ひとり、またひとりといなくなる
- 2023年 2月 15日
- 時代をみる
- 共産党阿部治平
――八ヶ岳山麓から(416)――
2月6日日本共産党が松竹伸幸氏を除名したことについて、私の感じたところを本ブログに書いたばかりであるが(「八ヶ岳山麓から415」)、おそらく次の標的にされるであろう鈴木元氏のこともここに書いておきたい。鈴木元氏については前ブログでも紹介したが、1944年生れ。18歳で共産党に入党して以来、党歴60年のベテランである。
京都の共産党は、かもがわ出版の松竹信幸氏を除名した理由書で、鈴木氏の著作『志位委員長への手紙』(かもがわ出版 2023・01)を共産党に対する攻撃を書き連ねたものと非難している。
本の帯には「貴方はただちに辞任し、党首公選を行い、党の改革は新しい指導部に委ねてほしい」とある。挑発とも思える文言だが、中身は批判と提案である。氏は、いわゆる研究者ではないが、党活動の豊富な経験と深い学識、冷静な情勢分析にもとづいた説得力ある議論を展開している。
ところが、それは戦後共産党史ともいえる内容で、わたしの力では概要を一口でいうことができないので、以下に目次の大項目を要約して記すことにする。
第一章 21年、22年の国政選挙で明らかになったこと
――先の衆参両院の選挙にみる党勢衰退の惨状とその問題点
第二章 安全保障政策に関する覚悟を決めた議論を
――共産党の防衛政策の変遷、アメリカ発の戦争よりも中露の危険が急上昇。安全保障を軍事論・憲法論だけでなく考える。多様な抑止力。日本が侵略された場合
第三章 多数決制の定着と党首公選を求める
――満場一致をよしとしたことの弊害。宮本顕治氏の誤りとその権威の源泉。「革命党の幹部政策」についてのナンセンスな論文
第四章 「党勢拡大月間」はいったん中止し、あり方を抜本的に検討する
――拡大の繰り返しで疲弊した党員。鈴木氏の経験。改革をしなかったために逃した党拡大のチャンス。青年分野での党建設のために「新日和見主義」の再調査・総括を
第五章 社会主義の理論問題で決着をつけておくべきこと
――スターリン、トロツキーの本格的評価をしなかった問題。混迷している現代社会主義国論。「社会主義国」の歴史上の位置づけ
第六章 「新たな前進を遂げるために分析・評価しておくべきこと
――あまりにも多くの知識人を切り捨てたことへの反省を
第七章 日本共産党の歴史とかかわって
――志位委員長の「党創立100周年記念講演」について。宮本路線の成果と限界。戦前の活動と丸山真男批判の是非。「50年問題」の整理とソ連からの資金援助問題
第八章 日本共産党の新生を願っての改革提案
――マルクス流共産主義を目標から外し、社会変革を願う人々との共同に努める。高度の社会福祉社会をめざす。党員参加の党首選挙の実施。指導部の任期、定年制度を。党員の義務についての再検討を。党名問題。新しい幹部と新しい路線を持とう
わたしが鈴木氏の本で注目したのは、マルクス以来の「社会主義」についての見方である。ソ連・東欧が崩壊したあと、「社会主義はどうなるか」という問いに対して、日本共産党は2004年の党大会で、中国・ベトナム・キューバを、「社会主義をめざす新しい探求が開始され、人口が13億を超える大きな地域での発展として、21世紀の世界史の重要な流れのひとつとなろうとしている」と答えた。
中国を天まで持ち上げる評価をくだした主な人物は、共産党最高理論家とされる不破哲三氏である。不破氏は2002年から数回、中国共産党中央の理論家たちと討論会をやり、国営資本などを経済の「瞰制高地(かんせいこうち=戦略拠点)」としてしっかり握ること、などと説教した(不破哲三著『マルクスは生きている』(平凡社 2009)。
中国側がこれをどう受け止めたかは、私のようなものでもわかる。天安門事件以後の中国の経済学界は「マルクス先生さようなら、ケインズ先生・フリードマン先生こんにちは」という雰囲気だった。中国の学生たちはわたしに例外なく「社会主義の後は資本主義が来る」といった。
不破氏の「中国は社会主義をめざしている」という評価は、氏との討論に参加した中国の理論家にとっては、表向きはともかく、内心はきまりの悪いものであっただろう。
鈴木氏はいう。「それから20数年経った(共産党の)2020年の第28回党大会において『中国はその乱暴な大国主義から、もはや社会主義とは言えない』というと同時に、志位委員長・貴方は『その経済の在り方について言うことは内政干渉になるので言えない』としています。野党で権力に関わっていない共産党が中国経済について分析し評価を述べることがなぜ内政干渉になるのですか」
「要するにかつて不破氏等が『中国は社会主義計画経済と市場経済を結合し創造的探究を行っている』と言っていたことがまったく誤っていたことを認めたくないだけではありませんか」
そこで鈴木氏は、社会主義は現実の政治目標となりうるのかと問う。
同氏によれば、共産党は「そもそも社会主義・共産主義はマルクスが述べているように資本主義の先進国からの変革が大道である」と言い出したが、先進国では日本だけで共産党が大衆的共産党として存在しているなか、その党も暫時その影響力を失っている。そうであるならば、もはや社会主義は目標になりにくいという。
率直にいえば、西ヨーロッパ諸国では共産党が無くなっているのに、先進国での社会主義革命もないものだということである。
氏は、マルクスの構想した社会主義から脱却せよという。「さしあたって、まずは『北欧型福祉国家』+『南欧型協同組合運動』を追求すべきではないか」という。
鈴木氏は、『ポスト資本主義のためにマルクスを乗り越える』 (かもがわ出版、 p280)で「我々のめざす運動はマルクスがどういったかを方向性とするのではなく、現実の社会状況、国家制度、運動をもとに、国民の願いにこたえて運動を積み重ねて行く方向に答えがあると考える」と言っている。
では、ついこの間まで地球上にあったソ連・中国などの社会主義をどう位置付けるか。
「レーニンや毛沢東は主観的意図としては『社会主義をめざした革命』を行ったのでしょうが、……その経済的・政治的・文化的基盤から社会主義へ移行することはできませんでした。……圧倒的多数を占める農民からの収奪により『本源的蓄積』を行い工業化したものの、独裁体制下の硬直した計画経済が破綻し『社会主義に行き着く前に崩壊した』と考えざるを得ないと思います」
だから、ソ連や中国は、「客観的には資本主義へ向かう独特の過渡期の政権・社会であった」というのである。
これは結果論であるが、わたしもこうとしかいいようがないと思う。
著作を読む限り、鈴木氏はできるだけ客観的に事実に即して冷静に物事を考えようとしている。共産党と志位委員長に対しては、舌鋒が鋭いときもあるが、悪意ではなく善意の批判をしていると私は受け止めた。これを共産党はなぜ党に対する攻撃とみなすのか。なぜ反共評論家と真の批判者の区別がつかないのか。
ひとつには共産党の組織原則が、異論を排除する強い傾向をもつものだからである。それに1960年代、70年代に入党した人は、たいてい党中央に忠実であることを良い党員の基準としているから、松竹氏や鈴木氏の問題提起を党に対する攻撃とすることに躊躇がない。
鈴木元氏はまもなく共産党から処分されるだろう。だが、そのあとに何が残るだろうか。
(2023・02・07)
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