法人の刑事責任
- 2012年 1月 12日
- 時代をみる
- 宇井 宙法人の刑事責任
今朝(1月12日)の朝刊各紙は、朝日、毎日、東京、読売、日経ともに、JR福知山線(尼崎線)脱線事故で業務上過失致死傷罪に問われたJR西日本の山崎正夫前社長に対する無罪判決(神戸地裁)を社説で取り上げている。論調はいずれも、前社長個人の刑事免責が、組織の免責を意味するわけではない、という点で足並みを揃えている。現行刑法は、特別の法人処罰規定がある場合を例外として、法人に対する刑事責任は問えないと解されている。そのため、このような重大な企業犯罪が起こった場合は、経営幹部の刑事責任を個別に追及するしかない。ところが、個人の刑事責任を追及する場合には、具体的な危険発生の予見可能性や、注意義務などを厳格に解釈することによって、刑事責任の立証は困難になりがちである。
東電が引き起こした未曾有の原発人災については、すでに広瀬隆氏らが勝俣恒久・東京電力会長ら32名を業務上過失致死傷罪の容疑で東京地検に告発している。東京地検が果たして東電会長らを告訴するかどうかはわからないが、仮に告訴したとしても、今回の判決に見られるような現行刑法の問題性と日本の裁判官の現状から考えれば、無罪判決が出る可能性も決して低くはないと言わざるを得ないのではないか。
しかし、何かが根本的におかしいのではないか。問題はやはり、法人は刑事責任を問われない、という現行刑法の解釈にあるのではないだろうか。刑法学ではどのような議論が行われているのか知らないが、憲法判例では全く逆に、法人にも自然人と同様に人権はある、という議論がなされている。リーディング・ケースは1970年6月24日の「八幡製鉄政治献金事件」最高裁大法廷判決で、その中で最高裁は、「憲法第3章に定める国民の権利および義務の各条項は、性質上可能なかぎり、内国の法人にも適用されるものと解すべきであるから、会社は、自然人たる国民と同様、国や政党の特定の政策を支持、推進しまたは反対するなどの政治的行為をなす自由を有するのである」と判示している。なんと、法人も自然人(個人)と同様、政治的行為の自由やその前提となる精神的自由を有する、というのである。近代市民革命の意義に徹底的にこだわる樋口陽一氏などは、「自然人の人権と法人の権利というものを同じランクで並べるという発想は憲法史をまったく無視した」「大変な議論なのです」と言って批判している(『もう一度憲法を読む』)が、憲法学界の通説はいつのまにか法人の人権主体性を受け入れてしまっているようである。
私個人は法人の人権主体性を否定する樋口説に共感するが、刑事責任の主体性については、それこそ、「性質上可能なかぎり、…法人にも適用されるものと解すべき」なのではないだろうか。法人の刑事責任主体性を改めて再考すべきであろう。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔eye1780:120112〕
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