宮本三郎と靉光の戦争画
- 2020年 9月 22日
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このタイトルを読んで、少なくとも以下の二つの疑問を抱く読者がいるのではないだろうか。第一のものは、宮本三郎は数多くの戦争画を描いたが、靉光は戦争画を描かなかったではないかという疑問である。確かに、靉光は一般的に戦争画と言われる作品を描かなかった。しかしながら、靉光の妻であったキエ夫人が、「(…)戦争画を描くのに多くは、軍人や大砲を描く、石村に言わせれば、それが蜂であってもいいじゃないか。素材の違いはあるにしても、自分は戦争の絵を描いているのだと、よく言っておりました」(靉光の本名は石村日郎である)述べているように、彼の絵は一般的なカテゴリーでは戦争画ではないが、それを戦争画と見なすことが十分に可能な時代的、テーマ的、絵画構成的な何物かが存在していると私には思えるのだ。 第二のものはこの二人の絵を比較する積極的な理由が存在するのかという疑問である。二人の画家は共に十五年戦争の時代に生きた画家である。しかしながら、自主的に作戦記録画を描いた宮本三郎と、そうした絵を描こうと思っても描けなかった靉光とは戦争画という視点から見た場合に、まったく共通性がないと述べても過言ではないだろう。だがそうであるからこそ、こうした対極のある二人の戦時中の絵画作品を比較することで、今迄見ることができなかった戦争画に関する何らかの側面に照明を当てることができるのではないか。私にはそう思われたのである。
宮本三郎は1905年、石川県能美郡の農家の息子として生まれた。上京し、川端画学校で、冨永勝重、藤島武二に師事し、絵画を学び画家を目指す。1927年、22歳の時に二科展に初入選し、その後は着実に画家としてのキャリアを積み、1938年、33歳の時に渡仏し、更に絵画技術を磨くが、第二次世界大戦が勃発し、1939年に帰国する。帰国した翌年には中国戦線に従軍して絵画制作を行い、1941年12月に太平洋戦争画開始された数ヵ月後の翌年3月には作戦記録画制作のために南方戦線に赴いているが、「山下、パーシバル両司令官会見図」によって戦争画家としての不動の地位を築いた。
戦争画と戦争責任は戦争画を考える上に常に付きまとっている問題である。それゆえ、この問題は多くの研究者や批評家によって何度も繰り返し問われてきた。こうした議論には大きな意味があり、詳しく検討していかなければならないことは確かであるが、その検討には膨大な紙面が必要となる。それゆえここではこのテクストの探究と関係する以下の問題のみを考察しようと思う。それは戦争画問題における戦争責任を問う場合に、その責任を戦争記録画を描いた画家たちだけに押し付けてよいのかという問題である。
この問題を考察するために、私は先ず戦時中の児童画の中に描写された多くの戦場の風景や戦意高揚を示すシンボルが表現された数多くの絵と戦争責任との関連性について考えてみたい。靉光は戦争画を描こうとしても描けなかったと述べていたが、それが如何に稚拙なものであっても、戦時中に子供たちは簡単に、多分何の躊躇いもなく、時には喜びを持って、誇らし気に軍艦や戦闘機や戦場の光景を描いた。それは無知ゆえにできた行為と言い得るかもしれない。だがそうであれば、作戦記録画を創作した多くの画家も無知ゆえに、政治プロパガンダに加担したと述べ得るのではないだろうか。それゆえ、戦争を描いた児童画と作戦記録画との根本的な差異は何処に存在するのかと問うことは重要な問題である。
最後に、『日本の戦争画』の中で田中比佐夫が語った言葉を引用してこのテクストを終えたい。何故なら、戦争画という問題を考える上で、この言葉は極めて多くの示唆に富んだものであるからである。田中は「戦争画というものは、地球世界の直面している危機を先取りする形で、その存在そのものをあやうくしているようである。しかし、それでも私たちは、戦争のおそろしさ、悲惨さ、残酷さを、なんらかの表現手段で表現しなければならないときだと思うのである。そして表現することでそのおそろしさを克服しなければならないのである」と述べている。宮本三郎の「山下、パーシバル両司令官会見図」と靉光の「眼のある風景」とを並べて見たとき、私は田中のこの言葉の重みをはっきりと感じるのである。
初出:宇波彰現代哲学研究所ブログから許可を得て転載
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔opinion10131:200922〕
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