相次ぐ「見せるな」、「知らせるな」の意味するもの ―習近平は何を企んでいるのか
- 2021年 5月 5日
- 時代をみる
- 中国田畑光永統制習近平
中国では政権に盾つくような、あるいは盾つかないまでも、政権の気に入らないような、文章や映像作品はすぐに人目から遠ざけられ、作者はなにがしかの処分を受けるということは、広く世界に知られている。それがつい最近また2件続けて起こった。しかし、その2件にはいわゆる「反体制」、「反権力」といった色合いは全くない。それだけ「特異」というか、「え、そこまで?」と思わせられる。新型ウイルスならぬ新型統制である。考えてみたい。
標的になったのは、1つは中國出身の女性映画監督の作品が、女性初のアカデミー監督賞を受賞したニュース、もう1つは温家宝前首相が、昨年亡くなった母親を追悼した文章である。
話の順序として、まず前者から。
ニュースでご存知かと思うが、4月25日に米ロサンゼルスで開かれた今年の映画アカデミー各賞の授賞式で、中国出身のクロエ・ジャオ(中国名・趙媜)さんが女性初の監督賞に輝いた。となれば、「国の名誉を高めた」と、中国国内では大いに喜ばれるはずなのに、実際には逆のことが起きた。中国の宣伝部門はすでに3月末までにテレビで授賞式の中継をしないように指示していて、中継されなかったばかりでなく、一般ニュースとしても報道されなかった。
というのも、アカデミー賞の前、2月に趙さんはすでにゴールデン・グローブ賞の監督賞を受賞しており、その時は中国でも『人民日報』系の『環球時報』が「中国の誇りだ」と称賛したそうだが、その後、過去に雑誌取材で趙さんが「自分が育ったころの中国にはうそがあふれていた」などと語ったことが掘り起こされ、風向きが変わって、当局に警戒されたのだということになっている。
そして23日からのはずだった受賞作品「ノマドランド」(中国名・「無依之地」)の映画館での上映も取りやめとなった。今のところ、趙さんの身になにかが起こったという話は聞こえていないが、せっかくの受賞作品は中國で公開されそうにない。
次に温家宝前首相の文章について。
この人は2003年から2013年まで、胡錦涛総書記のもとで政権ナンバー2の首相をつとめ、来日したこともあるから、見るからに温厚、生真面目といった風貌をご記憶の方も多いと思う。引退以来、消息を聞くことはほとんどなかったが、このほど突然、ニュースに登場することになった。
昨年12月、同氏のご母堂の楊志雲女史が百歳に手が届こうという天寿を全うして他界されたそうで、氏はその思い出を今年3月から4月にかけて『澳門(マカオ)導報』という新聞に週に1回ずつ4週にわたって連載した。私も読んでみたが、ご両親の思い出をたんたんと綴っているきわめて私的な文章で、なにか政治的に問題を生ずるようには見えないものである。
ところがそれがインターネット上で削除されたり、転送が出来なくなったりしているというのだ。表立っての発表はないから、別に「違法」だの「不適切」だのといったレッテルを貼られたわけではないが、と言って、自然にそういう現象が起こるわけもないのだから、なにかあるに違いないと見られている。
そこで文章の中になにか問題になる部分はないかという議論から、今のところ2か所、「あるいは」と思われるところが浮かび上がっている。
1つは文化大革命のさなか、中学教師だった父親が造反派の糾弾を受けて帰宅した場面。
「ある日、父親は造反派に顔を殴られ、腫れた眼の上下がくっついて前が見えないほどにされた。父親はじっと我慢して、みぞおちを指して、『やつら、ここを殴りやがった』と言った」。
もう1か所は全体の結びの1節。
「私の年頭にある中国は公平と正義に満ちた国であるべきであり、そこでは永遠に人心、人道、人の本質が尊重され、永遠に青春、自由、奮闘の気概が存在すべきである。私はそのために叫び、奮闘してきた。これこそが生活が私に与えた真理であり、また母親からもらったものでもある」。
この程度の文章のどこが問題なのか、と思われるだろう。
しかし、見方によれば、習近平にはまず前の文章は文化大革命の暴力性を際立たせていることが気に入らないはずだというのだ。なぜなら習近平は文革を再評価して、これまでのように「十年の災厄」といったマイナス評価から、「社会主義の新しい道の模索の一段階であった」というような半ば肯定的な評価に変えるのを望んでいると言われているからだ。その理由は、かつての文革否定は毛沢東の個人崇拝否定につながり、そこから政治改革が叫ばれるようになり、1980年代に党主席が廃止されて総書記制となり、また、2018年に習自身が憲法を改正するまで続いた国家主席の「2期10年まで」という任期制限が導入されたからだ。無期限にトップの座を守りたい習にとっては、今さら文革を蒸し返して、政治改革などの議論を再燃させたくないはずだ、というわけだ。
後の文章のほうはまあ分かりやすい。素直に読めば、温家宝は「人心、人道」以下、列挙した項目はまだ実現していない、と言っていることになり、習近平批判ともとれないことはない。
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以上が最近、中国で起こった(とまで言えるかどうか、分からないが)言論・ニュース封殺事件の概要である。これをどう受け取るか。当局のやり口は重箱の隅をつつくようで、随分きびしい、これでは息がつまる、とも言える。それはその通りだ。しかし、きびしくする理由もある。
中国共産党は、今年、結党100周年である。7月には盛大な記念行事が行われるだろう。しかし、今、習近平の頭の中にあるのは、結党100周年より来年(22年)秋の第20回共産党大会、そして再来年(23年)春の人民代表大会をどう乗り切るか、であるはずだ。
来秋の党大会ではこれまでなら総書記の改選がある。党規約では総書記に任期はないが、前回までは国家主席の任期が2期10年までと決まっていたから、それに合わせて前年の党大会で党総書記も改選されることが慣例であった。しかし、今度は国家主席にも任期がなくなったから、この2つの大会でどういう形で習近平の「居座り」をスムーズに実現するか、未知の領域で頭を使わなければならない。
どういう形が考えられるか。もっとも理想的なのは、党員にも国民にも習近平を皇帝と思わせることだ。皇帝なら任期満了はあり得ないし、そろそろ交代したほうがいい、と思っても人前では言いにくくなる。皇帝化とは、つまり生きている間、もしくは自分で「やめる」と言い出さない限り、習近平の交代はあり得ないと人々に思い込ませてしまうことだ。
じつは今回の趙媜、温家宝の両氏についての処分というか扱いがはっきりしないのは、その「習近平の皇帝化」と関係があるからではないか、と私は考えている。
どういうことか。中国から習近平以外、「立派な人間をなくしてしまう」ことだ。そんな馬鹿な!と思われるかもしれないが、どう考えても趙、温両氏の言動には批判されたり、処罰されたりする理由はない。それなのになぜニュースを差し止めたり、文章を広がらないようにするのか。その答えは、大物でも小物でも、習近平と無関係なスターや人気者、その他「立派な人間」が出てきては困るからだ。
では、中國の上から下まで凡人ばかりになるのがいいのか、そうではない。非凡な人間が出てきてもいい。いや、出てくるのは望むところだろう。しかし、そういう人間はまず口を開いたら、「私のすべては習近平主席のおかげです」と言わなければならない、あるいはそう言う人間である。そうなれば、習近平の皇帝化が進む。習近平に張り合っても無駄だ、と誰もが思うようになる。
そんなばかな、と思われるかもしれない。でも、アジアのどこかの国では、それまで何百年も民草の視野にはほとんど入っていなかった飾り物のごとき存在が、19世紀末から20世紀半ばまで「神様」の地位に祭り上げられて、多くの人間が「万歳」を叫びながら、その神様に命を捧げた前例もある。
とにかく、この世はなにが起こるか分からない。中国で文化大革命がおこることを誰も予想しなかったし、突然、改革・開放が始まった時にも世界は驚かされた。だから突然、だれかが皇帝を目指したところで驚くことはない。現に100年ほど前には実際に皇帝を名乗る軍人も出てきた国なのだから。
ただ、習近平自身がそれを望んでやっているのか、やろうとしているのか。それはまた別の問題である。望んではいないが、やらざるを得ないところに、彼もまた追い込まれているのではないか、と私は考えるが、その問題はまた機会を見て。
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