二十世紀文学の名作に触れる(28) 『武器よさらば』のヘミングウェイ――戦争の非人道性を文学者として厳しく告発
- 2022年 5月 7日
- カルチャー
- 『武器よさらば』ヘミングウェイ文学横田 喬
ヘミングウェイほど行動的な作家は珍しい。第一次大戦に赤十字要員として従軍~負傷。スペイン内戦や第二次大戦にも従軍記者として参加した。彼が一貫して描いたのは、戦争というものが本質的に孕む悪である。現今のプーチン・ロシアによるウクライナ侵攻の惨状に照らしても、その非人道性は明らかだ。「侵略戦争の酷たらしさ」をヘミングウェイ張りに告発する作家が近々現れないものか。
アーネスト・ヘミングウェイは1899年、米国中西部のイリノイ州に生まれた。父は医師、母は声楽家で、姉と妹四人がいた。父は活動的な人物で、釣りや狩猟、ボクシングなどをたしなんだ。彼は父からそれらの趣味の手ほどきを受け、生涯の人格を形成していく。
高校卒業後の1917年、カンザスシティの地方紙の見習い記者になるが、すぐに退職。翌年、赤十字の一員として第一次世界大戦最中の北イタリアのフォッサル戦線に赴く。負傷兵を助けようとして自身も瀕死の重傷を負う。この折に病院で七歳年上の看護婦に恋をするが、実らずに終わる。この原体験が後年の著作『武器よさらば』のモチーフとなっていく。
同年11月、第一次大戦が終結。負傷~本国送還の身となった彼は治癒後、カナダ・トロントの地方新聞のフリー記者を勤め、特派員としてパリへ渡る。ここでガートルード・スタイン(米国の作家・詩人)が開くサロンに出入りし、スタインやエズラ・パウンド(米国の詩人・批評家)の感化を受けて小説を書き始める。スタインは「(文章を)削りなさい」と教え、パウンドは「別世界を見ろ」と説いた。
まず26年、出世作となる『日はまた昇る』を著す。主人公ジェイク・バーンズには相思の仲の女性ブレットがいた。が、彼は第一次大戦で下半身を負傷し、二人が体を通して結びつくことはない。ブレットは人との温もりなしでは生きられず、多くの男と関係を持つ。二人はスペインに旅行し、ブレットは若い闘牛士と出会って惹かれ、駆け落ちしてしまう。
29年には『武器よさらば』を刊行する。前述したように、彼は北イタリア戦線で負傷~入院し、介護に当たってくれたアメリカ人の看護師アグネスと恋に陥った。が、帰国した彼に彼女は訣別の手紙を送ってくる。「好きだけど、恋人というより、母親のような感情。あなたは傷つくかも知れないけど」。この折のトラウマが止揚の機会を迎えるのが同作だった。
主人公の「僕」すなわちジェイクが「戦争とおさらばしよう」と決意する契機が、戦史上も有名な「カポレット(現スロベニアのコパリード)の敗走」。17年10月24日から始まったドイツ軍の大攻勢で、イタリア軍は北東部の戦線で作戦の誤りから大敗北を喫する。半月余で捕虜になった24万人を含め、30万人もの兵力を一挙に失う。この史実がヘミングウェイを強く捉えたに違いなく、ジェイクの戦線離脱の直接の動機として位置づけられている。
見逃せないのは、ヘミングウェイの戦争観だ。作中でジェイクと将校仲間や部下の兵士たちとの語らいを通じ、長引く大戦をどう感じているかが浮き彫りになる。将校たちは仲間内
では公然と厭戦気分を口にし、兵士たちは「戦争は質が悪い」「みんなが戦争を嫌ってる」と語り合う。ちなみに、この『武器よさらば』は、かの独裁者ムッソリーニ統治下のイタリアでは発禁処分に付されていた。戦争の実態を余りにも明らさまに描いたが故に、であろう。
36年には『キリマンジャロの雪』を発表する。彼がアフリカへ狩猟旅行に出かけた折の体験が基。書き出しは「(アフリカ第一の高峰)キリマンジャロはマサイ語で“神の家”という意味で、その山頂には一頭の凍りついた豹が横たわっている」。現地での狩猟体験は余りにも過酷で、彼はアメーバ赤痢に罹り、一時はナイロビで療養生活を余儀なくされた。
この後、36~39年にスペイン内戦が勃発すると、ヘミングウェイは行動派らしく現地に入る。人民戦線側へ積極的に関わっていき、40年に『誰がために鐘は鳴る』を著す。主人公ロバート・ジョーダンはファシズム打倒を志し、スペイン内戦に加わる。ファシストに家族を殺された女性マリアと現地で出会い、運命的な恋に落ちる。ジョーダンはやがて橋梁爆破~敵の行軍妨害の危険な任務に向かう。極限状態における極限の恋愛、と言えよう。
そして52年、生前に刊行されてベストセラーになった最後の作品『老人と海』を著す。
キューバの年老いた漁師サンチャゴが独りで三日間にわたる死闘の末、巨大なカジキを釣り上げる。巨き過ぎて引き揚げられず、船腹に括り付けて帰港しようとするが、血を嗅ぎつけたアオザメたちが襲って来る。サンチャゴは必死で追い払おうとするが、カジキは次第に食いちぎられ、港に帰り着いた時には骨ばかりになっていた。老人はそれでもなお、敗れたとは思わなかった。同作は高い評価を受け、この年のピューリッツァ賞を受けている。
この作品が大きく評価され、ヘミングウェイは54年にノーベル文学賞を受賞。が、同年に彼は二度の飛行機事故に遭う。二度とも奇跡的に生還したが、重傷を負い、授賞式には出られなかった。以降、これまでの売りだった肉体的な頑強さや行動的な面を取り戻すことはなかった。晩年は事故の後遺症による躁鬱など精神的疾患に悩まされるようになり、執筆活動も滞りがちになっていく。61年7月2日早朝、散弾銃による自殺を遂げた。享年61歳。
第一次大戦以降、第二次大戦に至るまで、ヘミングウェイは作家として、またジャーナリストとして、数々の戦場に立っている。そうした生々しい体験を通じ、彼が一貫して描いたのは戦争というものが本質的に孕む悪だった。その生涯を通じ、彼が戦争の勝利の高揚を描いたことは一度もない。彼は“戦争の世紀”とも言われる二十世紀の冷静な観察者であり続け、戦争による人間性の破壊に対する冷徹な告発者であり続けた。
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