わたしと戸籍 ― 「戸籍」私史(その13)
- 2023年 4月 3日
- 時代をみる
- 戸籍池田祥子
Ⅸ また新しい暮らしへ
(1) Aさんとの別れの伏線
Aさんとの暮らしは、家事や子育てを、身体的に「共同」できる快適さと楽しさを味合わせてくれた。また、大人二人、あるいは子ども含めた一つの「家族」だけの世界に閉じこもるのではなく、気心知れた仲間達との共同の企てや集いなどで、子どもたちとの関係も相互に開かれ、私自身もより広い豊かな楽しみを味わうことができた。
その暮らしを始めた時、私は34歳、Aさんは43歳だった。
そのAさんが、「ボクの〝サカリの時期”は終わったよ」と、本気だか冗談だか、友人に話していた時は、周りも私自身も、アラアラ・・・と、微笑みながらやんわりと受け止めていた。しかし、前回記したように、「ボクは女の人から先に声をかけられるとその気が失せちゃうんだよ」と直接に言われた時、私はあまりに予想外だったしその分衝撃も大きかった。
確かにその時は、私から誘ったのだった。スキンシップ(愛撫)は相互的なものだと疑ってもいなかったからだ。今から思えば、私も意地っ張りだったのだろう。自分から性的なことを望んで、それをぴしゃりと拒まれてしまった「みっともなさ」に耐えられなかったのかもしれない。「どうして、どうして?そんなこと言わないでよ」とでも軽く非難したりお願いしたりすれば、あるいは状況は変わっていたのかもしれない。しかし、私はその瞬間、ピタリとAさんとの「性的な関係」は断念した。そんな一方的なことを言うなら、私からお断りします!と、無言のまま宣言?したのだった。
男と女(あるいは同性同士)の共同の暮らしの中で、「性」の占める範囲は、あるいは千差万別なのかもしれない。「性」というものがほとんど介在しなくても、仲良く続くカップルもあるだろうし、「性」の関わりがなくなれば即別れ、という場合もあるだろう。その頃の私は、もちろんその言葉一つで、Aさんとの暮らしはナシ!という風にはならなかった。「性」が介在しなくても、そこそこ快適な暮らしは続けていける、とも思っていたからだ。
しかし、正直「寂しさ」は隠せなかった。夫が「仕事」ひたすらだった最初の結婚の暮らしの中の「寂しさ」と同じではなかったが、ただ、どこか共通するものでもあった。他人に相談することでもなかったし、またまた私は一人で「寂しさ」を抱えながら、素知らぬ顔をして生きる「女」になっていた。
(2)別れのきっかけとしての「新しい恋」
不思議なものだが、どこか満たされない思いを抱えながら、表面的にはそれまで通り、一見仲良く暮らしていても、何か行き違いや思い違いが生じた時、必要以上に激しく言い募ったり怒ったりする自分に気がついた。そして、当然、私のそのような振る舞いの変化はAさんにも伝わるし、Aさんなりに不快感を溜めていったのかもしれない。
それでも、生活も関係も日常的には続いていく。その中で、私は職場や研究会仲間との軽い「恋」めいた関係を、後ろめたさ無しに楽しんでいた。
1983(昭和58)年、私は40歳になった。その頃、職場の事務の窓口に若い男性が3、4人就職してきた。会計や総務の担当だった。一方、短大を良い成績で卒業した女子学生も、研究室の助手や事務の窓口にそのまま就職となっていたから、お昼休みなどは、新入りの男女の笑い声も響いていた。中には、そのままカップルとなって結婚した者もいる。
その中に、京都の大学院を修士で終えて上京したというKさんもいた。何でも、東京都立大の大学院に夜間通っているということだった。できればさらに大学院へ入り直し、行く行くは民俗学の研究者を志望している、と私の耳にも入ってきた。
ところが、ある日、私が印刷室で作業をしていると、偶然、そのKさんが印刷の用事でやってきた。「こんにちは!」と挨拶を交わしたのだったが、Kさんが思いがけないことを質問してきた。「あの~失礼ですが、池田先生は安田講堂から、直前に退去してきたのですか?」・・・あまりに突然のことでびっくりしてしまった。
後で分かったことだが、Kさんは新左翼のある党派にシンパシーを持っていて、三里塚闘争にも参加していたとか。職場の噂話で、私が東大闘争に関わっていたことを耳にして、機会があれば聞いてみたい、と思っていたというのだった。
それから研究室で、1、2度話をして、Kさんが書いた小説もあるというので、借りて読んだこともある。これから大学院の後期課程に行こうという20代半ばの男子である。私はお節介ながらも、「教師根性」というか「先輩面」というか、私にできることは少しでも手助けできれば・・・とも思っていたのだろう。
その後の細々したことは省略しよう。ともあれ、「東大闘争」のこと、新左翼内部の「内ゲバ」のこと、等々、かなり立ち入った話をするようになっていた頃、Kさんは過労のせいなのか、栄養不良だったのか、突然「結核」で休職して、療養をすることになった。病気が病気ゆえに、お見舞いにも行かず、その内に退院したという噂が聞こえてきて、それから間もなく、本人が直接、短大の事務の窓口に「お世話になりました!」と挨拶をしにやって来た。
それからどのくらい経ったのだろうか。「Kさん、また休んでるよ」と、誰からともなく聞こえてきた。京都の母親に末期の「卵巣癌」が見つかって、その介護のための休暇ということだった。初めは学園でも「お気の毒に」という同情や、「感心ね」という声も聞こえていたが、かなり長期になると、上司の人たちは次第にイライラ感を漂わせていた。
その頃だったか、私も京都の自宅や病院宛に手紙を出すようになった。そしてKさんからも手紙が届くようになった。それから間もなく、母親の死去と葬儀。学園からは事務長が職務上出席したが、私もまた、放っておけずに、葬儀に参列した。
しかも、母親の病気と死去の後、父親は別の女の人と暮らし始めたこと、それをきっかけにして、Kさんも父親とは関係が切れたと・・・何とも切ない話である。
ただ、当時、Kさんが同年代の女の人と付き合っていることも知っていたし、私がかなり年上ということもあって、未だ、「姉」か「保護者」の立場からの気持ちに近かったのかもしれない。
ところが、その後、学園の事務に復帰したKさんとは、以前よりも密に話をするようになり、足りない部分はメモ用紙に意見を書き、それに対する反論もまた書き、と互いの思想をぶっつけあい、本気度も増していった。それがいつ「対等な恋」へと質的に変化したのか、今となれば確かではないが、ともかく、Kさんが付き合っていた女性と別れたことを、私に告げたことは大きかった。
それは、私に対しても、Aさんとの関係を問われることでもあったからだ。
(3)子どもたちとの関係―M(小3)、A(小1)
Aさんに「別れ」を切り出した時、Aさんは「ボクもうっすらそう思っていましたよ」と言いつつ、「マンネリ化するのを、互いに見ていただけでしたね」と悲しそうに笑った。それに対して、私はやはりゴメンナサイと頭を下げた。
ただ、子どもたちMとAに対しては、これまで通り「父親」として関わってほしいと思ったし、彼もまたそれに異存はなかった。
そして、MとAに対して、私が事情を説明することになった。
「Aさんは、これまで通りあなたたちのお父さんに変わりはないし、これまで通り、この家に来たり、遊んだりするよ。でも、お母さんは、Aさんとは別れて、これからはKさんと暮らすことになったの」・・・
しばらく黙ったままの時間が流れた。小3のMは涙を流している。申し訳ないな、と思いつつ、「ごめんね・・・」と声が漏れた。その時、Mは泣きながら、私に向かって必死で抗議をした。「お母さんはヒドイよ。カッテなことをして・・・ボクのジンセイ、メチャメチャになったじゃないか・・・」
それまで、ごめんね、ごめんね、と思っていた私だったが、そのMの言葉を聞いて、いきなり「それは違う!」と大きな声で反論した。「Mさん、それは違うよ。お母さんは勝手なことをしたかもしれないけど、Mの人生をメチャメチャにはしてないよ。Mの人生はMのものだもの、Mがメチャメチャにしない限りメチャメチャにはならないよ・・・」。その私の言葉が理解されたのか、どのように受け止められたのか、よくは分からないままだったが、それっきり、Mは何も言わなくなった。小1だったAは、涙を流さなかったし、何も言葉を発しなかったが、ただ、ずっと俯いていた。
今から思えば、せめて頭をなでるか、抱きしめるくらいすればよかったのに・・・。その時、私もまた、事実を伝えるだけで精一杯だったのだろう。(続)
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