中国は「人権」をどう考えているのか ―中国共産党100年にあたって(2)
- 2021年 7月 5日
- 時代をみる
- 中国共産党田畑光永
前回(7月2日掲載)は、7月1日に結党100周年を迎えた中国共産党について、毛沢東時代の文化大革命が「10年の災厄」に終わった後、権力を握った鄧小平が1070年代末から社会主義を捨てて「改革・開放政策」に針路を変え、「外国に儲けさせながら自分たちも稼ごう」で経済を成長路軌道に乗せ、2010年にはGDP総額世界第2位の経済大国にまで上り詰めた経過をたどった。そして、その後を引き継いだ習近平は結党100周年、つまり今年(2021年)には「小康(それなりにゆとりのある)社会」を実現し、建国100周年(2049年)には「社会主義現代化強国」という「偉大な中華復興の夢」を全面的に実現しようとしていることを紹介した。
しかし、一方では、今、中国に注がれる世界の視線はきわめてきびしい。したがって、1日の習の演説には外国からの批判攻撃を撥ね返して守りを固めようとする姿勢が目立ったと書いた。今回はその続きである。
まず1日の習演説の一節をあらためて紹介したい。
「中華民族は5000余年の歴史において燦爛たる文明を形成し、中国共産党は100年の奮闘、実践、70余年の執政、興国の経験を持つ。われわれは人類文明のすべての有益な成果を積極的に学び、すべての有益な建言と善意の批判を歓迎する。しかし、われわれは教師然とした偉そうな説教は絶対に受け入れない!中国共産党と中国人民はみずから選んだ道を昂然と歩む。中国を発展、進歩させる運命は自らの手中にしっかりと握っているのだ!」
もうすこし進んだところではこうのべる。
「中国人民は他国の人民を侮ったり、抑えつけたり、奴隷あつかいしたことは過去にもないし、現在もしていないし、将来もありえない。同時に中國人民はいかなる外国勢力によっても侮られたり、抑えつけられたり、奴隷あつかいされることは絶対に肯んじない。そんなことを企むやつらは誰であろうと14憶人を越える中国人民の血肉で築かれた長城で頭を割られ血を流すことになるだろう!」
お祝いの席にしては場違いな権幕である。私はこれを聞いて、最近の香港の情勢や、中国国内の人権問題、新疆やチベットの少数民族問題に対する国際的な批判が、国内では権力を一身に集めたこの独裁者に対して暖簾に腕押しではなく、かなり痛烈に効いていることが確認できて、なんとなく安心した。
じつは批判に対するこの人の肉声の反論は昨年9月にもあった。中国とEUとの首脳会談(リモートだったが)で、EU側からの中国の人権問題に対する批判に「人権に教師はいらない」と突っぱねたのだ。
その後、中国の新聞や外交部のスポークスマンも批判に対しては反論する姿勢(“戦狼外交”)を強く打ち出してきたのだが、国内向けの「祝辞」で習がここまで肩を怒らせるのは、やはり自らの強権路線になにがしか後ろめたさを感じていればこそであろう。
その「戦狼」外交の論点は2つである。1つは「内政干渉するな」であり、2つめは「多様性を認めろ」である。しかし、「内政干渉するな」は形式論であって、反論になっていないし、「多様性」にしても、この言葉を口にするなら、自国内でもせめて言論の多様性くらいは認めなければまるで説得力がない。今の中国がこの言葉で自己弁護をするのは、「多様性を認めないわれわれのやり方を多様性の1つとして尊重しろ」という自己矛盾に陥ってしまう。
そこで中国の指導部は他国の批判に答える公式答弁を決めることにしたようなのだ。それを用意した上で1日の習演説も行われたと思われる。といっても、私が鼻をきかせてかぎつけたというほど大それたものではなく、習演説の1週間ほど前にその内容は明らかにされていた。
まず6月24日、「人権を尊重し、保障する中国共産党の偉大な実践」と題する長い文章が発表された。発表元は「国務院新聞弁公室」。「国務院」は日本でいえば内閣、「新聞」は報道あるいはニュース、「弁公室」は事務室だから、日本流にいえば「内閣報道室」(この名前の部署は日本の首相官邸にも存在する)であるが、出所の名前が体を表す通り、この文章は学術的に中国の人権問題を扱ったものでなく、まさに報道の世界で取りざたされる中国の人権について中国政府の立場を明らかにする目的の文書である。これをたどって、中国の人権状況を覗いてみよう。
文書は建国以来の「人権事業」の発展段階を三段階に分けて俯瞰している。第一段階は建国から文革終了(1949年~76年)までで、人権発展のための政治的、制度的基礎固めの時期。第二段階は改革開放期(1978年~2012年)で、社会の生産力が発展し、人権事業も大発展を遂げた。そして第三段階は習近平のもとで貧困からの脱出に成功し、小康社会の建設に決定的な成果を上げた(2012年以降)とされている。
では中国で「人権」という言葉が意味する内容はどんなものか。以下の言葉が並んでいる。
「経済・社会・文化を保障する権利、とくに仕事を保障する権利、基本的生活水準の権利、社会保障の権利、健康権利、教育を受ける権利、環境権利、財産権利など、各人の生存、発展にかかわること」
読んでなんとなくピンと来ない感じを受けられたのではないだろうか。概して「中国」では人権といっても、個人にかかわるよりも、社会全体の生活条件を意味する場合が多い。例えば仕事を保障する権利で引き合いに出されるのがGDPの成長であったり、失業率の改善であったりする。教育を受ける権利では、義務教育の普及率や高等教育を受ける学生の総数が呈示される。移動の自由では高速道路の普及率が紹介される、といった具合である。
たしかにGDPの成長率や教育の普及率、高速道路の伸び率も人権状況の改善につながるだろう。でもなんだかピンと来ない。その理由を考えてみると、「衣食住」(とそれに「行」を加えてもいい)の各種生活条件の全体的レベルを上げることは間違いなく人権状況を改善するが、それは「人権」の半面であって、もう半面には「個人の意思」が社会的にどこまで尊重されるか、逆に言えばどこまで制限されるか、という重大な問題があるはずなのに、それが抜け落ちているところにピンと来ない原因があると言えるだろう。
勿論、この「文書」もそうした種類の「人権」に触れていないわけではない。「知る権利」、「(政治)参与權」、「表達(発言)権」、「監督権」などについて「改善は続いている」という記述がある。しかし、そこに例示されているのは、新しい法律を制定するにあたって、事前に公開で意見を求める制度があって、これまでに「民法典草案に42万5762人から102万1834件の意見が寄せられた」とある。これをもって上記の「表達権」が保証されていると言えるのか、首を傾げざるを得ない。
クビを傾げるどころではすまない記述もある。たとえば、「刑事訴訟法には、人権の尊重、保障が総則に書かれ、推定無罪の原則が明確に規定されている」と国務院文書にはある。しかし、最近まさに世界の注目を浴びている「香港国家安全法」の42条は「犯罪被疑者、被告人に対して、裁判官は国家の安全を脅かす行為を引き続き行うことはないと信ずるに足る十分な理由がない限り、保釈を認めてはならない」と明記している。無罪推定どころか正反対の有罪推定である。
この条文で「りんご日報」の創業者らは「外国と共謀して香港政府を転覆させようとした」といった大げさな容疑で保釈を認められないでいる。国務院新聞弁公室がまさか香港で起きていることを知らないはずはなかろうに。
刑事訴訟法の規定に反する法律が香港でまかり通っていることをどう説明するのか。これが中国式「一国二制度」だと強弁するなら、卑劣なブラックユーモアと言うしかない。
また明らかに最近の政府の政策と矛盾する記述もある。文書は「宗教を信ずる自由を実行」として、「中国は終始、国情および宗教の実際から出発して、政教分離と宗教信仰自由の政策を実行し、宗教の調和を守り、積極的健康的な宗教関係を構築し、公民の宗教を信ずる自由と信じない自由権利を尊重、保護する。国家は正常な宗教活動を保護し、法律に従って国家利益と社会の公共利益にかかわる宗教事務を管理するが、宗教の内部事務には干渉しない」と謳っている。
しかし、昨年の8月と9月に開かれた「中央チベット工作座談会」、「新疆工作座談会」(いずれも習近平以下トップ7人の政治局常務委員が出席した最高級の会議)では、それぞれの宗教の「中国化を推進する」方針が打ち出された。「中国化」の内容についての説明はないが、チベットの仏教も新疆のイスラム教も中国発祥の宗教ではない。それを「中国化」するとなれば、「内部事務」(内容)にふれない「中国化」というのは想像できない。文書の記述は明らかな虚偽である。
少数民族ついて言えば、「文書」は触れていないが、昨年、内モンゴル自治区での「モンゴル語教育」を制限する政策が反発を呼んでいることがニュースになった。少数民族の言語の問題はもとより内モンゴルに限った話ではない。他の民族自治区にも共通する。自分たちの宗教や言語について、他人からとやかく言われたくないというのは、もっとも基本的な人権であるはずだ。こういう自らの主張のほころびに無神経なところが強権主義政権の特徴なのだろう。
さて、最近の国務院新聞弁公室の文書はこれだけではない。人権文書が出た翌日、6月25日には「中国の新型政党制度」という文書が出た。まさに「民主」の核心の問題である。次回はこれについて紹介する。 (210704)
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