経産省と原子力ムラは原発震災にどのように対してきたか(?)
- 2011年 9月 15日
- 時代をみる
- 9条改憲阻止の会
2011年9月14日 連帯・共同ニュース第151号
■ 以前に国会前で座り込み闘争をやっていたとき、こころの慰めになっていたのは銀杏の樹だった。物言わないけれど銀杏は日々微妙な変化を見せていて僕を驚かせていた。また、国会で演じられてきた日本の政治や権力の歴史を見てきたのだろうと想像もさせた。もし、銀杏が語り出したら優れた昭和史がかけるのだろう、と思った。この霞ヶ関は国会に隣接していて結構緑も多いと記したのだが、銀杏のことが記憶に残っていたのかも知れない。今、僕らが座り込みをしている経産省の一角の近くで若い女性が街路樹(つつじの樹)のところに座り込んで何やらしていた。彼女たちはガイカーカウンターで霞ヶ関一帯の放射能を測定しているのだった。覗いてみるとつつじの根元は1~1・3マイクロシーベルトである。1㍍の高さでは0・2マイクロシーベルト前後だった。まだ、これだけの放射能があるのかと驚いた。緑の多い霞ヶ関はそれだけ汚染度も高いのだろう。日本列島への放射能汚染の広がりをあらためて実感できる。
■ ある自民党の議員が「我々は原子力行政においては原子力ムラの言うことに従ってきただけだった」という反省の弁語っていた。原発を推進してきたのは経産省を中心とする原子力ムラであったことは今や誰もが知るところだ。原子力ムラは経産省の原子力保安院を中心にこの霞ヶ関一帯に存在する独立法人などで構成されているが、これが原発推進の基盤であったのは次のような理由である。一つは原発が国策色の濃いものとしてあったこと。もう一つは専門的な知識(科学技術的知識)を必要としたことである。官僚組織は専門的知識で行政の推力になるものであるが、特に原子力行政においてそれが必要だった。原発という原子力エネルギーの産業化においては科学技術という専門的知識は不可欠だった。これは原発の存在の可否、その判断には科学技術という専門的知識が避けられないものとしてあったからだ。原子力ムラの存在はそこから出てきたのであろうが、そこに居た専門的知識人はその役割を果たしえなかった。専門的知識による自立的判断で寄与するというよりは、御用学者ならぬ御用知識人として機能してきたのだからだ。批判的見解の排除、異端狩り等この原子力村の動きは大学や研究機関の支配にまで及んでいた。原発安全神話のお墨付きを与えていた。原子力村は原発震災に対して責任を負うべき存在だが、それから逃げて逆に原発再稼働→原発保存を画策している。ハンガーストライキも座り込み闘争も経産省を母体とする原子力ムラの解体を要求している。(文責 三上治)
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