女・母・家族を問う(6) 障害者と結婚― 三木由和『ちょっとうるせぇ障害者』(社会評論社)より (その3)
- 2024年 5月 8日
- 時代をみる
- 池田祥子障害者
用務員からの脱出!
たまたま、友人の会話から、「テイジセイ」という「高校」が存在することを知った三木由和さん。木更津東高校定時制に入学し、そこで人間にとっての「生きるための基礎知識」を学び直した。しかも、授業が始まる前の時間に、毎日「個人授業」をしてくれた「邦子先生」を初め、三木さんにとって「人生の師」とも言える数人の教師との出会いは、本当に貴重なことである。
ただ、高校卒業後は、東京の小平にある「東京都身体障害者職業訓練校」に入所する。全国から、さまざまな障害者が集まって来る訓練校だ。半数ほどは寮生活。三木さんも寮生となる。訓練期間は1年間。最初の「製靴科」の面接時に、科長の高野先生に次のように言われる。
「本当は、お前は何かを作るという仕事はむいていないんだよな」
それでも、三木さんが「片手」を主に使いながら、製靴科を終了したことは前回触れた(2024.4.8)。
そして、晴れて⁉、新宿区の公務員=小学校用務員として就職する。
入区式は、1983年4月1日。この日、三木さんは「ネクタイを結び、スーツを着て」誇らしく自分の「門出」を迎えている。
しかし、小学校の中での「用務員」が、どれほど差別視され、冷遇されているか、三木さんは日々の現実の中で痛いほど経験させられる。しかも、さらに彼にはそれに加えての「障害者」差別が覆いかぶさって来る。
用務員時代のことは、「記憶にほとんど残っていない(記憶に蓋をした!)」と言う三木さんだが、何と、40年もの長い間、その用務員の仕事をし続けるのである。
ただ、その仕事をこなしながら、慶応大学通信教育部のスクーリングに挑戦し、日本史その他4教科8単位を取得し、自動車免許も「仮免」から「本免許」を取得する。
三木さんの「意地」なのだろう。
それでも心の「空しさ」は埋まらない。そんな三木さんを見て、高校の高橋清之先生(世界史)が勧めてくれたことは、「福祉」を学ぶこと、大学に入ること、ただし、「通信教育」ではなく「二部(夜間)」に入ること、そこで教員免許を取得すること。
英語が苦手な三木さんが、受験科目に「英語」がないこと!を上げて笑われるのだが、何と、実際に希望通りの大学が見つかるのだ!立正大学短期大学部社会福祉科二部である。ただし、大学の所在地は埼玉県熊谷市なのだ!
日中は「用務員」(東京都新宿区)として働き、午後3時半退出が特別に認められ(もっとも、勤務始めは5時30分)、それから1時間半かけて熊谷の大学まで通う。時に間に合わない時は、大宮から熊谷まで上越新幹線に1駅だけ乗る、という「裏技」を使ったりもしたという。
三木さんのバイタリティーに圧倒されて、今回も又々「来し方」を細かくフォローしてしまった。ここらで中断して、三木さんをめぐる「障害者と結婚」のテーマに移って行こう。
障害者と結婚
(1)「あのね、俺、結婚したいんだ」
定時制高校在学中から、映画「典子は、今」を一緒に見に連れて行ってくれた高橋清之先生は、卒業後も、しばしば映画やお芝居に誘ってくれた。
「用務員」の仕事でどうにも元気のない三木さんを、時々下北沢のお芝居に誘ったのも高橋清之先生だった。ある時。お芝居を見た後、先生が連れてきた友人含めて3人でお酒を飲んだり、喫茶店でお喋りをした時のこと。三木さんがいきなり「あのね、俺、結婚したいんだ」と。
― すると二人が顔を見合わせ、
「お前なんか結婚できるわけねーだろ。百年早いんだよ」・・・
「なんで?」・・・
「なんでって、俺たちがまだ結婚してないのに、お前にできるわけねーだろ!」(p148)
その先生の言葉を聞いて、三木さんは、「なるほど、そうか。言われてみれば、その通りかもしれない。三人で大笑いした」と記しているが・・・先生たちが「冗談」にかこつけたのは、本心だったのか、あるいは、「障害者と結婚」をめぐるこの世の「リアル」に対する三木さんへの「遠回りな牽制球」だったのだろうか。ただ、三木さん自身が「なるほど、そうか・・・」と自分なりに「納得」して「大笑い」した、というのは、三木さん自身の「タフさ」と、同時に併せ持つ「ナイーブさ」が、良くも悪しくも救ってくれたのかもしれない。
(2)「彼女」との出会い
三木さんが、用務員の仕事もこなしながら、立正大学短期大学部社会福祉科二部(夜間)に通い続けたことは、その肉体的な努力もさることながら、「社会福祉」を学びながら、「自己改革・自己改造」をよぎなくさせられたことは、やはり画期的である。高校の高橋清之先生のアドバイスのお蔭でもあるが・・・。
― 福祉を学ぶということやボランティア活動を行うということは自分が着ている物を1枚ずつぬいでいくという作業である。それまで自分の障害を打ち消すために健常者に近づくために必要なコートを羽織り続けてきた。気づけば、コートが鎧のようになっていた。(p.247-248)
「健常者―障害者」の図式の中で、いつしか重々しい「鎧」を纏っていた自分の姿に気づき、一枚、一枚とそれを脱いでゆく。しかも、二部の授業をこなすだけでなく、ボランティアサークルであった「アドレッサー」に入部し、しかも部長もこなしている。さらに卒業後もそのアドレッサーの仲間たちと、おなじくボランティアサークル「共生隊」を結成し、車椅子の講習会や身障者のための「車椅子で入れるトイレ設置」の署名活動など、現実的な運動も続けている。
おそらく、この頃の三木由和さんは、精力的でスッキリとした魅力的な「一人の人間」に脱皮していたのであろう。
詳しいことは書かれていないが、たまたま、サークルの担当の清水海隆先生が連れてきた複数の新入生の、その中の一人と「デート」の約束をし、「熊谷駅」で待ち合わせとなる。ところが、その日は道路が渋滞して、結果として「3時間」も遅れてしまった!ケイタイのない時代である。普通なら、「怒る」か「心配する」か・・・いずれにしても帰ってしまっても文句はいわれない。それなのに、彼女は「待っていてくれた」!これは凄いことである。
一体、どこで待っていたのか、駅のベンチに座って、3時間も待っていたのか・・・おそらく三木由和さんの「人間としての信頼感、魅力」抜きにはありえないことだと思う。
後日談ではあるが、その後、彼女は「アドレッサー」にも入部し、さらにその部長をも務めることになった。まさしく「同志」である。
(3)彼女の両親、そして由和さんの母親の「言葉」!
由和さんは記している。
― 付き合い始めたときに彼女の両親にきちんと挨拶をしておかなければならなかった。(p.250)
しかし、双方がどのような想いを抱いているにしろ、「付き合い始める」時はまだ「恋人」として始まる。だから、「友達」や「恋人」としては、わざわざ「両親にきちんと挨拶する」には及ばないだろう。
付き合い始めて「1年以上」の時が経つたころ、由和さんは彼女の家を訪ねる。するといきなり、彼女の母親の「結婚話には反対」ということを聞く。
彼女の母親は言う。
― だって、三木さん、あなた障害持っているし、短命でしょ!それに、子どもができて遺伝してもこまるでしょ。(p.250)
彼女の母親のこの言葉は、あまりにも赤裸々である。誰であっても即座の返答には困るだろう・・・。ただ、やはり、彼女との事前の情報交換や話し合いはもっとあっても良かっただろうとは思う。由和さんは、「肯定も否定もできず黙った」まま・・・駅まで送ってきた彼女が、由和さんの涙を拭ってくれたという。
一方で、由和さん自身の母親は、彼が「アドレッサー」の女の子と一緒に千葉の実家に帰った時のこと、こっそりと彼の耳元で囁いたという。
― おまえ、あの子普通の子じゃないか!おまえには障害があるんだから結婚なんて考えずに一人でいた方がいいんだよ!(p.252)
由和さんの父親が生きていればなんと言っただろうか・・・それにしても、日本の?「親子」というのは本当に真面目な「議論」ができないのかもしれない。由和さん自身も、「私は自分の母親の口からそんな言葉を聞くとは思わなかった」とあるだけで、その後に自分の母親といろいろと話し合った形跡は見られない。
日本の「家族」は、良きにつけ悪しきにつけ、現在でも、明治時代以来の「家」制度の意識を未だに引きずっている。つまり、「結婚」も「出産」も「家」のためと考えられてしまうのである。
「家」の「より良き継承」のためには、結婚相手は「経済的にも、人間的にも」「普通以上」が求められ、「生まれて来る子」は「家の跡継ぎ」ゆえに「優秀」であることが願われるのだろう。結婚も、出産も、この「家」意識から逃れられない以上、「障害者」差別が当たり前に温存され、継承されてゆく。
彼女の母親の言葉は、「自分の娘は健常者」という立場からの障害者差別であり、三木さんの母親は、「自分の息子は障害者」という立場からの「卑屈な諦め」と「健常者の恋人」への猜疑心からのものであるだろう。
由和さんの母親が、由和さんの彼女に、「あんた、由和と一緒になってくれるの?結婚してくれる?」と問いただした後の3人の修羅場!・・・普通なら、ここで由和さんと彼女の関係は、おそらく断ち切れてしまっただろう。
しかし、それでも続く由和さんと彼女の関係を軸にして、彼女の父親の感情はやがて「溶解」し、由和さんの母親も、時間の中で、周りの説得も効を奏したのか、2年という時間の経過も「味方」になったか、「いつ結婚するんだよ!」と聞いてくるまでに変わっている。「家族」というものが、「家制度」の甲羅から抜け出して、一人の息子と一人の母親、さらには一人の娘とその父親・母親という、個別の関係と感情を呼び出してくれるからだろうか。
もちろん、基本は、由和さんと彼女の、ボランティア活動とともに根気強く続けられてきた「関係=絆」があればこそ、である。
この本の読者として、わたしもまた、由和さんと彼女の二人の間に生まれてきた和香奈、彩音、駿太郎という3人の子どもたちのこれからの人生を、遠くからであれ、共に見守っていければと思う。(了)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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