旧ユーゴスラヴィア戦争をめぐる、「ハーグ戦犯1号の日記」(15)
- 2012年 4月 17日
- スタディルーム
- 岩田昌征
36 牢から牢へ
それからの7日間は真の悪夢であった。無情な裁判官僚制の鉤爪にかけられていた。まるで玩具のように私は牢から牢へ移された。新聞もテレビも拒否されて、誰が何故に私の生命をもてあそぶのか分からなかった。
カフカの『審判』の最初にこうある。「誰かがヨーゼフ・Kを中傷したにちがいなかった。何もしていないのにある日逮捕された。」私もドゥシコ・Tを誰が中傷したか知らなかった。7日目に私の冬物入りのスーツケースがとどいたと知らされた。翌日看守が来て「タディチ!用意!聴取に行け。」と呼んだ。ある広間へ連れて行かれた。そこでは300人ばかり囚われの人達が最初の取調べを待っていた。100平米ばかりあった。(p.95)広間の照明は弱く、囚人達の顔はよく見分けられない。300人に一つのトイレだった。白人、黄人、黒人と様々の人種がいた。一日中待って、私の名前が呼ばれ、当番判事は逮捕の理由を述べ、カールスルーエの連邦検察局の要請で翌日そこへ護送されると申し渡した。1994年2月20日、警察車輌の後部座席に手錠のまま座らせられた。ミュンヘンの外へ向った。数人の武装警官が一緒だった。しかし、ある種の希望が湧いて来た。この悪夢はまもなく消えて自由になれるだろうと信じた。私は負わされた罪状と全く無関係だと分かっていたからだ。その事はすぐに明らかになり、逮捕はドイツ警察の誤りであることが示されるだろうと信じた。(p.96)
ヘリコプターが待機していた。投げ込まれ、足を座席にしばりつけられた。手錠もはめられたままだった。ヘリコプターには二人の警察官が同乗していた。一人はミュンヘンで私を逮捕した男だ。6時間飛行してカールスルーエに着いた。ドイツ連邦裁判所の巨大な建物の近くだった。(p.97)ある建物の6階の事務室で連邦検事と通訳の到着を待った。通訳がやって来た。アルバニア人であった。10分後に検事がやって来た。
「ドゥニチなる人物を知っているか。」
「知ってる。」ドゥニチは私達家族の友人で、長らくミュンヘンで働き、名声と財産を築いていた。
「その紳士がミュンヘンのボシとウフェル両氏をあなたの弁護士としてやといました。彼等があなたを弁護する全権委任に署名しますか。」私は嬉しかった。外国で誰かが私のことを考えてくれている、私は一人ぽっちではない、と。
「弁護士のボシ氏とウフェル氏が私の全権弁護士となることに同意します。」検事は電話の受話器を差し出した。手錠のままであったが、どうにか受話器を耳にあてると、(p.98)ウフェルの声がして、言った。「タディチさん。彼等と一切話をするな。私の次の指示を待て。」ドイツ検事との話は終了した。(p.99)
37 いつも手錠つき
その後近くの牢獄へ入れられた。房は幅2m奥行3m。金属製ベッド、小さなタンス、さびついた放熱器、裸電球、錆びたくぎで打ちつけられた窓、鉄格子…。世界で最も金持の国の牢としてはまことに貧弱。
電球を消そうとした。消えない。看守は言った、「電球は昼も夜もつけっぱなしだ。それが規則だ。」(p.100)
38 散歩もなし
ミュンヘンの通りで逮捕されて以来はじめてシャワーを使った。(p.102)シャワーをあびている時、私を浴室へ連れて来た女性看守が私を見守っているのに気付いた。いぶかしげに彼女を見ると、何も言わずに片手をふっただけだった。多分拘置所の規則なのだろう。
2ヶ月間カールスルーエの監獄にいた。その間散歩や外気にあたることは許されなかった。
ある朝再びミュンヘンへ戻された。カールスルーエからミュンヘンへの移送はミュンヘンからカールスルーエへの場合と全く同じやり方だった。ミュンヘン近郊のシタデルハイム監獄へ。(p.103)
39 完全な監視
ミュンヘン近郊シタデルハイム監獄、囚人服に着替えさせられ、4階の特別房に入れられた。そこは世に知られた房であのテロリスト組織「赤い旅団」(これはイタリアの極左組織の名称、バーダー・マインホフの「ドイツ赤軍」と混同しているかも。岩田)のメンバーが閉じ込められていた所だ。(p.104)
この房には扉が二つあって、一つは本物、他の一つは偽装であった。誰も逃亡できないようにする為だ。居住設備も監視設備も十分な部屋だった。「赤い旅団」と「バーダー・マインホフ」の房は広く、あたたかく、以前に私が入れられたどの房よりもずっと清潔であった。2ヶ月ぶりに深い眠りについた。すると強烈なライトが私の顔にあびせられた。監視用のガラス壁の向う側に看守がランプを持って立っていた。「通常のコントロールだ。」後になって知るのだが、看守は夜中1時間毎に目ざめさせるやり方で私をコントロールし得るのであった。(p.105)
40 足枷の重荷の下で
1994年4月、ミュンヘンのセルビア人達は私の釈放を求めてデモをした。私の弁護費用カンパも行われた。しかし、期待された効果はなく、8ヶ月以上が過ぎた。弁護士達はムスリム人証人達による私への告発のどれ一つとして裁判開始前に反駁することが出来なかった。
弟(or兄)ムラデンと彼の妻スザナの行為に激怒した。カンパの5万マルクを私の弁護にあてず、全額自分の手元においた。弁護士ステファン・ウフェルと協力者達に債務を負ったまま、ドイツからボスニアに逃げてしまった。私は一人ぽっちにされた。金もなく弁護もなく無力であった。西側では金額分の音楽しかないのだ。(p.106)
調査判事は「今日まで刑罰をうけたことは?」ときいた。
「ない」
「証人達はBiH戦争以前あなたはムスリム人があなたの店へ来ることを禁止していたと証言しているが。」
「それは嘘だ。健全な論理に合わない。彼等が私の店の主なお客さんだったのだ。コザラツの町の95%がムスリム人なのだ。」
「証言によると、あなたはコザラツ攻撃と占領に積極的役割を果していた、とあるが。」
「コザラツ攻撃は5月24日だ。その時私はバニャルカの家族の所にいた。」
「10人の直接目撃者が証言するには、あなたはオマルスカ収容所に居て、囚人達が性器をおたがいに傷付け合うように強制したそうだが。」
「オマルスカ収容所に一回も行ったことがない。」
「とすると、どうして証人達はあなたをそこで目撃したのだろうか。」
「二つの可能性がある。一つは証人達が嘘をついている。もう一つは人違いだ。」
「人違いと言われるが、その意味は何だ。」
「私の所為とされている犯罪が実際に起こったかぎり、私の存在を利用した人物がおそらくやったのだ。真の実行者をかくす為に私を利用したのだ。オマルスカ収容所安全管理職の誰かがこんな偽装を行ったと私には思われる。プリエドルのセルビア人警察の誰かが私にぬれぎぬを着せたという可能性もある。」(p.107)
「人違いと言われる時、あなたの兄弟の誰かと。」
「ノー。私が1993年聞き知った所によると、オマルスカ収容所に私達と間違われるくらい良く似た人物がいた。」
「別の11人の証人達もあなたがオマルスカ収容所にいたと証言できるし、彼等はあなたに責任がある他の犯罪についても証言している。」
「オマルスカ収容所にいたことはない。そこで任務についたことはない。私がオマルスカについて知っている事すべては、新聞と証人達の話による。」
「トゥルノポリエについて、そこであなたを見たという証人が5人いる。」
「トゥルノポリエには5回行った。私がそこに行った時、誰でもが自由に出入り出来ていた。誰かが力で閉じ込められていたと言う印象がなかった。1992年10月にトゥルノポリエにいた。国際赤十字チームの訪問を警察官として警固していた。ムスリム人難民達がクロアチアのカルロヴァツ経由で西欧諸国へ移送されていた時だ。」
「ケラテルム収容所にいたと言う証言については。」
「そこにいたことは決してない。」
1995年初、ドイツ検察は私の精神鑑定を要請した。私の心に高度の攻撃性、サディズム、精神分裂症がある、と。そうなれば、私の所為とされた諸犯罪の怪物性を検事が裁判で立証し、説明しやすくなると言う訳だろう。私は精神鑑定に応じた。そんなリスクにかけることにした。私自身について真実を証明する唯一の方法だったから。(p.108)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study478:120417〕
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