旧ユーゴスラヴィア戦争をめぐる、「ハーグ戦犯1号の日記」(5)
- 2012年 1月 13日
- スタディルーム
- 岩田昌征
11、疎開
マイキチがハンドルをにぎった。私は、ムスリム人見張番がコントロールしている地域を安全に通り抜ける道を探す役目だった。教会の中庭を出る直前、SDAのムスリム人活動家がやじった、「タディチよ、私達が一番つらい今、出て行くなら、二度とコザラツに戻ってくるな。」「あなた達は戦いを選んだ。私はすぐにコザラツに帰って来る。出来るんなら、阻止してみろ。」
500メートル走った所、制服を付けた隣人バホニチが道の真中に立ちふさがった。覆面、緑色の制服、緑色のベレー、ムスリム人準軍事組織の徽章が目立っていた。狂ったように自動小銃を私達の車へ向けた。「止まれ」と「NIPPON」の元常連客が叫んだ。「お隣さん、何故通ってはいけないのだ。子供達だけを連れていくのに。」(P.33)「命令なのだ。元へ戻れ。」私はピストルを握りしめ、ドライバーに言った、「左へ、町の中心へ、別の道、コザラを抜ける道を。」子供達は泣いていた。その道は筆舌に尽くしがたいほど混雑とパニックに満ちていた。そのおかげで、誰も私達の車に注意を向けなかった。・・・・・。私達の前方にムスリム人兵士の封鎖線がもう一つあった。そして、そこが私達に残された唯一のコザラツからの出口だった。私達は車を全速力でコザラ山頂へ走らせた。ムスリム人兵士の一団が立ちはだかって、一人が銃を振って車を止めようとした。聖職者は速度をゆるめ、止まろうとしたが、とっさに私は大声で叫んだ。「速度を落とすな、加速、加速、止まるな。」マイキチは一寸の間ためらったが、私の言う通り、ムスリム人兵士達の間を突っ切った。ふりかえると、兵士の一人がバズーカ砲を私達に向けていた。その間、聖職者は「神よ助けて、神よ助けて。」と切れ目なくとなえ続けていた。
30分程後、私達は、セルビア人軍のパトロールのかたわらをグラディシカ・バニャルカ道路へ向かって走っていた。その日の終り頃、セルビア人勢力が押さえていたバニャルカに着いた。とうとう安全な場所に着いたのだ。・・・・。私の妻と子供達はそれ以来コザラツの我が家に帰っていない。(P.34)
マイキチは、教会と住宅の鍵を私に託して、定期的に教会の土地財産を見まわるように頼んだ。翌日私は一人でコザラツに戻った。そしてSDSの何人かの義勇兵と共に私達の土地財産を見張り、守り続けた。
数年後、私は隣人のマニヤックな男ニハド・セフェロヴィチの口から出た嘘言を聞いた。彼は、私が92年夏の戦争中にムスリム人警察官グループを捕虜にして、その時に警察指揮官オスマ・ディドヴィチをコザラツ教会の中庭で殺害した、と執拗に非難した。武力衝突の時、私はコザラツにいなかっただけでなく、そんな犯罪はプリェドル・オプシティナのどの正教会の前で、コザラツの正教会の前でも決して行われていなかったのである。
12、秘密の宣戦
三つの民族政党(SDA、SDS、HDZ)は出来るだけ有利な地位を占めようと、それぞれの民族の動員と武装に懸命であった。SDS党員として私もこの仕事で自分なりの貢献をした。
コザラツの少数派セルビア人の生命は大変に危険だった。毎日電話で脅迫され侮辱された。ムスリム人準軍事部隊がこの小さな町をパトロールしていた。(P.36)コザラツのすべての入口と出口では誰が出入りするかをコントロールしていた。ポトコザリェの情勢は混沌としており、あらゆる人が自分で知っており出来るやり方で武装した。この仕事で儲けた者も多かった。私は何回かSDS指導部とオプシティナ警察幹部にコザラツ・ムスリム人の大衆的武装化に注意するよううながした。私はどこから武器がとどくのか、と自問した。私がこの件で話し合った人々のまさしく一部がそれに関与していた事を知らないままに、だった。利得者連中の中に警察署長シモ・ドルリャチャと警察指揮官ドゥシャン・ヤンコヴィチがいたし、オプシティナの政治、軍事、警察のトップにいる何人かの人々がいた。武器陰謀のために当時の党議長スルジョ・スルディチ博士がプリェドルのSDS第一人者の職務から排除されたのだ。(P.37)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study432:120113〕
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