「もし、秩父蜂起農民だったら? その後は?」近現代史講座で!
- 2012年 2月 3日
- 交流の広場
- 増田都子近現代史講座
皆様
ある会員制サークルの近現代史講座の講師をする中で、毎回、私の考えた一つの論題について、意見を書いてもらっています。今回は「日清戦争と国民」の学習をする前に、以下のようなテーマについて書いていただきました。私は「過去を学ぶことは、現在をどう生きるかを考えること」だと思います。お二人の方に、意見の転載の承諾を得ましたので、ご紹介します!
さて、あなたが秩父蜂起農民だったら、その後は、どのような人生を送られたでしょうか?
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「あなたが、1884年当時、30代の秩父蜂起農民で、幸いに死刑にもならず獄死もせず、出獄することができたとき、その後はどのように生きたと思いますか? その10年後が日清戦争で、その10年後が日露戦争であることを前提に、その後の秩父蜂起農民の人生を想像・創造して書いてください!」
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*自分がもし、秩父蜂起農民だったら・・・まず、出獄したら地元を離れ、どこかの大規模工場で働くと思います。日清戦争の影響で生活は良くなるも、勝利にたいして、釈然としない思いが湧いてくるはずです。ただ、以前の経験から、そして世間の風潮から、声を上げても効果はないと思い、 なにか行動を起こすこともなく現状のまま一生を終える・・・ような気がします。
以上、悲観的できっと問題があるとは思いますが、僕の考える、秩父蜂起農民のその後です。
*(30代で蜂起に連座したと仮定)
獄中生活が10年前後として、出獄後「前科者」に故郷は閉ざされ定職は難しいので日雇い生活をしばらく続けてから香具師に転身する。渡世人となって全国行脚に出る。時には必要に駆られてその地の大金持ちの邸に忍び込んで金目のモノを盗み出して生活の資に換えたこともある。全国行脚の生活の中で否応なく各地の貧民階級の生活苦、迫害・差別を受ける部落民、琉球の民、アイヌの民と交流することになる。
香具師渡世の全国行脚の生活から東京に戻ったのは5~6年後、既に40代半ばを過ぎていた。既にこの国は「大日本帝國」などという夜郎自大な看板を掲げて台湾を植民地化して釣魚台を窃取し、本格的に朝鮮を乗っ取る政策を進める中でロシア帝国とも干戈をまじえる準備に取り掛かっているところであった。偶々、根岸近辺の居酒屋のすみで隣席の酔客たちの話を聞くともなしに耳に入ってきたところでは、「藩閥政府のゴロツキどもはいよいよロシアとも朝鮮を分捕る強盗戦争をやらかすつもりらしい。
ついこの間清国に戦争を仕掛けたばかりではないか。亡くなった勝先生や兆民先生が生きていたらなんとおっしゃることか・・。つい先頃も片山君たちの社会民主党結党申請が即日却下に遭ったようだし、軍需資源の銅の乱掘でひどい鉱毒被害を受けた足尾・渡良瀬川流域の農民たちの先頭に立って田中くんが激しい抗議を政府にぶつけている。なんとしてもこの戦争は阻止しなくてはいけない・・。」話の合間に聞こえてくるのは「幸徳くん、堺くん、大杉くん・・」というお互いの呼び名であった。その後ぼくもその人たちの酔談の輪に入れてもらって、全国行脚で見聞してきた諸国の人々の生活状態を聞いてもらった。
こうしてぼくは、再び日雇い労働者兼香具師渡世に加えて「萬朝報」(その後「平民新聞」)の編集下働き、売りさばきの仕事を手伝いながら、勝先生、兆民先生の遺著を貪り読んで、自分が連座した「秩父叛乱」を捉えなおし、アジアを見る眼を養うことができた。秋水先生からは「社会主義」「無政府主義」を学んで労農同盟の必要性を模索し始めた。そのごの「大逆事件」のデッチ上げでぼくがどういう運命に見舞われたかは、いずれまたの日にお話しよう。
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