しなやかにそしてしたたかに 玉城・沖縄県知事の中国訪問
- 2023年 7月 15日
- 時代をみる
- 中国宮里政充沖縄
玉城知事の動向
沖縄タイムスは7月6日の一面トップで、中国訪問中の玉城デニー・沖縄県知事の動向について次のように伝えた。
「 日本国際貿易促進協会(国貿促、会長・河野洋平元衆議院議長)の訪中団の一員として北京を訪問している玉城デニー知事は 5日、李強首相(中国共産党第2位)と人民大会堂で会談した。知事は、中国訪問に必要なビザ取得の手続き緩和や、中国―沖縄間の直行便の再開を要請。李首相は「関係部門に指示し、困難な課題が解決できるようにしたい」と前向きな姿勢を示した。」
玉城知事は、ビザを取得するのに福岡市の総領事館で手続きしなければならない現状の改善、直行便の再開によって中国と沖縄の人的な交流や物流の促進を求めたのである。この点について沖縄タイムスは「知事は県が取り組む地域外交は安全保障分野に特定せず、技術協力などを含め企業や市民と連携する考えを示している。今回の訪中で安全保障に言及していないのは、地域の平和構築には市民、経済分野での交流が前提として不可欠だと判断した結果だ」と解説している。
玉城知事は6日には現在沖縄と友好関係を結んでいる福建省福州市を訪問し、同省トップの周祖翼省党委員会書記と会談し、県と省の交流を促進させる重要性で一致した。周氏は習近平国家主席の「琉球」発言に触れた際、玉城知事は、交流をさらに続けていく責任がある、と応じた。
習主席の「琉球」発言とは、6月4日付の人民日報1面で、習主席が北京市の中国国家版本館を視察した際に琉球と中国の交流に言及したことを指している。習主席は福建省福州市で17年間務めたことを振り返り、「福州には琉球館、琉球墓があり、琉球との交流の根源が深いと知った」と発言していた。習主席はその際、次に述べる「閩人(みんじん)三十六姓」にも言及している。
福州市と琉球の関り
福州市については多少の説明が必要である。福州市はかつての朝貢貿易(14世紀後半から19世紀後半まで続いた)の窓口であった。したがってそこには琉球にまつわる施設がいくつかある。たとえば、福州で亡くなった琉球人の船員・留学生らを埋葬した琉球人墓苑や、中国へ貢物を献上するため派遣された琉球人らが拠点としていた琉球館(琉球王国の出先機関。琉球専用の滞在施設で中国側の手で設置された)などである。玉城知事はそれらの施設を視察し、沖縄独特のヒラウコーと呼ばれる線香を持参して焼香し、案内した職員に、沖縄にゆかりのある文化財を丁寧に保存していることに謝意を示した。
福建省にはさらに、歴史的に重要なことがある。それは、朝貢貿易が始まって間もなく、1392年に明の洪武帝から琉球王国に下賜されたという閩人三十六姓(那覇市久米に定住したので久米三十六姓とも呼ばれる)のことである。「閩」とは福建省のことである。彼らは職能集団であり、朝貢事務や船舶の運航に携わるよう琉球への帰化を命じられた。ただし、1392年以降300年間にわたり閩から渡来してきた者や首里・那覇士族から迎え入れられた人々も含まれる。習主席が北京で言及したのはこのような歴史的事実を指しているのである。
玉城知事の地域外交に対する熱意と福州市トップの反応
沖縄県は現在、福建省と友好関係を結んでいるが、玉城知事はこの件に関して、沖縄と中国の友好関係の強化を求め、「安定かつ建設的な対話で地域の平和が保たれるよう、首相の支持もいただきたい」と強調したのに対し、李首相からは「地方や民間交流は重要で、地域間交流を支持する」との返答があったという。
玉城知事は今年4月に「地域外交室」を立ち上げたばかりである。前述したように、沖縄は琉球王朝時代からおよそ500年にわたり中国と冊封(さくほう)関係にあり、朝貢貿易で経済的に潤った時期が続いた。馬や硫黄などの沖縄特産物だけでなく、東南アジア(マラッカ王国、シャムなど)や朝鮮との中継貿易によって手に入れた象牙、胡椒、蘇木(染料や漢方薬として用いられる)、錫それに日本産の刀剣類、扇など取引の品目は多岐にわたった。小さな島国に過ぎない琉球を経済的に活性化させるには中継貿易しかなかったのである。明・清朝はそういう琉球を特別に優遇した。大きな船舶を下賜しただけでなく、朝貢の回数も他の周辺国よりも緩和した時期もあった。そういう活況は世界の情勢によって次第に衰微していくことになるが、朝貢関係は少なくとも明治政府の琉球処分の直前まで続いていたのである。
今回の訪中に対する対応・評価
1 中国側
「環球時報」は6月末に実施された玉城知事との書面インタビューを3日付で1ページを割いて紹介。そのインタビューの中で玉城知事は、米中の軍事衝突は両国の国益を損なうとし、日米両国には「有事を未然に防ぐ役割」があると強調した。また、日本政府が進めている南西諸島の自衛隊強化に触れ、「軍事力による抑止力強化が予期せぬ事態を招きかねないことを憂慮している」と指摘。地域外交については、国家間外交と地域外交は別だとし、沖縄戦の経験から不戦を誓う沖縄の平和への願いを「積極的に世界へ発信したい」と意欲を示している。
2 日本政府
松野博一官房長官は、6日の記者会見で玉城デニー知事が中国の李強首相と会談したことに関し、「歓迎する」と述べ、民間交流の進展を期待した。
3 沖縄県政野党
6月末の県議会本会議で自民党県議から「訪中するなら領海侵入について抗議すべきだ」「中国側から『尖閣は中国の領土だ』と言われたらどう対応するか」などの質問があったが玉城知事は「今回の訪中の目的は経済だ」「発言しないことも一つの対応」などと回答した。
4 県政与党
新たな戦前の始まりと言われるほど平和が脅かされており、県の自治体外交をさらに強める必要がある。(共産党・渡久地修氏)
5 沖縄メディア
「玉城知事は極めて難しい舵取りを迫られるはずだが、挑戦しがいのある課題だ。県は『アジア経済戦略構想』を打ち出し、それを実現するため県庁内にアジア経済戦略課を設けた。地域外交室もスタートさせた。本年度中に『県地域外交基本方針(仮称)』を策定する。沖縄の地理的位置や歴史的経験に照らしていえば、理にかなった政策である。具体的な成果を目に見える形で積み上げ、県民に示していくことが何より重要だ」(沖縄タイムス7/7 社説)
「一部の専門家に、玉城知事の訪中が中国に利用される危険性を指摘する声がある。だが、有事が起きた際、真っ先に戦場になる危険性が強い沖縄だからこそ、地域外交に積極的に取り組む資格がある」(琉球新報7/9 社説)
私の評価
私のルーツは福建省福州出身の「陳華」なる人物である。記録によれば、彼は1617(万暦45)年、船主として福建省漳州の月港から広東向け出港したが、途中暴風に遭い琉球馬歯山(現在の慶良間島)に漂着した。一行は首里王府の役人鄭子謙などの取り調べを受けたが、陳華の学識の高さが評価され唐営(久米村)に宅を賜り住人となった。なお、陳華が漂着したころは進貢貿易に支障をきたすほどに琉球王府の要員が衰退していたため、久米閩人三十六姓の「欠を補う」王府の政策があって王府に仕えるようになったということである(「久米陳氏家譜集(総集編)2008・陳氏華源会歴史調査委員会編、「陳華公来琉400周年記念誌『華』久米陳氏華源会発行2017)。
そういうわけで、私は中国という国が好きである。ただし(これははっきり言っておきたいのだが)、現在の共産党一党独裁の中国を受け入れることは断じてできない。とは言いながら、私は十数年前に天津外国語大学付属日本語学校で2年間中学2年生から高校3年生まで、日本語を教えたことがある。実に楽しい2年間だった。大げさに言えばささやかな民間外交である。
私は玉城知事の今回の訪中は彼がイデオロギーの違う中国へイデオロギーをかざさずに訪問したことがよかったと思っている。知事が求めた経済的課題が少しずつでも解決されていくことが最も大事だからである。
私達は毎日メディアを通して、たとえばウクライナの絶望的な戦場のありさまを見せつけられている。「武力には武力を」ではない別の論理を探す努力をしようではないか。「そんなきれいごとを何度繰り返しても絵に描いた餅にすぎないよ」「日本を滅ぼすつもりか」などという声が聞こえてくるが、私達はまず、自分たちが選んだ政治家に向かってはっきり言った方がいいのだ。国会で居眠りしたり地元へ帰って愛嬌をふりまいたりする暇があったら、ウクライナやプーチンの所へ行って「つまらないからやめろ」(宮沢賢治)と説得し続けろと。それには勿論、撃たれて死ぬ覚悟がいる。
話の落としどころ
1609(慶長14)年、薩摩軍は軍3000人で琉球王国を制圧し、1611年には尚寧王と三司官に「琉球は古来島津氏の附庸国である」と述べた起請文に署名させた。これを拒んだ三司官の一人、謝名利山は斬首。そして同年、琉球王国の石高はおよそ9万石とした。ただし、薩摩は琉球を介した中国との朝貢貿易を存続させるため、「琉球王国」という社会の仕組みは変えなかった。そのかわり、那覇に在番奉行所を置いて琉球王国を間接支配するようになる。
こうして琉球は徳川幕府の支配体制に組み込まれることとなった。つまり、琉球は中国と朝貢関係を維持しながら、その一方で、日本の徳川幕府の支配を受けた。要するに、琉球は中国・日本に対し両属関係を保つに至ったのである。
この事実は中国が何と言おうと変えるわけにはいかない。「沖縄は中国に帰属する」などという主張は中国の政略であり、もしその主張が正しければ、かつて明・清朝と冊封関係にあった国々も中国に属するということになる。この問題については、日本を含めた関係諸国の歴史学者が連携しあって、論争を起こすことはできないものだろうか。これは武器を用いないでできる闘いである。
東大大学院総合文化研究科教授・川島真氏は、玉城知事が中国に求めた渡航手続きの簡素化のために「中国は那覇へ領事館を求めてくる可能性がある。習主席の何かしらの政治的含意を念頭に置く必要もある」と指摘しているが、同時に「明朝や清朝との関係史があり、その歴史的文脈に関わる交流も尊重されてしかるべきである」とも述べている(沖縄タイムス7/7)。
私は思わず、薩摩が那覇に「在番奉行所」を置いて琉球王国を間接支配したこと、いまだに沖縄に軍用基地を置き、「日米地位協定」によって日本の拒否権を認めないアメリカのこと、沖縄を「前線基地」として位置づけ、軍事費を増やし続ける日本国家のことを思い、複雑な気持ちになる。だが、私は上記の川島教授の考えに賛成である。中国の思惑を忖度するあまり、沖縄の地域外交の政策を委縮させることはない。
もちろん、難問は予想される。そしてその難問は玉城知事にだけ背負わせてはいけない。「ほら失敗したではないか」「やっぱり外交手腕がないね」などと揶揄する者がいるとすれば、それは日本の外交政策の失敗の責任を玉城デニー沖縄県知事に転嫁するものである。
私は玉城知事が難問を抱えながらも、しなやかにそしてしたたかに、前進し続けることを期待している。
(2023.07.13)
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