小三治の思い出
- 2021年 10月 16日
- 評論・紹介・意見
- 澤藤統一郎
(2021年10月15日)
小三治が亡くなった。
私は、小さん(5代目)を面白いと思ったことはなかったが、小三治の噺は面白いと思って聴いてきた。私は、談志は嫌いだったが、小三治は大好きだった。
盛岡に居たころ小朝が県民会会館のホールを満席に埋めて何席かやった。演し物は「たらちね」と「紀州」だけは覚えている。少し際どい皇室ネタで笑いを誘っていた。最後は大きなネタをやったはずだが記憶にない。さすがに巧みな語り口で感心はしたが印象に深くない。
そのあと、小三治を聞いた。場所は、街中のそば屋の二階座敷だった。即席の高座を囲んで座布団を並べた客席。オートバイで東京から乗り付けた小三治ともう一人の噺家が熱演した。なんとも贅沢な一晩。
小三治のマクラの長いのは有名だが、この日もたっぷり。聴衆が聞き上手だった。マクラへの聴衆の反応に、小三治が乗ってくる手応えを感じた。だんだんと、江戸の火事の話から、当時の商家のこと、ゼニとカネとは違うという話。ああ今日のネタは「鼠穴」か。
端折るところのない完璧な「鼠穴」。この噺、こんなに濃厚で、こんなに長編だったか。改めてそう思わせられた、満腹感たっぷりの熱演。人の運命の有為転変、兄弟の愛憎の微妙。そして親子の情愛、そして人生への絶望…。終了予定時間をはるかに超えた至福のひとときだった。当時小学生の息子も、小朝よりは小三治のファンになった。
その後、「赤旗祭」で小三治を聞いた。これも贅沢な話。そば屋の二階の感動はなかったが、やはり楽しかった。「私は何党であろうが呼んでいただけたら、そこに落語を聞いてくれる人がいるんだったら喜んで行きますよ。こんなに面白くていいものはないんですから。ええ。」と、妙に力んでしゃべったことが耳に残っている。何かあったのかと思わせた語り口。
飄々とした独特の語り口は、「名人」とか「間国宝」などという肩書には不釣り合いだった。ともかく、聴いていると楽しいし、面白い。この人が出るというので何度か鈴本にも足を運んだが、結局は行列に並ぶのがイヤだし、満席だしで、しばらく聞く機会がなく、そのうちにと思っているうちの訃報となった。亡くなる前の最後の公演は10月2日、府中の森芸術劇場での『猫の皿』だったそうだ。マクラもしっかり振り、声も大きく出ていたという。ああ、それを聞けた人がうらやましい。
手許にある、講談社文庫の「ま・く・ら」「もひとつ ま・く・ら」を読み直してみる。やはり、無性に面白い。その中の一節をご紹介する。長い長い「ま・く・ら」のごく一部の切り取りである。
あたくしの親父がね、終戦のとき小学校の校長をしてまして、むかしは『教育勅語』なんてのを読まされたんですよ、校長先生は。
毎朝、朝礼のときにね、紫の袱紗(ふくさ)からうやうやしく『教育勅語』ってのを、紙を取り出してね。「朕思うに、わがコーソコーソー(皇祖皇宗)」なんてね。なんかまじないの文句かしらと思うようなことを言うんですよ。つまり教育ってのはこういうふうでなくちゃいけないってぇんですね。大まかの内容はとてもよいものなんですよ。
で、あたしの親父はね、朝起きるとね、宮城遙拝なんて懐かしい言葉がありましてね、宮城遥拝。どういうのかっていうと、宮城のほうに向かって手を合わせるんです。
キュウジョウっつったって後楽園球場じゃありませんよ(笑)。皇居のある宮城へ向ってね、朝、柏手打って、パンパンッ、はーっ、なんて拝んでンですよ、庭へ出て。
何してンの? っつったら、天皇陛下を拝んでるっていうんです。
なんで拝むんだってったら、天皇陛下は神様だって言うんですよね。
正直言って、子供心に納得いきません。天皇陛下が神さん? だって写真で見ると人の形してますからね。神様ってなんか形があるような、ないような、もし人間の形してとしたら、腰から下は幽霊のようにフワァ〜と何だかわかんなくなってる、そうぃうよなもんじやないかというような頭を持ってましたからね。
神様だったんですよ。毎日毎日やってるから不思議でしたね。
ある日、親父がこうやって目ぇつぶってこうやって拝んでるとこへ行って、
「ねえ、おとうちやん、天皇陛下はウンコするの?」
っつったら、いきなりバッカーンと殴られた(笑)。
初出:「澤藤統一郎の憲法日記」2021.10.15より許可を得て転載
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