友よ、あまりにも早き旅立ち
- 2011年 9月 30日
- 交流の広場
- 9条改憲阻止の会
2011年9月30日 連帯・共同ニュース第162号
9条改憲阻止の会
■ 夏目漱石に「有る程の菊抛げ入れよ棺の中」という句がある。ある句会で「あるだけの 菊なげ入れよ 死者若し」という句に出会った。漱石の模倣であろうと思った。漱石の句にはやや激情が感じられるが、やはりこの句の方が優れていると感じられた。今、知人が還暦を迎える前に早世した。ふと、この二句を想い出した。模倣句の方に感情を移入する自分がいた。
■ 久保田千秋君が昨26日に彼岸へ旅立った。59歳の若さであった。彼は腎臓疾患をかかえ、週三回の人工透析をうけながら教壇に立つ教師であった。「9条改憲阻止の会」のメンバーで平和を希求することにかけては人後に落ちない意志と思いを持った仲間であった。私が初めて彼の顔を記憶したのは「9条改憲阻止の会」運営委員会の席での事であった。我勝ちに、大声で、司会者の制止も振り切って発言をする委員が多い中で、寡黙で他人の発言を聞くことに専念しているような姿勢の彼がいた。物静かな男であり、人と激論をするということはなかった。しかし、一旦辻に立ちハンディーマイクを持つと落ち着いた口調で流れるように話しかけ、人の足を止めることに長じていたと聞く。
■ 「9条改憲阻止の会」が11日から経済産業省前のテント村で続けている「原発全廃」の抗議行動にも仲間とたびたび座り込んだ。23日もテントの前に静かに座っている姿があった。19日の原発反対の明治公園集会にも参加し、5時間近く行動した。今になって考えれば何処にそのような体力と気力があったのか不思議でならない。時間がとれる日曜日にはよく友人達と街角に立ち、ハンディーマイクで人々に話しかけた。25日にも数寄屋橋で街宣を行った。街宣を終えてお茶を飲んだときに彼は「私がいなくなってもこの街宣は続けてください」と言ったそうだ。友人はその発言の真意が掴めなかった。彼はその時既に己の運命全てを予感していたのだろうか。そして、翌日の旅立ち。まさに、「9条改憲阻止の会」の合い言葉「命尽きるまで」の戦いであった。壮絶な生き様である。私に彼のまねが出来るであろうか。確たる自信はない。私はこの追悼文を書きながら涙が流れ続けるのを止めることが出来ない。いつまでも涙を流していてはいられない。彼が追い求めた「反基地、反原発……」の炎を決して絶やすことなく、仲間達と一緒にもっと大きな炎に育てなければならない。仏陀よ、少しの時間を頂きたい。今はただ彼の安らかな旅路を祈りたい。合掌 (文責 冨久亮輔)
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