天皇のオリンピック開会宣言は、本来越権である。
- 2021年 7月 14日
- 評論・紹介・意見
- 澤藤統一郎
(2021年7月13日)
権力と金力とに過剰に結びついた今日の五輪は本来なくすべきものである。少なくとも、五輪開催の積極的意義は認めがたい。にもかかわらず、コロナ禍を押しての東京五輪の開催強行。とうてい正気の沙汰ではない。開催中止では困ると横車を押す人々がいるのだ。「何がなんでも開催だ。その結果がどうなろうと知ったことではない」というとんでもない連中が実権を握っていて、コロナ禍に加えての五輪禍を拡大し続けている。
無観客で行われるという開会式の予定日まであと10日である。無観客でも、多数の関係者による人の流れと渦とが、動くことになる。コロナ感染や拡大の危険はつきまとう。まだ間に合う。あきらめず、「東京五輪中止」の声を上げ続けようと思う。本日発表の読売世論調査(東京)でも、中止派が50%で、無観客開催派28%を大きく上回っている。都民にとって、オリンピックは鬱陶しいものになっている。
ところで、無観客の開会式が強行された場合、そこに天皇は出席するのだろうか。開会宣言を読み上げるのだろうか。
いうまでもなく、象徴天皇とは政治的な利用を予定された道具としての存在である。天皇自身の判断や意見表明はあってはならず、神聖な天皇像を強調するか、マイホーム皇室像を演出するか、政権の判断と思惑次第なのだ。開会宣言問題についても、政権にとって、どう天皇を扱うのが最も有効な政治的利用になるかを今考えている。
巷間言われているところは、「世論二分の渦中において、オリンピック開催に祝意の表明は無理だろう」という憶測。端的に言えば、「世論の過半はオリンピックに反対なのだから、天皇に開会宣言をさせると天皇の評判はがた落ちになる。それでは、長い目で見た天皇の政治利用のあり方としてまずい」のだ。では、どうするか。これがちと面倒。
世間が東京五輪開催歓迎のムード一色のときは、天皇の出番だ。開催に祝意を表明させることで、天皇の民衆からの支持は高まり、政治的利用の道具としての有用性もさらに高まることになる。しかし、今、少なからぬ人がコロナに命を奪われ、病床に伏し、多くの人が職を失い、弱い立場にある者ほど生活苦にあえいでいる。土石流や大雨の被害の記憶も生々しい。こんなとき、天皇に国民の生活苦と遊離した祝意を述べさせるのは危険、そう考えざるを得ない。当たり前のことだ。
では、天皇(徳仁)に開会を宣言させるとして、政権は、国民をねぎらうべきどのような文言の工夫をして、天皇に読み上げさせるのだろうか。そのように一瞬思った私が愚かだった。そんな余地はないのだという。
不敏にして知らなかったが、オリンピック憲章の中には、開会宣言の文句は決まっているのだそうだ。天皇(徳仁)は、こう述べるほかはない。
「私は、第32回近代オリンピアードを祝し、オリンピック東京大会の開会を宣言します。」
たったこれだけの脳天気な祝意の表明。これが、オリンピック憲章第5章4プロトコールの3に明記されているという。コロナ禍も、コロナ禍が暴き出した社会の矛盾も、それによる国民多数の労苦も、土石流の被害者の涙も、復興にはほど遠い原発事故被害も、なにもかにもどこ吹く風の祝祭の別世界。本当にこのとおりやったとしたら、いい気なもんだと炎上ものだろう。
ならば、天皇(徳仁)の開会宣言はなしにしたらどうかという提案が出て来る。開会宣言なしにするか、あるいは別の誰かにやらせるか。先に引用したオリンピック憲章には、「オリンピック競技大会の開会宣言は開催国の国家元首によって行われる」とあるそうだ。
政府はこれまで、オリンピック憲章における「国家元首」を天皇と解釈して、前回東京五輪と札幌冬季五輪は昭和天皇(裕仁)、長野冬季五輪は当時の天皇明仁に開会宣言をさせた。これも、保守政権の思惑あっての政治利用である。しかし、政府もこの見解に自信をもっているわけではない。ここで、政府がその解釈を変更して、「日本の元首は、実は天皇ではない。内閣総理大臣なのだ」として、菅義偉得意のペーパー朗読をする手はあるのだ。
周知のとおり、大日本帝国憲法第4条は、「天皇ハ國ノ元首ニシテ統治權ヲ總攬シ此ノ憲法ノ條規ニ依リ之ヲ行フ」と天皇を元首と明記していた。「元首」とは、対内的には統治権を掌握し、対外的に国民を代表する地位にあるものを言うとされた。当時の天皇は、まさしく元首であったろう。
しかし、日本国憲法は、これをご破算にして天皇を「象徴」とした。つまりは、天皇の元首としての地位や権能を積極的に否定したものと理解する以外にない。現行憲法下においては、天皇は元首ではない。
だからこそ、自民党は結党以来、憲法改正のテーマとして、「天皇の元首化」を求め続けてきたのだ。2012年4月の自民党改憲草案も、その第1章・第1条は、「天皇は、日本国の元首であり…」から始まっている。これが守旧派のとんでもない夢なのだ。この「改正」のメドも立たぬ今、天皇を元首と言ってはならない。
従って、本来政権は「天皇は元首ではないから開会宣言はさせません」と言うべきだったのだが、開会式直前の今これを言い訳に使ってもよい。あるいは、オリンピックそのものを中止とすれば、そんなことを考えるまでもないのだが。
なお、オーソドックスな政府見解も天皇を元首と言いきることはできない。第113回国会1988.10.11参議院内閣委員会で、政府委員(大出峻郎・当時内閣法制局第一部長、後に最高裁裁判官)が、こう答弁している。
「天皇は元首であるかどうかということに関連しての御質問かと思いますが、現行憲法上におきましては元首とは何かを定めた規定はないわけであります。元首の概念につきましては、学問上法学上はいろいろな考え方があるようでございます。したがいまして、天皇が元首であるかどうかということは、要するに元首の定義いかんに帰する問題であるというふうに考えておるわけであります。
かつてのように元首とは内治、外交のすべてを通じて国を代表し行政権を掌握をしている、そういう存在であるという定義によりますならば、現行憲法のもとにおきましては天皇は元首ではないということになろうと思います。
しかし、今日では、実質的な国家統治の大権を持たれなくても国家におけるいわゆるヘッドの地位にある者を元首と見るなどのそういう見解もあるわけでありまして、このような定義によりますならば、天皇は国の象徴であり、さらにごく一部ではございますが外交関係において国を代表する面を持っておられるわけでありますから、現行憲法のもとにおきましてもそういうような考え方をもとにして元首であるというふうに言っても差し支えないというふうに考えておるわけであります。」
つまり、元首という言葉の定義を思いっきり緩くすれば、「天皇を元首と言えなくもない」という程度の頼りないものなのだ。もちろん、オリンピック憲章にも元首の定義規定はない。だから、厳密には天皇が元首として振る舞い、開会式の宣言をすることは越権なのだ。違憲と言ってもよい。だが、これを訴訟で争う手段は思いつかない。
初出:「澤藤統一郎の憲法日記」2021.7.13より許可を得て転載
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