世の中は地獄の上の花見哉
- 2012年 1月 4日
- 交流の広場
- 9条改憲阻止の会
2012年1月4日 連帯・共同ニュース第210号
■ 年が明けた。相変わらずテントは立っている。誰も越年する、越冬するとは思っていなかった。けれども全国の脱原発の思いがこのテントに集まって支えていると思わざるをえない。花の季節には間があるが、小林一茶の句に「世の中は地獄の上の花見哉」というのがある。こじつけて考えてみると、原発立地の上にそこそこの繁栄があったといえるが、3・11の福島第一原発の事故はまさに、その繁栄の下にあった地獄を見せてしまったということに違いない。何が何でも原発をつくる。そのため立地町村や県に莫大な交付金を出す。場合によっては事業者が別途、寄付まで出して立地行政を慰撫する。基地交付金と全く同じ構造だ。沖縄の新崎さんが言う、麻薬だ。お陰で高校生までは医療費が無料になり、隣町では幼稚園までがやっと、という地域差も生まれる。交付金の薬効はたいしたものだが、これ無しにはやっていけなくなる。地域の住民が自ら考え努力することを無縁としてしまう交付金。原発による雇用の維持と付き物の豪華な「温泉施設」が特徴となってしまう。だから、福島の事故の後も、交付金が無くなるかも知れないという深刻な財政難を予測して、再稼働を期待し、新しい原発の建設を期待する動きも止まない。
■ だが本当に地獄を見てしまった以上、自らの命、これからの命のために「原発やめろ!」と声を上げるのは、人としてのギリギリの叫びである。地獄の上の花見を更に続けるのかどうか。もともと原発から出る大量の「放射性物質」を捨てる場所もないまま、原発の操業以来まったく無責任状態でやってきたのが実体である。経産省によれば最終処分場は平成44年までにどこかに決めるそうだ。仮に決めてからどうなるかって?! かつての日本陸軍が「止められない」まま戦争拡大を続けたのとこれまた同じ。電気が足りなくなる、日本には資源がない、だから原発というのも全部が嘘。次々と連続的に原発関連ゴミを増やし続ける「原発の運転」が許される道理がないのはこの点からも明らかなことだ。日本の政治がすぐに原発を止めるということを決めても、54基の原発を綺麗に片付け、放射能の危険を取り除くには、気の遠くなるような年月を要する。福島第一の廃炉だけで40年かかるとされる。それでも、国が「全部の原発を止める」と決めるだけで、微かな希望に向かって人々は努力を惜しまないと思う。今年は東日本大震災から復興の最初の年だが、福島の女性たちが創り出した「脱原発のうねり」が国の原発政策を根本的に改めさせる大きな市民的力としてなることを願う。 (文責:淵上太郎)
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