだ。
・祖父母を失ったタクシー運転手はポロッと言った。
「いろんな人が復興を叫び合っているけど“人間は強いんだ”の延長線で考えたら又きっと失敗だネ。
海が吠えた跡を都会の人にしっかり見て欲しいな!」
・60年安保時代には生まれていなかったという大学講師とボランティア作業を共にした。そのK氏は別れ際に言った。
「3月以来、週末ごとに山田町、大槌町、気仙沼、石巻と入って見てきたけど、その巨大なツメアトを
学生に伝える言葉はまだ結べていない」
辺見庸は、自分を育てた母と海鳴りに耳傾けながら、瓦礫の中から死者の遺した言葉を拾っている。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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