旧ユーゴスラビィア戦争をめぐる、「ハーグ戦犯1号の日記」(8)
- 2012年 2月 17日
- スタディルーム
- 岩田昌征
19.再び「NIPPON」へ
コザラツ地区で発生した戦斗を家族と共に滞在していたバニャルカでテレビ・ニュースで観ていた。戦斗終了後数日たって、私は弟(or兄:岩田)リュウボとコザラツへ行き、家族の土地財産をみてまわった。
コザラツの入り口で戦車隊指揮官の旧友ミラン・ヴラチナに会った。(P.52)一緒に「NIPPON」へ向った。小中学校の近くで死体収容中のトラックを見た。荷台からは積み上げられた死体が突き出ていた。自分の店に入った。「君の店を守ってあげた。コザラツに突入するや、部下達と一緒にここへ飲みに来たんだ。以前いたウェイトレスはいなかったがね。」とミランは冗談を言った。店は弾丸で穴があいていたし、略奪もされていたが、まだ使用可能だった。再びバーのうしろに立って仕合せだった。私、弟(or兄)、ミラン、何人かのセルビア人と飲み交し、割れたガラス窓から銃火器の一斉射撃音がきこえても誰も気にしなかった。(P.53)
20.モニカ・グラスのへま
(標題が内容に合わない。内容は「17.恐るべき告訴状」の続きに当たる。省略する。:岩田)
21.勝利に酔って
プリェドル・オプシティナへ戻って、私はコザラツの生活再建、電気、水道、医療センター、郵便、警察の再建に他の人々と共に努力した。1993年6月から民警として活動した。また赤十字委員としても働いた。しかし、コザラツには住む所がなかった。
プリェドルの政治、軍事、警察の幹部の若干名は勝利に酔いしれ、好みで人を逮捕し、好みで人を釈放していた。その結果自分達相互間でひんぱんに衝突を起こしていた。私はプリェドル防衛評議会の委員として不注意と無責任に抗議の声をあげていた。略奪したのは誰か、盗人は白日の下にさらすべきだ、と問うた。彼等は口をつぐんでいろと私に言った。
ドイツにいたコザラツ出身のムスリム人達はドイツ国営テレビのカメラの前で私がオマルスカ収容所司令官であり、1992年の戦争でプリェドル・オプシティナで起こったことすべてに最も責任あるセルビア人であると語っていた。かかるストーリーに加担したのは、プリェドル有力者で私の批判的言動に不愉快だった者達であった。(P.55)
1993年2月初めドイツ国営テレビのチームがプリェドルにやって来た。ジャーナリストのモニカ・グラスがリーダーだった。セルビア人共和国の最高権力がテレビ・チームに収容所訪問を許可していた。モニカはプリェドル警察指揮官ドゥシャン・ヤンコヴィチに「誰と話す事を勧めますか」と問うと、彼は「ドゥシコ・タディチだ。最も良く事情を知る人物だ」即座に答えた。ドイツ人達は公式の通訳と、ガードの私ドゥシコ・タディチが旧知の警察官2人と共に私の所へ来た。「オマルスカについて、何故私と。」「あなたは収容所で起こった事すべてをご存知だと言われてきました。オマルカスとどんな関係があるんですか。」こう問われて、私は警官の一人に向ってたずねた、「彼らを私の所へよこしたのは誰ですか。私はあなたともあなたの同僚とも一緒に働いていた。あんた方二人は私がオマルスカ収容所の職務に決してついていなかったことは御存じのはずだ。」(P.56)警察官は答えた。「知っているさ、でも指揮官のヤンコヴィチがあんたの所へ案内するように命じたのだ。」私はおこった、「彼等をヤンコヴィチの所へ連れて行け。彼がオマルスカで起こったことを知っているのだ、と彼等に伝えてくれ。」私はインタビューを拒否して外へ出た。
ドイツ・テレビのカメラマンは私が白色の毛皮のエリのついた黄色い上衣を着てコザラツの荒れた人気のない通りを歩く様子をひそかに撮影していた。モニカはドイツに帰ると、たくみな、しかし汚いモンタージュをつくった。1992年夏にとられたオマルスカ収容所の映像に1993年2月の私の姿をモンタージュした。これが私に対する告発の「堅固な」証拠の一つとなった。
ヤンコヴィチは、収容所で実際に仕事した者達の痕跡をかくそうとして、意図的にドイツ人ジャーナリストを私の所へ送り、誤った方向へ案内したのだ。署長ドルリャチャと指揮官ヤンコヴィチがプリェドルの全警察力を握っており、オマルスカ、ケラテルム、トルノポリェの諸収容所で起った諸事件について最良の情報をもっており、最大の責任を有する。これは論駁の余地がない。(P.57)。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study441:120217〕
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